第248話「二つの名簿」
「無駄だったとは、俺は一度も言っていません」
その言葉を言った瞬間、議場に微妙な静寂が落ちた。
大国ダイエルの代表——グリシオンという白髪の老人——は、俺をじっと見ていた。目の奥に、燃えているのか、怖いのかよくわからない何かがあった。どちらでもあって、どちらでもないような目だった。
「では、何と言うつもりだ」
答える前に、セルウィンが割り込んだ。「本日の審議時間が終わりました」
グリシオンはゆっくりと席を立った。去り際に一度だけ振り返って、俺を見た。
「明日、聞かせてもらう」
それだけ言って、出て行った。
廊下に出ると、カイルが腕を組んで壁に寄りかかっていた。
「聞いていたか」
「全部」
「どう思う」
カイルはしばらく黙った。「グリシオンは本気で怒っているわけじゃない。怖いんだ。戦争に意味があったと信じることで、立っていた」
俺も同じだと思った。かつてのガレスがそうだったように。
「……名簿が要る」
カイルが顔を上げた。「名簿?」
「二つ。戦争で死んだ人間の名前の一覧と、魔物側の死者の一覧」
沈黙が伸びた。カイルが低く言った。「人間側なら連合の記録から取れる。ただ量が多い。どのくらいの範囲で必要だ」
「ダイエルが出兵した地域のもので構わない。全部じゃなくていい」
「分かった」カイルは通信石を取り出した。「魔物側は」
「ゴブに頼む」
カイルが静かに息を吐いた。「……夜中に」
「起こして悪いと思っている」
「そういう話じゃない」カイルはかすかに笑った。「大丈夫だ。あいつは夜中でも起きていることが多いから」
俺は自分の通信石を取り出した。石が光るまで、廊下の石畳を見ていた。足の裏が鈍く疲れていた。一日立ちっぱなしで、まだ夕飯も食べていなかった。
「……外の調停者。珍しい時間に」
つながった。ゴブの声は低く、少しだけ眠そうで、でも穏やかだった。第七迷宮の門番になって三年。この声はあの頃より落ち着いている。
「起こして悪い。頼みがある」
「俺に頼めることなら」
「戦争で死んだ魔物の名前を集めてほしい。全部でなくていい。できる範囲で、人語で書いたものを」
長い間があった。
「……名前か」
「そうだ」
「なぜ名前を」
「ここに、死んだ仲間を無駄死にだと思いたくない人間がいる。その人に、向こうも死んだという事実を届けたい」
また間があった。今度は長かった。俺は急かさなかった。石を持つ手が重かった。廊下には他に人影はなく、遠くから夜の虫の声がかすかに届いた。
「……分かった。明日の朝までに送る」
「ありがとう」
「礼はいい。ただ——」ゴブが言いかけて、止まった。
「ただ?」
「……ちゃんと、読まれるか」
俺は一瞬考えた。「読まれるように、する」
石の光が消えた。カイルが黙って立っていた。
「……ゴブが自分で書くんだろうな」
「そうだと思う」
「字、上手くないぞ」
「知っている」
宿に戻ったのは夜も更けてからだった。カイルが連合の記録室から取り寄せた資料は、厚い束になっていた。表紙の隅に「一千四百二十三」という数字が書いてあった。ダイエルの出兵分の死者数だった。
ガレスが椅子に座って、その束を眺めていた。触れてはいなかった。ただ、そこに置いてある。
「中を見るか」と俺は聞いた。
「……入っていると分かっている」
「十二人の名前」
「それだけじゃない」ガレスは低く言った。「あの戦争で俺の下についていた者は、四十七人いた」
俺は何も言わなかった。
部屋の明かりは一つだけだった。ガレスの手が、資料の束の横に置いてあった。触れているわけでも、退けているわけでもなく、ただそこに置いていた。
「——お前は、これを議場に持っていくのか」
「そうしようと思っている。魔物側の名前と、並べて」
「……並べて、どうする」
「置くだけだ」
ガレスは黙った。しばらくして、静かに言った。「俺も行く」
「証言は頼まない」
「俺が行きたい、と言っている」
それだけ言って、ガレスは椅子の背にもたれた。窓の外が暗かった。
翌朝一番、カイルから通信が届いた。フォルを経由したゴブの文字が、転送されて映し出された。
慣れていない手で書かれた人語の名前が並んでいた。字の大きさが揃っていない。力の入り方が、行ごとに違う。途中で何度か書き直した跡もあった。一つ一つの名前の横に、小さく種族が書かれていた。ゴブリン、コボルト、オーク。数は三百あまりだった。
俺はしばらく、それを見ていた。
「……ゴブが自分で集めたのか」
「みんなで分担して情報を集めて、ゴブが清書したらしい」とカイルが言った。「第七迷宮の各層の長に昨夜から聞いて回ったそうだ」
俺は何も言えなかった。
昨夜から今朝にかけて、ゴブは眠れなかっただろうと思った。「ちゃんと読まれるか」と確認してから、それでも書いた。
二枚の紙を重ねて持ったとき、思っていたより重かった。
議場に入ったとき、グリシオンはもう席についていた。俺を見ると、昨日と同じように目を細めた。ただ昨日より、そこに何かが増えていた。準備をしてきた人間の顔だった。
「昨日の続きを聞かせてもらおう」
「その前に——」俺は台の前に立った。「一つだけ、置かせてください」
セルウィンが眉を動かした。「何を」
「二つの名前の一覧です」
俺は右手に人間側、左手に魔物側の名簿を持って、台の上に並べた。
「こちらが、戦争で亡くなった人間の名前です」右の紙に手を置いた。「こちらが、魔物の名前です」左の紙に手を置いた。「どちらも、本当に死にました」
静寂があった。
「昨日、グリシオン代表は言われました。魔物と和解したと認めたら、死んだ兵士は無駄死にになる、と。俺は昨日、「無駄ではない」と答えた。今日、その意味をここに置かせてください」
俺は台を離れた。「弁明でも証拠でもありません。ただ——置きたかった」
最初に動いたのは、セルウィンだった。
進行役として、書類の確認をするような動きで台に近づいた。人間側の名簿を手に取った。最初の何行かを、読んだ。
「……名前が、書いてある」
当たり前のことを言った。でも、声が違った。論を切り出すときの鋭さではなく、ただそのままの声だった。
次に魔物側の名簿を手に取った。
「……字が、歪んでいる」
「慣れていないので」
セルウィンは名簿を台に戻した。何も言わずに自分の席へ戻った。その背中が、いつもより重かった。
傍聴席がざわめき始めていた。雑音ではない。誰かが隣の誰かに、低い声で何かを言っていた。
喪章をつけた年老いた女性が、立ち上がった。
警備が制止しようとするのを、セルウィンが片手を挙げて止めた。
女性は壇に近づいて、二枚の名簿を見た。人間側を先に見て、次に魔物側を見た。
「……魔物にも、名前があるんですか」
「ゴブリンの門番が集めました。全部は分からなかったかもしれない。でもこれが、分かった分です」
女性は動かなかった。
「……うちの息子の名前を、探してもいいですか」
「どうぞ」
女性の指が、人間側の名簿の行をゆっくりとなぞり始めた。長い時間がかかった。止まって、また動いた。あちこちを見て、また戻った。
議場の代表たちが、誰も声を出さなかった。
「——あった」
女性の声が、割れた。
泣きながら声が出た。それがかえって、場の空気を震わせた。声を出さずに泣くのと、声を出して泣くのは違う。
議場が——静まりかえった。
俺は何も言わなかった。言う必要があるとは思わなかった。ガレスが横で、低く息を吐いた。
グリシオンが、立っていた。
いつ立ったのか気づかなかった。台を見ていた。女性が席に戻るのを待って、歩いていった。
魔物側の名簿を、手に取った。
老人の手が、字の一行一行をゆっくりとたどった。
「……誰が書いた」
「魔物の門番です。昨夜から今朝にかけて」
グリシオンは顔を上げなかった。名簿を見たまま言った。「人語が書けるのか」
「あの門番は書けます。仲間の力も借りながら」
「……字が歪んでいる」
「不慣れなので」
「そうか」グリシオンは名簿を台に戻した。戻すとき、少し丁寧だった。粗末に扱うことが、できなかったように見えた。
「我が国の兵士を殺した者たちの名前が、ここにある」
「そうです」
「我々の名前も、向こうにある」
「そうです」
グリシオンは俺を見た。「——お前は、何が言いたい」
「何も」
「何も?」
「置きたかっただけです。両方が死んだという事実を、裁く場所に置きたかった。それだけです」
グリシオンは長い間、俺を見ていた。老人の目の奥にあるものが、少しだけ変わった気がした。燃えていたものが、向きを変えたような。
「……無駄ではなかった、とお前は言う。では、何だったんだ」
「死んだんです」
俺は答えた。「有意義だったかどうかじゃない。死んだ。向こうも死んだ。その重さは変えられない。消えない。だから——」
「だから、何だ」
「消えないものを、ここに置きたかった」
グリシオンはもう一度名簿を見た。それから自分の席に戻った。何も言わなかった。ただ、昨日と顔が違った。何かが下りていた。
昼の休憩中に、カイルが来た。
「四票、動いた」
「どこが」
「ダイエルとその周辺の小国が三つ。グリシオンが廊下で話したらしい。詳細は不明だけど転票の通知が入った。あとライゴが保留に切り替えた。代表が名簿を見ていた後、室長を呼んで三十分ほど話し合っていたそうだ」
カイルが通信石を叩くと、数字が映し出された。
【査問集計:賛成61/反対29/保留37】
【共存協定 自動失効まで:あと24日】
64から61。過半数まではまだ遠い。でも今日の変化は、数字だけじゃなかった。
「名簿を、夕方の審議でも台に置いたままにできるかセルウィンに確認する」
カイルがしばらく黙った。「……置きっぱなしか」
「一日でいい」
「分かった。聞いてみる」
廊下の窓から午後の光が差し込んでいた。俺はそこで初めて、昼食をまだ食べていないことに気づいた。朝から動きっぱなしで、空腹を忘れていた。
「——飯、先に食えるか」
カイルが顔を上げた。「……今か。次の審議まで三十分しかないぞ」
「三十分あれば食える」
「ガレスを呼ぶなよ。奢ることになる」
「もう聞こえてるぞ」と廊下の角からガレスの声がした。重い足音が近づいてくる。「お前ら、俺なしで飯を食おうとしているな」
「違う」
「嘘をつけ」
夕刻の審議が始まるとき、二枚の名簿はまだ台の上にあった。
セルウィンは何も言わなかった。撤去も命じなかった。
代表たちが席につく前に、何人かが台の前で足を止めた。名簿を見た人もいた。素通りした人もいた。長い時間そこに立っている人もいた。グリシオンは台の前で一瞬立ち止まり、魔物側の名簿を一度だけ見て、席に戻った。
昨日と、顔つきが違った。
セルウィンが淡々と審議再開を告げた。
「本日、名簿について発言のある代表は」
名乗り出る者はいなかった。
静寂が広がった。
その静寂の中に、何かがある。昨日とは違う。議場が、ほんの少しだけ——弔いの場に近い何かになっていた。
まあ、聞いてから判断しよう。次にどこへ声をかけるか、まだわかっていなかった。でも今日起きたことは、論では起きなかった。俺が何かを証明したから起きたのでもなかった。
名前が置かれたことで、起きた。
傍聴席の老女が、喪章に静かに手を当てていた。それだけが、引っかかっていた。
【査問集計:賛成61/反対29/保留37】
【共存協定 自動失効まで:あと24日】
傍聴席が、静まりかえっていた。
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