第249話「議長の喪失」
老女の指が、止まった。
ゴブが一晩かけて書き写した名簿の上で、その指先がゆっくりと一行をなぞっている。歪な人語の文字——魔物の名前を人間の言葉に直したものだ。正確には「名前」とも言えない。それぞれが意味を持つ、ありていに言えばあだ名のようなものが、羊皮紙を埋めていた。
議場が静かになっていた。
さっきまでダイエル代表グリシオンと俺の言い争いで揺れていたのに、あの老女が立ち上がった瞬間から、百二十七国の代表全員が声をひそめた。高い窓から光が差し込んでいる。その光の中に、老女の白い髪が溶けていた。
俺は一歩近づいた。
老女は顔を上げなかった。指だけが動いている。
「息子が……話してくれたことがあったんです」
声が細かった。震えていないが、遠い声だった。
「ダイエルの溢出のとき、息子が前線にいて。魔物と一緒に逃げた村があったって。そこで魔物の一匹が、逃げ遅れた子供を背中に乗せて運んで……その魔物は、帰ってこなかったって」
老女の指が、名簿の一行の上で止まった。
「背負った者」という意味の名前だ。ゴブが人語に直すとき、そう訳した。
「信じていなかったんです、最初は」と老女は続けた。「魔物がそんなことをするはずがないと思って。でも息子の手紙に書いてあって。ずっと気になっていたんです。本当のことなのかって」
俺は名簿を見た。「背負った者」の文字がある。
「この子かもしれません」と俺は言った。
老女がゆっくりと顔を上げた。
赤い目だった。涙は出ていなかったが、ずっとこらえてきた跡が顔に刻まれていた。
「……本当に」
「断言はできません」と俺は言った。「でも、場所と時期が合う」
老女の指先が、その文字に触れた。羊皮紙の粗い表面を、静かになぞった。
俺は何も言わなかった。
真実だったかどうか、今となっては確かめようがない。でも老女の息子が見たものが本当なら、その魔物は確かにいた。帰らなかった魔物が。名前を持たないままここに名前として書かれた存在が。俺はその存在をこの手で会ったわけじゃないが、ゴブが一文字ずつ書き写した文字を見ていると、夜通しかけた時間の重さが伝わってくる気がした。
「息子に、確かめたかったんです」と老女は言った。
声が、また細くなった。
「でも息子は——翌年の戦で」
言葉が途切れた。
議場の中で、誰も何も言わなかった。
老女は続けなかった。続ける必要がなかった。
「今日、ここで話してくれました」と俺は言った。
老女が俺を見た。
「俺が聞きました。この場にいる全員が聞いた。あなたの息子さんが見たことは、今日から消えません」
老女の目から、静かに涙が落ちた。声は出なかった。ただ、頬を伝う涙だけがあった。
老女は名簿の文字に手を乗せたまま、長い間そこにいた。俺も動かなかった。
議場の沈黙は、続いた。
「……弁明の続きを」
セルウィンが口を開いたのは、老女が席に戻り、椅子の音が静まってからだった。声が低かった。いつもより低い。
「弁明は以上です」と俺は言った。
「まだ——」
「俺が言うことは、全部言いました」
名簿は台の上に並んでいる。人間側の死者名と、魔物側の死者名。二枚の羊皮紙がそこにある。何かを主張しているわけじゃない。ただ、存在している。
セルウィンが俺を見た。いつもの「冷たい査問官」の目ではなかった。何か別のものが混じっていた。名簿の方に一度視線が向いてから、また俺に戻ってきた。その一瞬が、妙に長く感じた。
「採決の変更を申し出ます」
ダイエル代表グリシオンが立ち上がった。議場がざわいた。
「ダイエルの一票を、保留に変更します」
グリシオンの声は低く、感情が抜けていた。感情を排除しなければ言えないことを言っている声だ、と思った。さっきまで「無駄死にを認めることになる」と言っていた男が、今、自分で保留を申し出ている。
「……異議を認めます」とセルウィンが言った。
声が、一拍置いた後だった。
俺はセルウィンの方を横目で見た。彼の目は、また名簿に向いていた。
議場の外に出ると、カイルが柱の陰で待っていた。通信石を両手で持っている。
「更新した」とカイルは言った。
【査問集計:賛成60/反対26/保留41】
【共存協定 自動失効まで:あと23日】
「六十か」と俺は言った。
「グリシオンが動いたのは大きい。追随する国が出る可能性がある」とカイルは言った。「でも六十四の壁はまだそこにある」
「ああ」
「何か考えてるか」
俺は議場の方を振り返った。石の柱の向こうに、議長席がある。今も、オルディーンがそこにいるはずだ。
「今日、議長が名簿を見たとき」と俺は言った。
「見ていたか?」
「一瞬だけ。すぐに前に向き直した」
カイルが少し眉を寄せた。
「まあ」と俺は言った。「今日はここまでにする」
夜、宿の廊下にガレスがいた。
鎧を外した格好で、壁にもたれて腕を組んでいる。大剣が壁に立てかけてある。訓練帰りではない。ただここで待っていた、とすぐに分かった。
「話があるか」と俺は言った。
「少しだけ」とガレスは答えた。
部屋に入り、俺が椅子を引いた。ガレスは座らずに窓際に立った。ヴァリスの夜が、石畳の灯りの中に広がっている。どこかで水が流れている音がかすかに届いた。
「今日の老女」とガレスは言った。「息子を戦争で失ったんだろう」
「たぶん」と俺は言った。
「……俺も、部下の親御さんに会いに行けていない者がいる」
ガレスは窓の外を見たまま、静かに言った。自分に言い聞かせているような言い方だった。
「オルディーン議長の話をしていいか」
俺は背筋を伸ばした。
「聞く」
ガレスが一度息をついてから、ゆっくりと椅子を引き寄せた。座った。ガレスが椅子に座るのを見るのは初めてだった。いつも立ったまま話す男が、今夜は座っている。
「十五年前」とガレスは言った。「北方で大きな溢出があった。第三迷宮の封印が崩れて、三日間にわたって大型の魔物が街と郊外に溢れた」
「知らなかった」と俺は言った。
「公式記録にはない」とガレスは言った。「被害が大きすぎて、当時の政府が隠した。死者数は公式発表の倍以上いた、と言われている。今でも非公式の話だ」
部屋の中に、夜の静けさがあった。廊下を誰かが歩く音が遠くにして、また消えた。
「オルディーンはそのとき、ヴァリスの郊外に住んでいた。当時は地方議員の補佐をしていた。妻と、子供が二人いた」
ガレスの声は感情がなかった。事実だけを並べている声だった。
俺は黙って聞いた。
「溢出の第二波が来た日、彼は議会の緊急招集で街に出ていた。妻と子供たちは家に残っていた」
「……それで」
「封印が落ち着いて、彼が村に戻れたのは三日後だった」
ガレスが言葉を切った。
部屋の中に、その続きが静かに落ちる前の間があった。俺はその間を埋めなかった。
「家は残っていた」とガレスは言った。「子供は二人とも生き残った。妻が逃がしたと言われている」
「妻は」
「残らなかった」
短い言葉だった。でもその短さが、十五年分の重さを持っていた。
俺は椅子の上で、しばらくそこにいた。何かを言おうとして、何も出てこなかった。
「十五年前の話だ」と俺はようやく言った。
「ああ」
「その後、彼は」
「政界に入った」とガレスは言った。「感情を出さない分、判断が早いと評判になった。三年前に議長の座に就いたとき、反対者は一人もいなかった」
俺はオルディーンの顔を思い浮かべた。
あの静かな横顔。百二十七国の代表たちを見渡す目。何を言っても変わらない表情。老女が立ち上がったとき、一瞬だけ揺れた目。そして素早く前に向き直した、あの動作。
「十五年間、誰にも言えなかったのか」と俺は言った。
「言える状況じゃなかった」とガレスは言った。「公式には記録されていない溢出だ。公式に悼む場がない。妻の死が、書類の上には存在しない」
俺は拳を太腿の上に置いた。
レイラのことを思った。
戦争で家族を失って、怒りをぶつける場所を持っていたレイラ。工作できた。誰かを憎めた。その憎しみが歪な形で世界を動かしたけれど、少なくとも彼女は声を出せた。外に向けられた。
「レイラと同じだ」と俺は言った。
「もっと深い」とガレスは言った。静かに、はっきりと。「レイラは怒りを外に向けられた。でもオルディーンは内に向けるしかなかった。十五年間、一人で抱えてきた。誰に話せる? 存在しない溢出の、存在しない死者だ」
俺は目を閉じた。
「だから彼は感情を出さない」と俺は言った。
「感情を出せる場所が、もうどこにもない」とガレスは言った。「今日、議場で俺は議長の顔を見ていた。老女が立ち上がったとき、一瞬だけ、何かが滲んだ。瞬きくらいの間だったが、確かに見た」
「俺も見た」と俺は言った。
「だから話しに来た」
窓の外で風が動いた。夜のヴァリスの灯りが、揺れるように見えた。
「彼は俺との和解を認められない」と俺は言った。
「ああ」
「妻を失ったことを、無意味にするから」
「そうだ」とガレスは言った。「論じゃない。感情の問題でもない。十五年間、言えなかった話がある。言えなかったから、誰にも聞いてもらえなかった。聞いてもらえなかったから、どこにも置けないまま、ずっと持ち続けてきた」
俺は椅子から立ち上がり、窓際に歩いた。
石畳の灯りが、濡れたように光っている。
老女の言葉が頭に浮かんだ。
「息子に、確かめたかったんです」
確かめられなかった話が、ずっとある。それを抱えたまま、人は長い間、生きていく。そして誰かに聞いてもらえた瞬間に、初めてどこかに置けるものがある。
オルディーンには、それがまだない。
「ガレス」と俺は言った。「その話を、どこで聞いた」
「古い同僚から。十年以上前に、酒の席で。口止めされたが——お前には話した」
「なぜ」
ガレスは少しの間、答えなかった。窓の方を向いていた。
「今日の老女を見て、思ったことがある」とガレスはゆっくりと言った。「話せていない話を誰かに聞いてもらえたとき、人は変わることがある。それをお前が一番知っているから、知らせた方がいいと思った」
俺は振り向いた。
ガレスの目が俺を見ていた。
「扉を叩けるか」とガレスは言った。
「叩ける」と俺は言った。「でも開けるかどうかは、中にいる人間が決める」
「それで十分か」
「十分じゃないかもしれない」と俺は正直に言った。「でも叩かないよりはいい」
ガレスが立ち上がった。椅子の軋む音がした。
「あの人は」とガレスは言った。
俺を見た。静かに、確かめるように。
「誰よりも、赦せない側だ」
ガレスが部屋を出た後、俺は長い間、窓の外を見ていた。
十五年間。
言えなかった十五年間の重さが、今も議長席の下にある。
レイラは怒れた。ぶつけられた。だから俺は聞けた。
オルディーンの痛みは、音がない。
十五年間、音を立てなかった痛みだ。それがどれほどのものか、俺には計れない。でも。扉の前に立つことはできる。開けるかどうかは、中にいる人間が決める。それが全てだ。
「カイル」と俺は言った。
隣の部屋で起きていたらしく、すぐに扉が開いた。
「一つ確認してほしいことがある。議長が今夜、どこにいるか分かるか」
カイルが少し眉を上げてから、通信石を取り出した。
夜が白み始めるころ、短い返事が来た。
「議長は今夜、連合の記録室に一人でいる。三時間以上になる」
俺はその言葉を頭の中で転がした。
記録室に、一人で。十五年前の溢出の公式記録は消されている。でも消せなかったものが、どこかに残っているかもしれない。あるいは何も探していない。ただそこにいるだけかもしれない。どちらでも、俺には今夜はどうすることもできない。
俺は毛布をたたんで、夜明けを待った。
やることは一つだ。扉の前に立つこと。
「まあ」と俺は小さく言った。「聞いてから、判断しよう」
ヴァリスの空が、少しずつ明るくなっていく。
【査問集計:賛成60/反対26/保留41】
【共存協定 自動失効まで:あと23日】
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