表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
門番、魔王軍と交渉する〜ハズレジョブでも、話を聞く奴が世界を動かす〜  作者: ハル
門番、世界と話す

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
250/277

第250話「望みを聞かれた議長」

夜が明けきる前に、ガレスが俺の部屋のドアを叩いた。


三回。間を置いて、もう一回。彼の叩き方はいつも同じだ。


「昨夜の続きがある」


入ってきた彼の顔を見て、眠れていないとわかった。目の下に影が濃く、いつも真っ直ぐな背筋が少し前に傾いている。歴戦の重騎士の肩が、そういう重さを持っているとき、それは疲労ではなく何か別のものだと俺は経験から知っていた。


テーブルの上の水差しから二つの杯に水を注いで差し出す。ガレスは受け取り、一口飲んで、音なく置いた。


「オルディーンの妻の話だ」


「昨夜、聞きました」


「全部は話していない」


俺は黙った。椅子を引いて座り、両手を膝の上に置いた。促さなかった。促す必要がなかった。ガレスは自分のペースで話す人間だ。急かせば口を閉じる。


窓の外がわずかに白んでいた。夜明けの直前の、一番暗いところが抜けていく色だった。


ガレスは杯を両手で包んで、水面を見ながら話し始めた。


北方溢出が起きたのは十五年前だ。連合の支援が届いたのは、溢出から三日後だった。死者は二百を超えていた。オルディーンの妻は、その三日の間に亡くなった。


「問題は」とガレスが言った。「なぜ支援が遅れたか、だ。当時の議会に、被害規模の報告書が上がっていた。一人の地方官僚が書いた書類だった。上席の者が「見積もりが大げさだ」と言った。誰かが「現場の者は騒ぎ立てるものだ」と言った。そのまま、会議は次の議題に移った」


「オルディーンも、その場にいた」


「末席に」


俺は何も言わなかった。


「あの人は喋らなかった。止める声を上げなかった。それだけだ。ただ流れに乗って黙っていた。そして三日後に、妻を亡くした」


廊下の外で人が歩く音がした。議事堂はもう動き始めている。今日も傍聴の市民が並んでいるはずだった。


「——だから議長になったんですか」


「なりたかったわけじゃないと思う」ガレスは言った。「でも他の方法が見つからなかったんじゃないか。人類を守る。人類の恐怖を代わりに背負う。議長の椅子に座り続けることが、自分への罰だった。そういう人間だ」


俺は立ち上がった。


「今日、会いに行きます」


ガレスが少し目を細めた。否定でも賛成でもなく、ただ確認するような目だった。


「殴られるかもしれないぞ」


「言葉で、ならかまいません」



 



廊下を歩きながら、カイルの集計転送が届いた。


【査問集計:賛成60/反対27/保留40】

【共存協定 自動失効まで:あと20日】


足が止まりそうになるのをこらえて、歩き続けた。


二十日。


多くはない。少なくもない。ただ、今日動かなければ足りなくなるという感覚だけがあった。腹のあたりが、冷えた石の床から来る寒さとは別の感触でひりついていた。


カイルからもう一言、続いた。


「今朝も強硬派がオルディーンに接触している。早くしろ」


急かすな、と思いながら、その通りだとも思った。


議長室は議事堂の一番奥にある。廊下を進むにつれて壁が厚くなり、石の床が音を吸い込み始めた。足音を抑えて歩いた。誰かに声をかけられる前に扉の前に立ちたかった。


扉の両脇に、護衛の兵が二人立っていた。


「面会の申請は」


「していません」


「では——」


「伝言を一つだけお願いできますか」俺は言った。「レン・アシダが、議長にお話を聞いていただきたいと来ている、と」


二人が目を合わせた。一人がわずかに眉を寄せた。俺の名前は知っているはずだった。知らないわけがない。この議事堂で、今一番聞こえている名前の一つだ。


一人が中に入った。


残った兵が俺をじっと見た。敵意でも好意でもない目だった。品定めする目でもなかった。ただ真顔で、俺という人間を見ていた。


俺は壁に背を預けて待った。


廊下の突き当たりから、遠く議場の方向に人声がした。傍聴の市民が入り始めている時間だ。昨日より今日、今日より明日と、その数は増えていた。票は直接動かなくても、あの席に座る人間が増えていることは確かだった。何かが、ゆっくりと、重さを変えていた。


扉が開いた。


「十分だけ、と」



 



部屋は思ったより小さかった。


広い執務室を想像していたが、議長室は質素だった。書類の山が机の上に積まれ、椅子が二脚あり、小さな窓がある。窓から見える空は白く曇っていて、光が平らで影がなかった。寒かった。暖炉には火が入っていたが、石の壁が冷えていて追いついていなかった。


オルディーンは机の向こうに立っていた。


座ってはいない。立ったまま俺を見ていた。七十に近い年齢のはずだが、その目は衰えた人間のものではなかった。重いものをずっと持ち続けてきた人間の目だった。降ろしたくても降ろし方を忘れてしまったような、そういう目だった。


「十分しかない」と彼は言った。「私は忙しい」


「わかっています」


「弁明なら査問の場で言え」


「弁明じゃないです」


俺は部屋の中央に立ったまま言った。椅子を勧められる前に、動いた。


「あなたに、一つ聞かせてもらいたいことがある」


「——俺に?」


「あなたに」


短い沈黙があった。


彼は動かなかった。俺も動かなかった。石の部屋は冷えていて、指先が少し悴んでいることに気づいた。暖炉の火が小さく爆ぜた。


「何を聞く気だ」オルディーンが言った。


「昨日の議場で、名簿を見ましたね」


「——」


「一瞬だけです。でも確かに見た」


彼は何も言わなかった。否定もしなかった。それが答えだった。


俺は続けた。


「俺がこれまで話してきた人たちは、みんな怖かった。ガレスは魔物が怖かった。ロウン代表は兵士たちの死が無駄になることが怖かった。グリシオン代表も、ファベル代表も、みんな怖がっていた。でも怖いものが何かを話してくれたとき、少しだけ動けた」


「だから何だ」


「あなたも怖い」俺は言った。「でもあなたが怖いのは、議長としての怖さだけじゃない、と思っています」


オルディーンの目が、細くなった。


怒りではなかった。何かを堪えているような、何か古いものが表に出かかって、押さえられているような——そういう目だった。長い年月をかけて作り上げてきた表面の、その下の方で、何かが動いていた。


「……お前は、何を知っている」


「十五年前のことを、聞きました」


「誰から」


「ガレスから」


オルディーンの手が、静かに机の縁を掴んだ。白い指が木の角を押さえた。強く。


「あの男は——」と言いかけて、止まった。


口を閉じた。手の力は抜けなかった。


俺は待った。


急かさなかった。急かしてはいけないと思ったのでなく、今は急かす必要がなかった。彼の中で何かが動き始めているのがわかった。引っ張り出すのではなく、自分から出てくるのを待つ。それだけでよかった。


廊下の外で、護衛の兵がかすかに咳をした。それだけが聞こえた。


長い沈黙があった。


暖炉の火が揺れた。


「——あの日」


低い声だった。


「俺は議会の席にいた。報告書が上がってきた。字の荒い、一人の官僚が書いた書類だった。上席の者が「見積もりが大げさだ」と言った。隣の者が「現場は常に騒ぎ立てる」と言った。俺は——何も言わなかった」


声が低くなっていく。


「言えばよかった。少なくとも「聞いてみよう」の一言でもよかった。でも俺は流れに乗って黙っていた。次の議題に移って、その日の会議が終わった。三日後に——妻が死んだ」


短い文だった。


あまりに短くて、それだけで部屋の空気が全部変わった。十五年分の重さがその三文字の中に詰まっていた。


俺は何も言わなかった。


今は言わない場面だった。彼はまだ続けていた。内側で。それが言葉になって出てくるのを待った。


しばらくして、オルディーンが続けた。


「それからずっと、後悔している。あの日、俺が一言でも声を上げていれば、何かが変わっていたかもしれない。変わらなかったかもしれない。でも少なくとも俺は——自分に対して、言い訳ができた。俺はちゃんと聞こうとした、と」


「……」


「お前が査問の場でその言葉を使うたびに、苛立った」彼は言った。「憎らしかった。——お前のその言葉が正しいことを、俺は十五年前からずっと知っていたからだ」



 



俺は静かに息を吸った。


冷えた空気が、肺の奥まで入ってきた。


「俺に怒りをぶつけていいです」


オルディーンが俺を見た。


「なに?」


「怒っていい」俺は言った。「俺が来るたびに議場が騒がしくなって、票が動いて、あなたの仕事が増えた。何も丸く収まっていたものが、毎日少しずつ揺らいでいる。怒っていい」


「怒っても」と彼は言った。「意味がない」


「そうですね」


「怒ったところで、何かが変わるわけじゃない」


「そうですね」


もう一つの沈黙が落ちた。


さっきとは違う沈黙だった。何かを堪えているのではなく、張っていたものが少し緩んだような——長い間、人に聞かれたことのなかった話を、久しぶりに声にした後の静けさのような沈黙だった。


机から離れた手が、傍らに下がった。


俺は一歩、前に出た。


「一つだけ、もう聞かせてください」


「……まだあるか」


「最初から、これだけ聞きたかった」


オルディーンの目が、俺の顔に向いた。


「あなたは人類を代表して怖がっている。百二十七国の恐怖を、あなたが背負っている。それはわかります。十五年前から、あなたはずっとそうしてきた」


俺は続けた。


「でも——」


部屋が静かだった。


廊下の気配も、遠くの議場の音も、暖炉の爆ぜる音も、今この瞬間は消えたような気がした。


「あなた自身は、何を望みますか」


沈黙が、深くなった。


オルディーンの目が、揺れた。


揺れた、というより、ぶれた。普段の彼の目には絶対にない種類の動きだった。長い間、揺れてはいけない場所に立ち続けてきた人間が、初めて足元の石を疑ったような——そういう目だった。


口が、開きかけた。


「私自身の、望み……」


声が、かすれた。


「そんなものを、聞かれたのは——」


そこで、止まった。


喉の奥で何かが詰まったように、言葉が出なくなった。


部屋の中に、十五年分の沈黙が降りてきた。


【共存協定 自動失効まで:あと20日】

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


毎日昼・夜の2回更新中です。続きが気になったら、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。


もしこの話が面白かったら、☆評価をいただけると本当に助かります。

なろうの評価は日間・週間ランキングに直結するので、1クリックが「次の100話」を書く燃料になります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ