第252話「届かなくても」
廊下の突き当たりで、ガレスが腕を組んで待っていた。
俺が扉を開ける前から、その顔つきでわかった。昨夜も何かあったのだ。
「入る前に一つだけ聞いてくれ」
ガレスは俺の肩を掴んで、声をひそめた。壁の向こうに誰かいるか確かめるように、廊下の両端をちらと見てから続ける。
「強硬派が動いた。昨夜のうちに」
「オルディーン議長に?」
「ああ」
一言だけ答えて、ガレスは視線を床に落とした。何年も戦場で生きてきた男の、珍しい沈黙だった。表情が固い。顔に刻まれた皺が、いつもより深く見えた。
「何を言ったんですか」
「失効まで十四日だ。それまでに結審を決めろ、と」
窓の外から朝の光が差し込んでいた。石畳の広場に、まだほとんど人がいない。議事堂の前に並ぶ幟が、朝風に揺れている。俺は部屋の中に入って、窓の方に向かった。外の空気は冷えていた。石造りの建物に囲まれたこの城市では、夜の冷気が昼前まで残る。
「議長は何と」
「何も言わなかったそうだ」
そうか、と俺は思った。
答えなかったのではなく、答えられなかったのだろう。
オルディーンという人間を少しずつ知るにつれて、彼の沈黙の重さが変わってきた。議長席に座って言葉を発さないのは、冷酷だからではない。十五年前に何かを飲み込んで、それきり飲み込み続けている人間の沈黙だ。人類を代表して恐怖を背負い、その椅子に自分を縛り付けている男の沈黙だ。
「わかりました」
「どうするつもりだ」
ガレスの問いに、俺はすぐに答えなかった。
窓の外の幟が揺れている。風が出てきた。
まあ、聞いてから判断しよう。
今日の動き方を決めるのは、もう少し情報を集めてからでいい。
「とりあえず」と俺は言った。「カイルの集計を待ちます」
「それだけか」
「それだけじゃないですが——今から決めてもしょうがない」
ガレスが俺をしばらく見てから、鼻で短く息をついた。呆れているのか、納得しているのか、どちらともつかない音だった。
「……お前はいつもそうだな」
「そうですか」
「判断を急がない。それが俺には、未だによくわからない」
「急いで決めたことが、ろくな結果にならなかったことが多いので」
俺は椅子を引いて座った。机の上には昨夜から置きっぱなしの通信石がある。カイルからの連絡はまだない。
「昨夜——議長の部屋に、強硬派がどのくらい来ていたんですか」
「三人。別々の大国の代表格だ」
「どのくらいの時間」
「二時間近く」
二時間。
俺はそれを聞いて、少しの間目を閉じた。
二時間、三人から圧力をかけられた人間の、翌朝の状態を想像した。疲れているだろう。眠れていないかもしれない。それでも今日も議長席に座らなければならない。明日も、十四日が終わるまで。
カイルから集計が届いたのは、昼前だった。
【査問集計:賛成64/反対49/保留14】
【共存協定 自動失効まで:あと14日】
数字を見て、俺は少しの間、何も考えなかった。
十四日。二週間。
シャーダ代表が動いた翌朝に押し戻された日から、四日が過ぎた。票はひとつも動いていない。動けば押し戻される。動けば押し戻される。その繰り返しを全代表が知ってしまった今、次に最初に動く国はない。どの代表も、動いた瞬間に本国からの圧力が届くことを知っている。知っているから、動けない。
「綱引きは続いてる」
カイルの声が通信石から届いた。かすかに疲れが滲んでいた。ここ数日、彼もよく眠れていないのかもしれない。調停者としての仕事とこの査問の補佐を同時にこなしていれば、体も頭も限界に近い。
「連合の監視担当が交替制で全代表の動きを見張ってる。夜中でも誰かが起きてる。動けば即座に本国へ連絡が行く」
「それはわかってます」
「わかってて、どうするつもりだ」
カイルも同じことを聞く。
俺は通信石を左手で持ち替えて、右手の指先を机の縁に当てた。木の表面が、ざらりと指に触れた。
「強硬派は昨夜、オルディーンに結審を迫ったそうです」
「知ってる。俺にも情報が来てた」
「議長はどんな様子でしたか」
「……見てない」とカイルが言う。「でも、廊下を歩く音が聞こえたらしい。部屋に戻った後、夜中ずっと灯りがついてたとガレスが言ってた」
眠れなかったのか。
それとも、眠るつもりがなかったのか。
「カイル」
「何だ」
「オルディーンに今日、直接会えると思いますか」
しばらく間があった。
「難しい」
答えは短かった。でも短い答えの中に、カイルが何日もかけて集めた情報が詰まっていた。
「強硬派は昨夜から今朝にかけて、議長の周囲を固めてる。随員も差し替えられた。外部との接触は全部把握されてると思え」
「それは——」
「俺に会いに来るのも、だ」
俺は黙った。
カイルが続ける。
「お前が議長室に向かったとして、そこで何かが起きれば逆に使われる。『脅威が議長に直接圧力をかけた』、それだけで押せる材料になる」
「……そうですね」
「だからって何もしないのか」
「何もしない、ではないです」
俺は机の上の紙を一枚取った。昨日から引き出しに入れっぱなしだった、白紙の一枚。
「ちょっと考えてます」
「何を」
「まあ」と俺は言った。「聞いてから判断したいことがあって」
カイルが短く笑う音がした。
「お前は本当に、どんな状況でもそれを言うな」
「癖なので」
「……わかった。今夜の集計はまた送る」
通信が切れた後、俺はしばらく机の上の白紙を見ていた。
試しに議長室の前まで行ってみた。
ガレスが「まずいかもしれない」と言いながらもついてきた。廊下の角まで来て、二人で壁の陰から様子を見る。
随員が三人立っていた。いつもの顔ではない。
昨日まで議長室の前にいたのは、物静かな初老の男だった。長くオルディーンに仕えている、俺たちの存在にも慣れた顔。今日の三人は若く、背が高く、目が鋭い。手を後ろで組んで、廊下を見据えている。
「差し替えてある」とガレスが低い声で言った。「連合直属の、動かない連中だ」
「そうですか」
「行くか?」
俺は少しの間考えた。
カイルの言った通りだ。今ここで強引に動けばそれ自体が材料になる。それに——あの三人の前に立って何かを話したとして、それがオルディーンに届くとは思えなかった。直接届けたいものがある。回り道をしたくなかった。
「今日は、やめておきます」
「……そうだな」
ガレスが壁にもたれかかった。大きな体が、疲れているように見えた。
俺たちは廊下を戻り始めた。足音が石の床に響く。外は曇り始めていた。
「俺も、もう何ができるかわからなくなってきた」
ガレスが歩きながら言った。珍しい言葉だった。
ガレスは基本的に、行動する人間だ。悩む前に動く。動いてから考える。そういう生き方で戦場を生きてきた男が、「何ができるかわからない」と言っている。
「ガレスさん」
「何だ」
「あなたはもう十分やってる」
ガレスが俺を見た。
「俺を慰めてるのか」
「慰めてません。事実を言ってます」
あの日、討伐隊として来た男が、今は連合に背いて俺の側にいる。年金も職位も失った。それでも「後悔はしていない」と言った。証言台に立った。ロウンと話した。名簿の前に立った。
「あなたが証言したことは消えません。名簿の前に立った日も、あの場にいた全員が見ていた。票に直結しなくても、見ていた人間は覚えてる」
「見てたって、票は動かないだろ」
「今はそうかもしれない」
俺は来た廊下を振り返った。議長室の前の三人の背中が、遠くに見えた。
「でも、何かが積み重なってる気はします」
ガレスが息をついた。
「証拠があるのか」
「ありません」
「じゃあ、信じてるだけか」
「そうです」
ガレスが、かすかに笑ったように見えた。口角がほんのわずかに上がった、気のせいかもしれないくらいの動きだった。
「お前は——変な奴だな」
「よく言われます」
宿に戻ったのは、日が暮れてからだった。
夕食を終えて、ガレスが先に部屋へ戻った。カイルからの集計は夜にまた届く予定だった。俺は机の前に座って、昼間に取り出した白紙をもう一度広げた。
一度、同じことをやったことがある。
レイラに手紙を書いたとき。二十日間、送り続けたとき。
あの頃、俺は何を書いたのか。
最初は説明しようとした。共存の意義を。平和の価値を。数字を並べて、実績を示して、それで何かが変わると思っていた。変わらなかった。
次に、技巧を捨てると決めた。上手く話すのをやめると決めた。ただ事実だけを書いた。「あなたの話を聞きたいだけなので」、そう書いた。
レイラが応じたのは二十日後だった。
「あなたの言葉は上手い。上手いから、信用できません」
そう返ってきた。それでも書き続けた。書くことをやめなかった。それが最終的に届いた。
今度は、オルディーンだ。
直接会えない。強硬派が周囲を固めている間は、廊下を通るだけでも使われる材料になる。でも、手紙は書ける。書いて、届けようとすることはできる。
読まれるかどうかはわからない。随員に止められるかもしれない。処分の材料として保管されるだけかもしれない。それでも書かないよりは、書くほうがいい。
俺は筆を取った。
何を書くべきか、しばらく考えた。
議長に何かを証明しようとは思わない。共存の正しさを説こうとも思わない。それはもう、議場で散々やってきた。数字も並べた。実例も示した。名簿も置いた。それでも動かないなら、論の問題ではない。
ただ——聞きたい。
オルディーンが十五年前の北方溢出の後、末席に座ったまま何も言えなかったこと。妻を失ったこと。その後、自罰として議長の椅子に座り続けてきたこと。全部、ガレスから聞いた。でも、ガレスから聞いた話は、ガレスのフィルターを通っている。
俺はオルディーン自身の言葉で聞きたかった。
あの日、何を考えていたのか。十五年間、何を背負ってきたのか。今夜、何が怖いのか。強硬派に二時間迫られて、一晩こもって、灯りをつけたまま夜を過ごした人間の内側を、俺はまだ何も知らない。
知りたいから、書く。
俺は書き始めた。書いては止まり、止まっては書いた。思ったより時間がかかった。うまくまとめようとするたびに手が止まる。一文書くたびに、これは本当に俺の言葉かと問い直す。説明しようとしている自分に気づいては、また白紙に戻る。
ろうそくが揺れた。風もないのに、炎がかすかに揺れた。石壁が夜の冷えを伝えてくる。指先が少し、かじかんでいた。
最終的に残ったのは、短い文だった。
『オルディーン議長へ。
あなたが昨夜どんな夜を過ごしたか、わかりません。でも、想像しています。
俺はあなたに、話を聞かせてほしいのです。処分の話でも、共存の話でもなく、あなた自身の話を。
うまく聞けるかどうかは、わかりません。俺にできるのは、ただ聞くことだけです。
レン・アシダ』
読み返して、それでいいと思った。
少なくとも、これが今の俺に書けるすべてだった。
翌朝、ガレスに頼んで議長室に届ける手段を探してもらうことにした。随員を通さなくてもいい方法が、何かあるかもしれない。なければ、随員に渡せばいい。止められたとしても、それはそれで構わない。書いたという事実は、変わらない。
カイルからの通信が届いたのは、夜半を過ぎた頃だった。
集計の数字は変わっていなかった。賛成は依然として六十四のままで、失効まで十四日。
「今日、何かあったか」とカイルが聞いた。
俺は机の上の封筒を見た。ろうで封じた、小さな白い封筒。
「手紙を書きました」
「……誰に」
「議長に」
しばらく沈黙があった。
「届くと思うか」
「わかりません」
「読まれると思うか」
「わかりません」
カイルがまた黙った。今度は少し長い沈黙だった。何かを考えているのか、何かを思い出しているのか。
「じゃあ」と彼は言った。「なんで書いたんだ」
俺は封筒を指先でそっと押さえた。紙の厚さが指に伝わった。薄い。中に入っているのは、一枚だけだ。
「届かなくても、書きます。あなたに」
自分でそう言ってから、そういうことだな、と思った。
「……わかった」
カイルの声は短かった。でも俺には、彼が何かを飲み込んだのが聞こえた。
「明日の集計も送る。気を付けろ」
「はい」
通信が切れた。
窓の外は暗かった。城市の石造りの建物が、月明かりの中に黒く浮かんでいた。どこかで犬が一声鳴いて、また静かになった。
俺は封筒を机の引き出しに入れて、灯りを消した。
明日、届けようとしてみる。
【共存協定 自動失効まで:あと14日】
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
毎日昼・夜の2回更新中です。続きが気になったら、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。
もしこの話が面白かったら、☆評価をいただけると本当に助かります。
なろうの評価は日間・週間ランキングに直結するので、1クリックが「次の100話」を書く燃料になります。




