第254話「まあ、聞いてから判断しよう」
夜明け前に目が覚めた。
腹が鳴った。昨日の夕食を食べ損ねていた。
窓の外、まだ暗い広場に人の影が見える。傍聴席の列は夜明け前から伸びていた。名簿を議場に持ち込んだ日から、毎朝少しずつ長くなっている。票には直結しない。だが何かが変わりかけているのを、ここ数日で感じていた。
テーブルのパンを半分食べた。乾いた口に水を流し込んで、外を見た。
失効まで残り十四日。
【共存協定 自動失効まで:あと14日】
昨夜カイルから届いた数字を、もう一度頭の中で確かめた。査問集計は賛成64のまま動いていない。過半数の崖に張り付いたまま、三日が過ぎた。
ガレスが部屋に来たのは夜明けの一時間後だった。
「議長の随員が、今朝から変わっている」
「連合が差し替えたか」
「それなら、俺が知っている顔が来るはずだ。知らない顔だった」
俺はパンの残りを噛みながら、考えた。
連合が差し替えた、ではなく——議長自身が変えた。そういう可能性がある。
「手紙が届いたかどうかは」
「わからん。灯りは一晩中消えなかった。それだけだ」
「十分だ」
ガレスが俺を見た。「お前が「十分だ」と言うとき、何かを決めている」
「決めてない。ただ——まあ、聞いてから判断しよう、と思ってる」
「それが決めてる顔だ」と、ガレスが珍しく笑った。
議場に入ると、空気が違った。
強硬派の三カ国は今日も早い。いつもの席に座っているが、顔がいつもと違う。何かを仕掛けるつもりで来た者の顔だった。昨日議長から期待した言葉を引き出せなかった苛立ちを、今日にぶつけようとしている。
セルウィンが台帳を持って通り過ぎた。
「今日で残り十四日だ」と言いながら通り過ぎた。
「わかってる」と答えると、セルウィンの足が一瞬止まった。止まって、また歩いた。
それだけだった。
だが——セルウィンの様子が、ここ数日でわずかに変わっている気がしていた。最初のころの「論理で詰める」苛立ちではなく、別の何かが滲んでいる。何と名付ければいいかは、わからなかった。
傍聴席が埋まっていく。ヴァリスの市民だけでなく、近隣の国から来た者もいると聞いた。噂を聞いた者たちが集まり始めている。票には関係ない。だがこの場が何かを決める場だということを、市民たちが身体で感じ始めている。
議長の席が、空いていた。
定刻が来た。
強硬派の一人が立ち上がりかけた。
扉が、開いた。
歩き方が違う、と最初に思った。
それだけ。それだけが頭に入ってきた。
ここ数週間で見てきたオルディーンの歩き方と、今日のそれが違う。ゆっくりとしているが、確かに地を踏んでいる。重りを引きずる者の歩き方ではなかった。
議長席まで来て、椅子に座らなかった。
傍聴席がわずかにざわめいた。一瞬で静まった。
何かを感じ取っている。この場にいる全員が、同じものを感じ取っている。
オルディーンは台上に立ったまま、議場を一度見渡した。万を超える市民。議員席に並ぶ各国代表。セルウィン。ガレス。それから——俺を、見た。
視線が合った。
逸らさなかった。
それは十五年分の目だった、と俺は思った。妻を失った夜の目。怒りをどこにも向けられないまま呑み込んだ日々の目。その全部が、一晩のどこかで変わったような——。
「——皆に、聞いてほしいことがある」
低い声だった。だが議場の端まで届いた。万の人間がその声を受けた。
「議長として申し上げるのではない。一人の人間として」
強硬派の代表が立ち上がろうとした。セルウィンが手で制した。迷いのない動作だった。セルウィンもまた、今日は何かを決めてきている。
「この査問が始まってから、私はずっと椅子に座っていた。進行役として、記録として、人類を代表する者として。だが——私自身が何を考えるか、一度も言っていなかった」
傍聴席の空気が、変わった。
「十五年前、北方の溢出で妻を失った。支援が三日遅れた。あの三日が——すべてを変えた」
一拍の間があった。
誰も埋めなかった。
「私は怒る場所がなかった。誰かを責める権限も持てなかった。だから押し込めた。人類の恐怖を代表することが役目だと思っていたから、全部椅子の下に押し込んで、座り続けた」
セルウィンが台帳を閉じた。
その音だけが、静寂の中に落ちた。
「昨夜、一通の手紙を受け取った。三行しか書かれていなかった。最後の一行は——「背負わなくていい」と書いてあった」
傍聴席のどこかで、誰かが息を呑んだ気配がした。
「手紙を持ってきた男が、一言だけ言った。名簿を指差して——「この名前は、本物です」と。それだけ言って、立っていた」
オルディーンの声が、ほんの少しだけ変わった。崩れなかった。続いた。
「私はずっと、処分の是非を数字で決めようとしていた。67か、65か、64か。数字が正しければ、私の恐怖にも正しい理由が生まれると思っていた。だが——昨夜、机に名簿を広げて、手紙を置いて、一晩考えた。朝になって気づいた」
一歩、前に出た。
万の視線が、その一歩を受けた。
「私はまだ——この場にいる一人一人の話を、聞いていなかった」
強硬派の誰かが何か言った。届かなかった。この場全体が、オルディーンの声だけを受け取っていた。
「処分の前に。結審の前に」
議長が台上に立ったまま、全員を見た。
「——まあ。聞いてから、判断しよう」
その言葉が出た瞬間、俺の体が止まった。
思考が、止まった。
——まあ。聞いてから、判断しよう。
頭の中で、その言葉がもう一度流れた。
これは俺が言い続けてきた言葉だ。ゴブが聞いてくれた言葉。カイルが受け取った言葉。カーラが別れ際に笑いながら言った言葉。レイラが慟哭の末に絞り出した言葉。
だが今この瞬間、オルディーンの口から出たそれは——俺の言葉ではなかった。
三行の手紙から。名簿から。廊下の男の「本物です」という言葉から。その全部を一晩かけて受け取って、朝に立ち上がった人間が、自分で辿り着いた言葉だった。
俺は、気がついた。
このことが——聞いてくれる者が増えること、その人間が自分の言葉で「聞く」を選ぶこと——それが、ずっと起きてほしかったことだったのかもしれない、と。
傍聴席が崩れるように動いた。
声ではなかった。万の人間が隣の人間を確かめるように見て、また前を向いた。何かが変わったことを自分の体で確かめているような動きだった。
強硬派が叫んだ。
セルウィンが台帳を持ち、議長の元へ歩いた。
「議題を——変更しますか」
「変更する」とオルディーンは言った。「処分の可否ではなく——人と魔物が共に在るための形を、この場で設計する。具体案を持つ者から、順に発言を」
通信石が、震えた。
カイルからだった。
文字が流れてくる。
【査問集計:賛成票——集計停止/議題変更】
俺はそれを見ながら、議場の窓から外を見た。空が朝の白から昼の青に変わりつつある時間だった。
ガレスが隣に来た。大柄な男が、静かに立っていた。
「……やりやがったな」
「ああ」
少しの間、二人とも黙っていた。
「あの三行の手紙が、そうさせたか」
「手紙を届けたのは俺じゃない。一晩かけて自分で決めたのはオルディーンだ」
「お前はなんでそういう言い方をするんだ」とガレスが言った。苛立ちではなかった。別の何かで言っていた。
「事実だから」
「……そうだな」とガレスは認めた。しばらく間があって、「俺も、お前に引きずられてここまで来た。だが、ここで踏み止まって証言したのは俺自身だ」と続けた。
「そうだ」
「同じことを言っているのに、なぜお前が言うと納得できるんだ」
俺には答えがなかった。ガレスが珍しく笑った。
議場では、フェンの代表が交易路の具体案を話し始めていた。最初に「聞いてみたい」と言って手を挙げた、あの小さな国。今日もまた、最初に手を挙げた。
セルウィンが台帳を開いて、記録を始めていた。怒りの顔ではなかった。仕事をする者の顔だった。仕事を信じている者の顔、とも言えた。
ゴブに短く書いた。
「聞いてるか」
すぐに返事が来た。
「聞いてました。——よかった、ですね」
ゴブが「よかった」と言うとき、それは重くも軽くもない。確かなものがそこにある、という意味の言葉だ。
俺も、そう思った。
よかった。
昼を過ぎたころ、廊下でオルディーンとすれ違った。
議場から出てきた議長は、水を一杯飲んで、また戻ろうとしていた。
「手紙を——読んだ」と言った。
「届いたのか」
「届いた。名簿の写しと一緒に持ってきた。弟の名前がそこにあると言って——それだけ言って、立っていた」
「——名前を、まだ聞いていない」と俺は言った。
「私も聞かなかった。聞くべきだったな」
「今から聞けます」
オルディーンが少しの間、俺を見た。
「感謝すべきかどうか、まだわからない。妻は戻らない。十五年は返らない」
「そうですね」
「だが——一晩座って、朝に立てた。立って、今日が来た。それは確かだ」
俺は何も言わなかった。
言葉はいらなかった。
「椅子より、立っているほうが似合う気がした」とオルディーンは言った。「なぜかわからんが」
「より広く、見えるんじゃないですかね」
オルディーンが考えるように俺を見て、それから「そうかもしれん」とだけ言って、議場に戻っていった。
廊下に俺一人が残った。
壁に背を預けて、息を吐いた。
失効まで七日。
今日から設計が始まった。人と魔物が共に在る形を、かつての賛成者たちが一緒に作っていく。六十四の椅子が、今日から別の場所を向いている。
通信石が再び震えた。カイルだった。
「設計会議が始まってる。フェン代表が交易路の骨子を持ってきた。俺だけじゃ回しきれない、一緒に来てくれ」
「今行く」と打ちながら、俺は廊下を歩き出した。
「——一つだけ聞いていいか」とカイルが続けた。「議長があの言葉を言ったとき、どんな気分だった」
俺は一歩、止まった。
廊下の先、議場の扉が見える。中から声が聞こえてくる。何十カ国かの言葉が混ざって、だが同じ方向を向いて話している、そういう声だった。
「さあ」と俺は答えた。「続きを聞いてから、判断する」
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