第251話「綱引き」
「昨夜のシャーダ代表が、票を動かしました」
朝のカイルの声は、静かな昂揚を含んでいた。
俺は通信石を握ったまま、窓の外を見ていた。ヴァリスの夜明けは霧が深い。石造りの建物が輪郭だけ見えている。昨夜オルディーン議長の部屋を出たのが深夜を過ぎた頃で、宿に戻ってから横になったが、眠れたのか眠れていないのかわからない夜だった。目の奥が重い。
【査問集計:賛成63/反対49/保留15】
数字を読んだ。
64が、63になった。
「動いたのは、誰かに言われたからじゃないです」とカイルが続けた。「昨夜遅く、本人が静かに票を動かした。単独の判断です」
シャーダ。小さな山岳国だ。三十人にも満たない。名前を思い出すのに数秒かかった。名簿が議場に置かれた日、傍聴席で静かに前を向いていた代表の一人がシャーダだったか、確認はできていなかった。
「他に動きそうな国は」
「気配がある国が三つか四つ。でも今朝は、まだ様子を見ています」
「わかった」
通信を切って、椅子に座り直した。
足の裏が冷たかった。石の床の冷えが靴越しに上がってくる。眠れない夜の翌朝は、どうでもいい場所に意識が向く。靴下が薄い。それだけのことが引っかかる。
オルディーン議長が「あの日——」と言いかけて、止まった。
昨夜の光景が浮かんだ。議長室に一人で座っていた男の横顔。手袋を外した手が、膝の上で静かに置かれていた。十五年分の何かを口に乗せようとして、乗せられなかった。俺は急かさなかった。急かせる話じゃないと思った。
ただ「今日はありがとうございました」と言って、部屋を出た。
それだけだった。
でも一票動いた。
関係があるかどうかはわからない。ただ、昨夜も今朝も、何かは動いている。止まっているように見えて、どこかで少しずつ、何かが動いている。そう信じることしか今の俺にはできなかった。
議事が始まる前に、広場へ出た。
中央広場の朝市は今日も人が出ていた。パンと根菜と、どこかから焼き肉の匂いが混じっている。腹が鳴った。昨夜の夕食を抜いていた。忘れていたのか、食べに行く気力がなかっただけなのか、もう思い出せない。
屋台で厚切りのパンを一つ買った。チーズが挟まっている。立ったまま一口かじった。
隣で二人の男が立ち話をしていた。
「あの名前のやつ、見たか」
「議場のか?」
「そう。二枚置いてあったやつ」
「見た。人間の名前と、魔物の名前が一枚ずつ」
「片方はゴブリンが書いたって聞いた」
「歪かった。でも一字一字、ちゃんと書いてあった。「背負った者」とか「急ぐ者」とか——そういう名前で」
「信じるのか」と一人が言った。
「信じる信じないって話じゃないと思う」ともう一人が答えた。「名前があったという事実は、本当のことだろ。作れるもんじゃない」
「そうだな」
「俺の親父も昔、溢出でやられた。だから魔物のことは正直まだよくわからん。でも——死んだやつの名前を呼ぶのは、悪いことじゃないと思う。どっちの側でも」
パンを飲み込んだ。
名前があったという事実は、本当のことだろ。
朝の広場で、無関係な人間がそう言った。俺が言う言葉よりも、こういう言葉のほうが街に馴染む。俺は当事者に見える。どこかで割り引かれる。でも名前も知らない市民が同じことを言えば、それは別の重さになる。
市民の声が票に直結するわけじゃない。
でも代表たちは、自分の国の空気を読んでいる。空気が変わり続ければ、時間をかけて何かが動く。
問題は時間だった。
【共存協定 自動失効まで:あと18日】
広場の石畳の隙間に、雑草が生えていた。踏まれても踏まれても根を張っている。こんな場所でも育てるんだな、と思いながら歩いた。
昼を過ぎたあたりで、カイルから通信が入った。
「シャーダが戻りました」
「戻った」
「賛成に。本国から使節が朝のうちに届いて、正式な通達が来ました。「連合全体の意思を尊重せよ」という文書付きで」
【査問集計:賛成64/反対49/保留14】
また64か。
「タイミングが早い」
「昨夜動いた翌朝には、もう圧力が届いてます。常に監視していないとできない速さです。シャーダ代表は謝りに来ました」
「謝る必要はないと伝えてくれ」
「伝えました。泣きそうな顔でした」
俺は少し黙った。
泣きそうな顔。
夜遅く一人で票を動かした人間が、翌朝には押し戻された。その意志は本物だったはずだ。本国に逆らえないだけで、気持ちが変わったわけじゃない。
「他の国への圧力は」
「今朝から本部経由で複数の国に接触が入っています。明示はされていないが——昨日みたいに動けば圧力が来ると、全員にわかってしまいました」
動いたら押し戻される、とわかれば、誰も動けない。
「わかった」
通信を切って、壁に背をもたせた。
これが綱引きというものか、と思った。一票引けば一票引き戻される。引いては戻る、引いては戻る。数字が動いたように見えて、64に固定されている。
でも完全に止まってはいない。シャーダは一度動いた。動きたかった意志が、そこにはある。押し戻されただけで、消えたわけじゃない。
廊下に出て、議事堂の中を歩いた。何かするためではなく、止まっていると頭が固まる気がした。
回廊を歩いていると、前から声がかかった。
「アシダ殿」
若い男だった。連合の官服を着ている。見覚えのない顔だ。
「少し、よろしいですか」
「どうぞ」
男が一歩近づいて、声を落とした。「私は連合の記録局に勤めています。末席の——ただの記録係です」
「はあ」
「名簿を、拝見しました。議場に置かれていたものを。両方」
俺は黙っていた。
「家が北方の出です。十二年前の溢出で、弟が亡くなりました」
男は自分の手の甲を見た。革の手袋を、じっと見ていた。
「だから魔物のことは——今でも、よくわかりません。すっきりはしていません」
「そうですか」
「でも」男が顔を上げた。「あの名前を見て、本当のことだと思いました。あんな字は作れない。作ったものじゃないと、わかりました。それだけを言いたかった」
「聞かせてくれてありがとうございます」
男は一度うなずいて、足早に去っていった。
廊下に静けさが戻った。
俺はしばらく、そこに立っていた。
末席の記録係が誰かに頼まれたわけでもなく来て、自分の痛みを話した。票には直結しない。どうにもならないことを言った。それだけのことだ。
でも言いに来た。
こういうことが今日だけで、もう何度か続いている。広場での市民の声も、この廊下での男の言葉も。誰も俺に何かしてほしくて来たわけじゃない。ただ言いに来た。
票は動かない。数字は64に張り付いている。
それでも、何かが積み重なっている。見えない場所で少しずつ、何かが蓄積している。それが力に変わるかどうかはわからない。でも確かに積み重なっている。
それだけが今の俺の手応えだった。
夕方、ガレスが戻ってきた。
宿の部屋のドアを開けた瞬間、表情で何かわかった。普段より険しい。椅子を引いてすぐに座って、口を開いた。
「OB会合で、聞こえてしまった話がある」
「聞かせてください」
「強硬派の主要な面々が、今夜、議長に直接会いに行く予定らしい」
「目的は」
「票が動きかけていることへの圧力だ。「このままでは64が崩れる。議長が直接手を打て」という話になっているらしい」
俺はしばらく考えた。「確かな情報ですか」
「確かじゃない。会合の端で、たまたま聞こえた声だ。俺に向けて言ったわけじゃない」
「でも」
「だいたい当たってきた、今まで」とガレスが短く言った。
当たってきた。
ガレスの勘は信頼できる。軍にいた時代に培った、戦場の空気を読む力だろう。こういう男が「当たってきた」と言うなら、外れることはほとんどない。
「共存協定の失効期日を前倒しする話も出ていましたか」
ガレスがわずかに目を見開いた。「なぜわかる」
「前にも同じことをした。有効な手だから」
「……その話も、出ていた」
俺は頭の中で数字を確かめた。
【共存協定 自動失効まで:あと18日】
18日。これをさらに短くされたら、64を崩す前に期限が来る。
「議長は動くと思うか」とガレスが聞いた。
俺はすぐには答えなかった。
オルディーンのことを考えた。昨夜の横顔。「あの日——」という言葉と、その先に沈んでいた十五年分の重さ。
あの人は長い時間をかけて固まってきた人間だ。強硬派の圧力に動かされるかどうかは、俺には判断できない。ただ昨夜、何かが動きかけていたのは確かだった。あの一瞬が本物だとすれば——
「まあ、聞いてから判断しよう」
ガレスが息を吐いた。「……それで落ち着くのが、なんで俺なんだ」
「慣れてくれてよかった」
ガレスが口角を少し上げた。一瞬だけ。
窓の外に夕暮れの灯が見え始めた。議事堂のいくつかの窓に明かりがついている。まだ人がいる。どこかの部屋で今夜、何かが決められようとしている。俺はそれを止めることができない。止める方法が、今の俺にはない。
ガレスと二人で、しばらく黙っていた。
夜が来て、廊下が静かになってから、足音が聞こえた。
複数だった。急いでいる。
俺の部屋の前を通り過ぎて、その先——議長室のある方へ向かっていった。
ガレスが立ちかけた。
俺は手を上げて止めた。
足音が遠ざかる。
そして廊下の向こうから、声が届いた。石の壁に反響して、くぐもっているが聞き取れた。
「議長、抑えろ」
一拍置いて。
「数字が崩れるぞ」
ガレスが俺を見た。
「……どうする」
俺は窓の外の灯を見たまま、動かなかった。
足の裏が冷たかった。目の奥が重かった。頭の中だけが、静かに動いていた。
今夜は待つ。
明日の朝、数字を確かめる。
ガレスが少し間を置いてから、低い声で聞いた。「間に合うか」
俺はしばらく沈黙した。廊下の声は聞こえなくなっていた。だが議事堂の灯は、まだ消えていなかった。
「聞いてから、判断します」
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