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門番、魔王軍と交渉する〜ハズレジョブでも、話を聞く奴が世界を動かす〜  作者: ハル
門番、世界と話す

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253/272

第253話「議長、迷う」

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宿の机に、白紙が一枚ある。


昨夜から変わっていない。昨夜も俺は同じ紙の前に座って、夜が明けるまで一行も書けなかった。今夜も同じかもしれないと思いながら、それでもペンを手に取った。


窓の外では、議長棟の灯りが遠く見えた。夕刻から、ずっとついている。


「……また止まってるな」


カイルが壁に背を預けたまま目を開けた。俺が気配を感じたときにはもう起きていた。こいつはいつからそういう神経の張り方を覚えたのだろう、と思ってから、そういえば昨日ガレスが「調停者になったからだ」と言っていたのを思い出した。


「悪かった。起こしたか」


「謝るな。空気が重いと感じただけだ」


カイルが立ち上がって、小炉の上の鍋から湯を汲んでくれた。茶葉を入れて、俺の前に置く。所作が自然になった。一年前のこいつは剣の柄しか持ち方を知らなかった。


「レイラのときは、すぐ書けたんだがな」


「今回は違うのか」


「レイラには「上手い言葉は要らない」と決めてから書けた。オルディーンには……何を捨てれば書けるのか、まだわかってない」


カイルが椅子を引いて向かいに座った。湯飲みを両手で包みながら、しばらく黙っていた。こいつが黙るときは、何かを本気で考えているときだ。以前は黙るのが照れ隠しだったが、今はそれも変わった。


「オルディーンは、レイラとどう違う」


「レイラは怒っていた。向ける対象があった。俺はそれを受け止めればよかった。オルディーンは……怒りがない。十五年間、怒りを持つ権利すら手放して、ただ背負ってきた。そういう人間に何を言えばいいのか」


カイルがしばらく考えてから言った。


「背負わなくていいと言えばいいんじゃないか」


「お前には簡単に言えるんだな」


「簡単じゃない。でも正しいだろ」


俺はカイルを見た。こいつが正論を言うときの顔は、第四迷宮で一人で交渉してきた後から変わっている。以前は正論を武器として出していた。今は正論を地図として差し出している。ちょっとした違いだが、受け取る側には大きく違う。


「……そうだな」


ペンが動いた。


書いたのは三行だった。


「一つだけ、聞かせてください。」


「あなたが、十五年間、一人で背負ってきたものを。」


「俺は今日も、ここで待っています。」


書き終えて眺めた。足りないかもしれない。多すぎるかもしれない。でも上手くしようとした言葉は一つもない。技巧を捨てると決めてから書いた。それだけが確かだった。


「名前は書かないのか」と、カイルが覗き込んだ。


「届いた時点でわかる」


カイルが鼻から息を抜いた。呆れたような、承認したような、どちらとも取れる音だった。



 



問題は届け方だ。


昨日、議長室の前まで行った。随員が連合直属に差し替えられていた。何かを渡そうとしても、弾かれる可能性が高い。


カイルに話すと、彼は別の情報を持ってきた。


「今朝、随員の顔ぶれを確認した。昨日まで四人だった連合直属が、今日は三人になってる。残り一人が……俺の知る連合の人間じゃない」


「どういう意味だ」


「バッジは連合のものを付けてる。でも俺がここ三ヶ月で覚えた連合職員の顔の中にない。外から入り込んだ誰かだ」


俺には心当たりがあった。


「廊下の記録係か」


先週、廊下で会った男のことを話した。弟を溢出で亡くした男。名簿の歪んだ筆跡を見て「名前は本物だ」と言った男。


「その男が自分から動いた可能性があるか」


「ある。確かめる」


日が高くなる前に廊下で記録係の男を探した。いた。腕に書類の束を抱えて、足早に歩いていた。昨日より少し顔色がいい。何かを決めた人間の顔というのは、そういうものだ。


「一つ頼みたいことがある」


男が立ち止まった。視線が少しだけ緊張した。


「書いたものを、議長に届けてもらえますか」


「……確認してもいいですか」


「どうぞ」


手紙を渡した。男が三行を読む。一度目は早く。二度目はゆっくりと。読み終えて、俺を見た。


「これだけですか」


「これだけです」


男はしばらく黙っていた。なぜ黙っているのか、最初はわからなかった。でも男の目が手紙の一行目をもう一度なぞったとき、俺は気づいた。「一つだけ、聞かせてください」——その言葉を、この男自身も誰かに言ってほしかったのだ。弟の死について。議長にではなく、誰かに。


俺はそれを口にしなかった。今は違う。でも覚えておこうと思った。


「もう一つ、お願いできますか。議場に置いた名簿のコピーを、一緒に届けてほしい。手書きで構いません」


「写します」と男は言った。「一時間、待ってください」


一時間後、男が戻ってきた。二枚の紙を手に持っていた。一枚目には人間側の死者の名前。二枚目には魔物側の名前。元の名簿より字が細かく、几帳面に写し取られていた。


男は人間側の列に目を落としたとき、一度だけ止まった。ほんの一秒か二秒だ。その中に弟の名前がある、と俺にはわかった。


「……届けます」


「ありがとうございます」


「俺がやりたいんです。誰かに言われたわけじゃない。議長が昨夜、一人で執務室にいると知って……この名前を見せたいと思いました」


「あなたの弟さんの名前も、そこにあります」


男がゆっくりと顔を上げた。


「知ってます。だから届ける」


それだけを言って、男は廊下の奥へ歩いていった。俺はその背中を最後まで見ていた。


「届くといいな」とカイルが言った。


「届く。届かなくても、書いた」


カイルが俺の横顔を一瞬見た。何かを確認しているような目だった。


「お前は今まで、諦めたことがあるか」


「諦めたかどうかはわからない。でも次を探した。ゴブが扉をノックしてきたとき、断ることもできた。でも聞かなかったら何が来るかわからないのが惜しかった。まあ、聞いてから判断しよう、と思って扉を開けた。あの夜からずっと、それだけだ」


カイルはしばらく黙っていた。


それから、静かに言った。


「……俺はあの頃、お前を舐めてた。ハズレジョブの話を聞く奴だと思ってた」


「知ってる」


「今は違う。お前の「聞かなかったら損だ」という感覚が——少しずつ、わかるようになってきた」



 



夜が深まった。


ガレスが連合の旧知のつてをあたって戻ってきた。珍しく疲れた顔をしていた。腰を下ろして、しばらく何も言わなかった。重騎士の体が、椅子を軋ませた。


「強硬派が焦ってる」


ガレスは言った。「昨夜、議長を二時間絞った後で、今日は逆に口が軽かった。引き出せなかったんだろう。想定通りに動かない議長に苛立ってる」


「議長は今日、何をしていましたか」


「午後の会議が短く終わったと聞いた。結審の日程も明確にしなかった」


強硬派が期待した通りの言葉を、議長が出さなかった。それだけで何かが変わっているかもしれない、と思った。


「届いたかもしれないな」とカイルが言った。


「かもしれない」


ガレスが俺を見た。


「アシダ。お前は、届かなかった手紙があったか」


「何度も」


「それでも書き続けたのか」


「書いた記録は残る。いつか、それが誰かの目に触れる」


ガレスが膝に肘をついて、下を向いた。


「俺は剣が届かないと思ったら、抜かなかった。そういう生き方をしてきた。届かない剣は意味がないと、そう教わった」


「言葉は違います。剣は届かなければ何もないが、書いた言葉は証拠として残る。誰かが読む。今夜読まれなくても、来年読まれるかもしれない」


「……分かってる。でも体が追いついていない」


「届かなくても書く、それだけで今夜は十分です」


ガレスが顔を上げた。何かを言いかけて、止めた。代わりに窓の外を見た。


「議長の部屋……灯りがまだついてる」


確かに、議長棟の一角が明るかった。時刻はもう深夜を過ぎていた。連合の公式業務は終わっている。


「一晩、見てみましょう」


三人で、その灯りを見た。


交代で眠ったが、俺はほとんど眠れなかった。


灯りは消えなかった。深夜から夜明け前まで、ずっと。カイルが途中で目を覚ますたびに「まだついてる」と確認した。ガレスは無言で窓際の椅子に座り続けた。


あの部屋で、一人の男が何かと向き合っていた。


三行の手紙と。二枚の名簿と。十五年間、言えなかった言葉と。


俺には何もできない。ただ待つだけだ。でも待つのは——ゴブが扉をノックしてきた夜から、ずっとやってきたことだ。門番の仕事は、扉の前で待つことだった。誰かが来たとき、聞けるように。


窓の外で灯りが揺れた。風が入ったのか、炎が一度大きく揺らいで、また静かになった。消えない。


俺はそれをずっと見ていた。



 



夜明け前、灯りが消えた。


ガレスが「消えた」とだけ言った。それで十分だった。眠ったのか、あるいは別の理由か——一晩中消えなかった灯りが、夜明け前に消えた。


カイルが集計の石板を取り出した。数字は変わっていない。


【賛成64/失効まで:あと13日】


「変わらないな」


「まだそういう局面じゃない」


三人でそれぞれ横になった。俺は二時間ほど眠って、夜明けと同時に起きた。朝の空気が冷たかった。ヴァリスの夏も、夜明け前だけは芯まで冷える。


廊下に出ると、記録係の男がいた。目が合った。男が小さくうなずいた。


「届きました。昨夜のうちに」


「ありがとう」


「……今朝、廊下で議長とすれ違いました。いつもより少し——足取りが、違った気がします」


俺は何も言わなかった。でも胸の中で何かが、静かに動いた。



 



午前の査問は短かった。


オルディーン議長が議長席に座っている。いつも通りの表情で、いつも通り議事を進めていた。ただ——目の下にわずかに影がある。眠れなかった人間の顔だ。


強硬派の代表が「結審の目途を明確に」と求めると、議長は「所定の手順に従う」と短く答えた。それだけだった。強硬派が引き下がる。


昨日まで議長は具体的な日程を口にして強硬派を宥めていた。今日はそれをしなかった。


「今日は逃げた」とカイルが俺の隣で小声に言った。「昨日とは違う対応だ。何かが変わってる」


議事が終わって、代表たちが退席した。俺も廊下に出た。


そのとき。


角を曲がったところで、オルディーンと正面からぶつかりそうになった。


議長の周囲には随員が二人いたが、少し後ろを歩いていた。議長一人が、角を曲がる直前だったらしい。


距離は一メートルにも満たなかった。


議長が俺を見た。俺が議長を見た。


周りの音が、一瞬遠くなった。


オルディーンの目の奥に、何かがあった。一晩分のものが。白紙の前で燭台と向き合い続けた人間の目。三行を何度も読み返した人間の目。


口が動いた。


何かを言おうとしていた。言葉を探すような——ずっと飲み込んできたものを、ようやく形にしようとするような、そういうゆっくりとした間があった。


「……まあ、」


議長の唇が、確かにそう動いた。


次の言葉は、来なかった。


随員の一人が後ろから「議長、次のお時間が」と声をかけた。議長の表情が、一瞬で元の顔に戻った。俺から目を逸らして、「行こう」と随員に言った。廊下を遠ざかる背中を、俺はずっと見ていた。


カイルが俺の隣に並んだ。


「……今の、見たか」


「見た」


「あれは」


俺は答えなかった。言葉にしたら、何かが壊れそうな気がした。


まあ——と。


議長の口が動いた。続きは止まった。でも動いた。一晩、消えなかった灯りが夜明け前に消えて、今朝ここで俺に向けてその口が動いた。


「明日も、前の席に座る」と俺は言った。


「何かするのか」


「何もしない。ただ、そこにいる」


カイルが一拍置いて、静かにうなずいた。


【賛成64/失効まで:あと13日】


「——明日だ」

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