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門番、魔王軍と交渉する〜ハズレジョブでも、話を聞く奴が世界を動かす〜  作者: ハル
門番、世界と話す

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251/272

第251話「綱引き」

「昨夜のシャーダ代表が、票を動かしました」


朝のカイルの声は、静かな昂揚を含んでいた。


俺は通信石を握ったまま、窓の外を見ていた。ヴァリスの夜明けは霧が深い。石造りの建物が輪郭だけ見えている。昨夜オルディーン議長の部屋を出たのが深夜を過ぎた頃で、宿に戻ってから横になったが、眠れたのか眠れていないのかわからない夜だった。目の奥が重い。


【査問集計:賛成63/反対49/保留15】


数字を読んだ。


64が、63になった。


「動いたのは、誰かに言われたからじゃないです」とカイルが続けた。「昨夜遅く、本人が静かに票を動かした。単独の判断です」


シャーダ。小さな山岳国だ。三十人にも満たない。名前を思い出すのに数秒かかった。名簿が議場に置かれた日、傍聴席で静かに前を向いていた代表の一人がシャーダだったか、確認はできていなかった。


「他に動きそうな国は」


「気配がある国が三つか四つ。でも今朝は、まだ様子を見ています」


「わかった」


通信を切って、椅子に座り直した。


足の裏が冷たかった。石の床の冷えが靴越しに上がってくる。眠れない夜の翌朝は、どうでもいい場所に意識が向く。靴下が薄い。それだけのことが引っかかる。


オルディーン議長が「あの日——」と言いかけて、止まった。


昨夜の光景が浮かんだ。議長室に一人で座っていた男の横顔。手袋を外した手が、膝の上で静かに置かれていた。十五年分の何かを口に乗せようとして、乗せられなかった。俺は急かさなかった。急かせる話じゃないと思った。


ただ「今日はありがとうございました」と言って、部屋を出た。


それだけだった。


でも一票動いた。


関係があるかどうかはわからない。ただ、昨夜も今朝も、何かは動いている。止まっているように見えて、どこかで少しずつ、何かが動いている。そう信じることしか今の俺にはできなかった。



 



議事が始まる前に、広場へ出た。


中央広場の朝市は今日も人が出ていた。パンと根菜と、どこかから焼き肉の匂いが混じっている。腹が鳴った。昨夜の夕食を抜いていた。忘れていたのか、食べに行く気力がなかっただけなのか、もう思い出せない。


屋台で厚切りのパンを一つ買った。チーズが挟まっている。立ったまま一口かじった。


隣で二人の男が立ち話をしていた。


「あの名前のやつ、見たか」


「議場のか?」


「そう。二枚置いてあったやつ」


「見た。人間の名前と、魔物の名前が一枚ずつ」


「片方はゴブリンが書いたって聞いた」


「歪かった。でも一字一字、ちゃんと書いてあった。「背負った者」とか「急ぐ者」とか——そういう名前で」


「信じるのか」と一人が言った。


「信じる信じないって話じゃないと思う」ともう一人が答えた。「名前があったという事実は、本当のことだろ。作れるもんじゃない」


「そうだな」


「俺の親父も昔、溢出でやられた。だから魔物のことは正直まだよくわからん。でも——死んだやつの名前を呼ぶのは、悪いことじゃないと思う。どっちの側でも」


パンを飲み込んだ。


名前があったという事実は、本当のことだろ。


朝の広場で、無関係な人間がそう言った。俺が言う言葉よりも、こういう言葉のほうが街に馴染む。俺は当事者に見える。どこかで割り引かれる。でも名前も知らない市民が同じことを言えば、それは別の重さになる。


市民の声が票に直結するわけじゃない。


でも代表たちは、自分の国の空気を読んでいる。空気が変わり続ければ、時間をかけて何かが動く。


問題は時間だった。


【共存協定 自動失効まで:あと18日】


広場の石畳の隙間に、雑草が生えていた。踏まれても踏まれても根を張っている。こんな場所でも育てるんだな、と思いながら歩いた。



 



昼を過ぎたあたりで、カイルから通信が入った。


「シャーダが戻りました」


「戻った」


「賛成に。本国から使節が朝のうちに届いて、正式な通達が来ました。「連合全体の意思を尊重せよ」という文書付きで」


【査問集計:賛成64/反対49/保留14】


また64か。


「タイミングが早い」


「昨夜動いた翌朝には、もう圧力が届いてます。常に監視していないとできない速さです。シャーダ代表は謝りに来ました」


「謝る必要はないと伝えてくれ」


「伝えました。泣きそうな顔でした」


俺は少し黙った。


泣きそうな顔。


夜遅く一人で票を動かした人間が、翌朝には押し戻された。その意志は本物だったはずだ。本国に逆らえないだけで、気持ちが変わったわけじゃない。


「他の国への圧力は」


「今朝から本部経由で複数の国に接触が入っています。明示はされていないが——昨日みたいに動けば圧力が来ると、全員にわかってしまいました」


動いたら押し戻される、とわかれば、誰も動けない。


「わかった」


通信を切って、壁に背をもたせた。


これが綱引きというものか、と思った。一票引けば一票引き戻される。引いては戻る、引いては戻る。数字が動いたように見えて、64に固定されている。


でも完全に止まってはいない。シャーダは一度動いた。動きたかった意志が、そこにはある。押し戻されただけで、消えたわけじゃない。


廊下に出て、議事堂の中を歩いた。何かするためではなく、止まっていると頭が固まる気がした。



 



回廊を歩いていると、前から声がかかった。


「アシダ殿」


若い男だった。連合の官服を着ている。見覚えのない顔だ。


「少し、よろしいですか」


「どうぞ」


男が一歩近づいて、声を落とした。「私は連合の記録局に勤めています。末席の——ただの記録係です」


「はあ」


「名簿を、拝見しました。議場に置かれていたものを。両方」


俺は黙っていた。


「家が北方の出です。十二年前の溢出で、弟が亡くなりました」


男は自分の手の甲を見た。革の手袋を、じっと見ていた。


「だから魔物のことは——今でも、よくわかりません。すっきりはしていません」


「そうですか」


「でも」男が顔を上げた。「あの名前を見て、本当のことだと思いました。あんな字は作れない。作ったものじゃないと、わかりました。それだけを言いたかった」


「聞かせてくれてありがとうございます」


男は一度うなずいて、足早に去っていった。


廊下に静けさが戻った。


俺はしばらく、そこに立っていた。


末席の記録係が誰かに頼まれたわけでもなく来て、自分の痛みを話した。票には直結しない。どうにもならないことを言った。それだけのことだ。


でも言いに来た。


こういうことが今日だけで、もう何度か続いている。広場での市民の声も、この廊下での男の言葉も。誰も俺に何かしてほしくて来たわけじゃない。ただ言いに来た。


票は動かない。数字は64に張り付いている。


それでも、何かが積み重なっている。見えない場所で少しずつ、何かが蓄積している。それが力に変わるかどうかはわからない。でも確かに積み重なっている。


それだけが今の俺の手応えだった。



 



夕方、ガレスが戻ってきた。


宿の部屋のドアを開けた瞬間、表情で何かわかった。普段より険しい。椅子を引いてすぐに座って、口を開いた。


「OB会合で、聞こえてしまった話がある」


「聞かせてください」


「強硬派の主要な面々が、今夜、議長に直接会いに行く予定らしい」


「目的は」


「票が動きかけていることへの圧力だ。「このままでは64が崩れる。議長が直接手を打て」という話になっているらしい」


俺はしばらく考えた。「確かな情報ですか」


「確かじゃない。会合の端で、たまたま聞こえた声だ。俺に向けて言ったわけじゃない」


「でも」


「だいたい当たってきた、今まで」とガレスが短く言った。


当たってきた。


ガレスの勘は信頼できる。軍にいた時代に培った、戦場の空気を読む力だろう。こういう男が「当たってきた」と言うなら、外れることはほとんどない。


「共存協定の失効期日を前倒しする話も出ていましたか」


ガレスがわずかに目を見開いた。「なぜわかる」


「前にも同じことをした。有効な手だから」


「……その話も、出ていた」


俺は頭の中で数字を確かめた。


【共存協定 自動失効まで:あと18日】


18日。これをさらに短くされたら、64を崩す前に期限が来る。


「議長は動くと思うか」とガレスが聞いた。


俺はすぐには答えなかった。


オルディーンのことを考えた。昨夜の横顔。「あの日——」という言葉と、その先に沈んでいた十五年分の重さ。


あの人は長い時間をかけて固まってきた人間だ。強硬派の圧力に動かされるかどうかは、俺には判断できない。ただ昨夜、何かが動きかけていたのは確かだった。あの一瞬が本物だとすれば——


「まあ、聞いてから判断しよう」


ガレスが息を吐いた。「……それで落ち着くのが、なんで俺なんだ」


「慣れてくれてよかった」


ガレスが口角を少し上げた。一瞬だけ。


窓の外に夕暮れの灯が見え始めた。議事堂のいくつかの窓に明かりがついている。まだ人がいる。どこかの部屋で今夜、何かが決められようとしている。俺はそれを止めることができない。止める方法が、今の俺にはない。


ガレスと二人で、しばらく黙っていた。


夜が来て、廊下が静かになってから、足音が聞こえた。


複数だった。急いでいる。


俺の部屋の前を通り過ぎて、その先——議長室のある方へ向かっていった。


ガレスが立ちかけた。


俺は手を上げて止めた。


足音が遠ざかる。


そして廊下の向こうから、声が届いた。石の壁に反響して、くぐもっているが聞き取れた。


「議長、抑えろ」


一拍置いて。


「数字が崩れるぞ」



 



ガレスが俺を見た。


「……どうする」


俺は窓の外の灯を見たまま、動かなかった。


足の裏が冷たかった。目の奥が重かった。頭の中だけが、静かに動いていた。


今夜は待つ。


明日の朝、数字を確かめる。


ガレスが少し間を置いてから、低い声で聞いた。「間に合うか」


俺はしばらく沈黙した。廊下の声は聞こえなくなっていた。だが議事堂の灯は、まだ消えていなかった。


「聞いてから、判断します」

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


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