第255話「議題の書き換え」
「……議長」
クロダン共和国の代表が、低い声を出した。
議場が静まり返っていた。オルディーン議長があの言葉を口にしてから、まだ一分も経っていないかもしれない。それでも沈黙は長く感じた。
「議長権限において、議題を変更する」
オルディーンが台上に立ったまま、静かに言った。「今日からこの場は、処分の是非を問う査問会ではない。人と魔物が共に在るための条件を、設計する会議だ」
クロダン代表が立ち上がった。大柄な男で、その体が動くだけで議場の空気が変わる。
「そのような権限は、議事規則の何条に基づいていますか。査問会は全加盟国の合意によって召集されたものであり、議長の一存で議題を変更することは——」
「ある」
一言だった。
クロダン代表は口を開いたまま、閉じた。
俺の隣でカイルがごく小さな声で言った。「本当にあるのか、あの権限」
「あるんだろ。なければ誰かが止めてた」
「……なるほど」
カイルが黙った。
セルウィンが手元の書類を見ていた。査問官として長い間「裁く側」に立ち続けてきた人間が、これからどちらに立てばいいか分からなくなった顔をしていた。申し訳ないとは思う。でも、どうにもしてやれない。
やがて議場にじわじわとしたざわめきが広がり始めた。処分の確定を待っていた人間たちが、突然「設計の会議」を告げられた戸惑いだった。
最初に手を挙げたのが誰だったか、俺はしばらく確認できなかった。
見回すと、小さな島国——リンの代表だった。
「聞いてもいいですか」
セルウィンが反射的に「どうぞ」と答えた。体が覚えていた。査問の進行係として座り直していた。本人はまだ気づいていないかもしれない。
リン代表が立ち上がる。背が低くて、議場の大柄な代表たちの中では埋もれそうな人間だった。でも声は通った。
「魔物の側に、漁の協定は結べますか。海に近い区域について、以前から問題があって」
ざわめきが変わった。処分の是非ではなく、具体的な要求が飛び出たことへの戸惑いだった。
俺は何も言わなかった。
ゴブならこの質問に答えられる。「来た者」に取り次ぐことも、カイルのスキルを通じて試みることができる。でも今は俺が出る場面じゃない。
オルディーンが答えた。
「魔物の代表者との窓口は、調停者を通じて設ける。要望は記録する」
要望の記録。
査問会が、設計の場に変わった瞬間だった。
クロダン代表が再び立った。「これは処分の先延ばしです。議題変更を口実に手続きを骨抜きにするつもりなら——」
「記録してください」とリン代表が静かに言った。「クロダンの懸念も含めて」
クロダン代表が口をつぐんだ。
自分の言葉が「懸念として記録される側」になったことに、まだ慣れていない顔だった。
その日の帰り道、カイルが並んで歩きながら通信石を確認した。数字が浮かんだ。
【査問集計:賛成票——集計停止/議題変更】
「処分を求めても、もう記録されない。賛成票を積み上げても、意味がなくなった」
「ガレスに伝えておいてくれ」
「もう伝えた」カイルが言った。「……目が赤かった」
それはつまり、泣いたということだ。でも俺はそれを言わなかった。
宿の部屋に戻って、俺は窓から議事堂の方角を見た。夜になってもまだ灯りがついていた。誰かが残って、今日の要望を記録しているのだろう。
リンの漁業協定の話が最初だった。
人類連合の会議で、魔物の側との漁業協定が最初に議題に乗ったということは、後世に笑い話として伝わるかもしれない。あるいは真剣に語り継がれるか。どちらでもいいと思った。大事なのは、誰かが最初に手を挙げたということだ。
翌日から、会議の空気が少しずつ変わり始めた。
二日目は、まだ多くの代表が黙っていた。議場に来はしたが、口を開かなかった。処分を求めていた側にとっては「負けを認めた」感覚が抜けていないのかもしれない。クロダン代表は今日も来て、今日も一言も発しなかった。
三日目に、ドラズの代表が動いた。
軍需国家ドラズ。「平和が国を滅ぼす」と言い切った国だ。剣を鋤に打ち直せないかと俺が提案して、「考えさせてくれ」と答えたあの代表が、朝一番に手を挙げた。
「魔物の素材を使った武具の規格化について、提案があります」
カイルが俺を見た。俺も同じ顔をしていたと思う。予想していなかった。
ドラズ代表は続けた。「魔物側から安定的に素材を得られるなら、我が国の鍛冶技術と組み合わせて新しい産業になる。武器でなく農具でも、建材でも。鍛冶師は仕事が続けられる」
誰も喋らなかった。
やがてリン代表が言った。「……その鍛冶師を、うちの島に呼ぶことはできますか」
「検討する価値はある」とドラズ代表が答えた。
五日前まで互いの処分を求め合っていた人間たちが、今は産業の話をしていた。
俺はその光景を見ながら、何も言わなかった。言わなくていいと分かっていた。
これが、本番だ——その時初めて思った。
四日目。
山岳国カレドの代表が、珍しく手を挙げた。寡黙を美徳とする国の人間が、場の流れを確かめるように一瞬間を置いてから立ち上がった。
「魔物の側に、山の道を通らせているものがいるか」
俺はカイルに目配せした。カイルが通信石を通じて確認を試みる。少し待って、返答が来た。
「第七迷宮の周辺に、山を越えない方法を選ぶ種族が何組かいるそうです。詳しくは、調停者の窓口を通じてほしいと」
カレド代表がうなずいた。「ならば、その窓口を開けておいてほしい」
「開けています」と俺は初めてその日の言葉を出した。「閉めたことがないので」
カレド代表が一瞬だけ目を細めた。笑いかけたのかもしれない。すぐに元の無表情に戻ったが。
議場の奥でセルウィンが、進行表に何かを書き込んでいた。査問の審問記録ではなく、要望の整理表だ。いつの間にか、そちらに移っていた。
途中で俺と視線が合った。セルウィンが一瞬だけ固まって、また書き込みに戻った。
何か言いたそうだったが、今はその時間じゃないのかもしれない。急かすつもりもなかった。
六日目の朝、廊下でセルウィンに会った。
向こうから声をかけてきた。「少し、いいですか」
珍しいことだった。セルウィンがこちらから声をかけてくるのは。
「聞きます」と俺は答えた。
セルウィンが少し考えてから、短く言った。「私は……議題が変わった日に、「どうぞ」と言いました。あれは、反射的なものでしたが」
「はい」
「……良かったのかどうか、今でも分かりません」
俺は少しだけ考えた。
「分からないままでいいと思います」と俺は言った。「「どうぞ」と言えた。それだけで十分です」
セルウィンが何も言わなかった。少しの間黙っていて、それからうなずいて、また歩いていった。
背中を見送りながら、俺は何かを感じた。この人も、ずっと「裁く側」で立っていた。裁かれる側に立ったことがない。それは強さではなくて、たぶん一種の孤独だったと思う。
「どうぞ」と言えた、そのことが、一歩なのかもしれない。
五日目の夜、ガレスが宿に来た。
「あの強硬派の連中は、どこへ行った」
「まだいる」と俺は言った。「クロダンの代表は今日も来てた」
「しゃべったか」
「しゃべらなかった」
ガレスが腕を組んだ。「それが怖い。黙ってるのは、何かを待ってるということだ」
俺も同じことを考えていた。
票が止まった。集計が無効化された。でも各国の「処分を求める気持ち」が消えたわけではない。会議の形が変わっても、その根は残っている。怒りは、出どころを変えるだけで消えない。
「警戒はしておこう」と俺は言った。「でも今は、出てきてから聞く」
ガレスが低く笑った。「まあ——聞いてから判断するというやつだな」
俺は少し驚いた。ガレスがその言い回しを使うようになったのは、いつ頃からだったか。気づかないうちに馴染んでいた。
「そういうことです」と俺は言った。
「お前のせいだ」ガレスが言った。「あんな言い回し、軍の中で使える気がしなかったんだが——昨日、若い部下に言ったら「それ、調停者の言葉ですね」と言われた」
「認知されてる」
「誰のかが問題だ」とガレスは言ったが、怒っている声ではなかった。
少しの間、部屋に静けさが戻った。
「……疲れたか」とガレスが聞いた。
「少し」と俺は答えた。「でもあと七日だ」
「七日で終わるか」
「終わらせる」
ガレスが「お前がそう言うなら」とだけ言って、立ち上がった。
七日目の朝、カイルが通信石を持ってきた。「ゴブから」
受け取ると、低い声が聞こえた。距離があって少しざらついている。
「——聞いてるか、レン」
「聞いてる」
「会議になったと聞いた」
「なった」
しばらく間があって、ゴブが続けた。「昨日、来た者から話があった。設計の場に、俺たちも何か出せることがあるかと」
「出せることはあるか」
「あると思う。ただ、俺が一人で決める話じゃない。カイル様と確認してからにする」
「それでいい」
「レン」
「何だ」
ゴブが少し間を置いた。
「……もう少しで、終わる気がするか」
正直に答えた。
「わからない。でも、何かが始まった気はする」
ゴブがしばらく黙っていた。
「それなら」ゴブが言った。「——まあ、聞いてから判断する。俺も」
通信が切れた。
俺は通信石をカイルに返しながら、少しの間そのまま立っていた。ゴブがその言葉を使うとき、いつも少しだけ不意を突かれる。あの夜、扉の前で震えていた小さなゴブリンが、今は第七迷宮の正式な門番で、俺に向けて「まあ」と言う。
嬉しいのか、寂しいのか、よく分からない。たぶん、両方だ。
「何か言ったか」とカイルが聞いた。
「いい話をした」とだけ俺は答えた。
カイルが少し黙ってから上着を取った。
「今日の議題は」
「設計の続き。ドラズが昨日の話を詰めてくると言ってた。カレドも来るはずだ」
カイルが手元の通信石を確認して、静かに数字を出した。
【共存協定 自動失効まで:あと7日】
俺は上着を手に取った。
「ここからが、本番です」
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