第246話「聞いてみたくないか」
「私は、議長だ」
オルディーンの声は低く、かすれていた。
「私の意見など——」
続きが来なかった。
俺が最後に見たのは、議長の背中だった。大きな肩が、廊下の奥へとゆっくり遠ざかっていく。足音は静かだった。石畳に、革靴の音だけが短く響いて消えた。扉が、静かに閉まる。
夕暮れの光が廊下の窓から斜めに差し込んでいた。ふわりと、埃の粒が光の中を漂っている。その粒を目で追いながら、俺はしばらく廊下に立っていた。
言わなかったのか、言えなかったのか。
その違いは、今はまだわからない。
ただ、扉の前で一瞬だけ止まった足。それが俺には引っかかった。
引き下がることにした。今日はここまでだ。押しつけて引き出した言葉は、相手の中に根付かない。それはレイラのときに学んだことだった。
廊下を出ると、カイルが壁際で腕を組んで待っていた。
「どうだった」
「言わなかった、と言えなかった、には違いがある。今日は後者だったかもしれない」
カイルが「……どう違う」と聞いた。
「言わなかったなら、いつかは言う。言えなかったなら、何かが邪魔している。どちらかによって、次の手が変わる」
「今は後者だと」
「たぶん」
カイルが少し黙った。「それで、どうする」
「今日は何もしない」
ガレスが廊下の柱から離れながら近づいてきた。「飯は食うか」と問うた。
「食う」
「そこだけは即答するんだな」
三人で宿に戻った。夕方の通りは人混みで賑わっていた。屋台の煙が路地に漂い、肉の焼ける匂いがした。ヴァリスの夜は早い。日が沈む前に人が動き、日が落ちると静かになる。
宿の食堂で粥と黒パンを頼んだ。温かいものが腹に入ると、足の裏の疲れが遅れてやってきた。毎日歩いている。代表の部屋の前で待ち、廊下を往復し、広場を行き来する。靴底から響くような疲れが、今頃になって足の裏に出てきた。
布団に入る前に、窓の外を見た。
星がなかった。曇っているせいか、街の明かりだけが夜空に滲んでいる。
俺のやっていることが、どのくらい届いているのか。
フェンから始めた一対一の対話。レイラの証言。ガレスの寝返り。積み重ねてきたものはある。票は六十三まで下がった。でも今は固まって動いていない。
それでも何かが変わっているという感覚が、今日のオルディーンの背中を見たときにあった。うまく言葉にならないが、確かにあった。
そのまま眠った。
翌朝、カイルから通信が来た。
【査問集計:賛成63/反対48/保留16】
【共存協定 自動失効まで:あと30日】
「動いてない」とカイルが言った。
「わかった」と俺は言った。
窓の外は曇りのままだった。
その日はエシンス代表に当たることにした。三十分ほど話した。エシンスは丁寧な人間だった。答えも丁寧だった。「隣国のケルダが動けば、我々も再考の余地がある」と言った。
ケルダは連合内でも力のある大国で、変わる気配がない。鶏と卵の話になっていた。
「ありがとうございます」と礼を言って部屋を出た。
廊下でカイルが集計石を手に持って待っていた。
「どうだった」
「鶏と卵だ」
「また空振りか」
「空振りじゃない。どこで止まっているかがわかった」
「それで票が動くのか」
「今日は動かない。でも止まっている場所がわかれば、次に何を崩すかが見えてくる」
カイルが「ケルダに当たらないのか」と聞いた。
「今日はまだ早い。雰囲気で固まった票には、雰囲気が変わってから当たるほうがいい」
「その雰囲気はどうやって変える」
「まあ、聞いてから判断しよう」
カイルが「本当にそれしか言わないな」と呟いた。呆れていたが、怒ってはいなかった。
昼になった。ガレスが「今日の午前は、連合側に大きな動きがなかった」と報告した。
「静かすぎる」とガレスが続けた。
「悪い意味でか」
「静かなときは、たいていこちらが見えていないところで準備している」
俺はそれを頭の片隅に置いておくことにした。
昼飯のパンを半分齧ったとき、カイルが「今日の傍聴席、人が多かった気がする」と言った。
「いつもより?」
「ああ。朝から席が埋まってた。いつもは午後から増えるのに」
「気になるか」とカイルが聞いた。
「少し。何かあったかはまだわからん」
翌日、集計の数字は変わっていなかった。【失効まで:あと29日】
午後の議事が始まった。
俺は傍聴席の一番端に腰を下ろした。表向きの目的はセルウィンの動きを確認することだった。どの国の代表を次に絞るかを事前に読めれば、先に動ける。
でも気がつくと、議事台よりも傍聴席を見ていた。
最初の頃、この場所は物見の空気が強かった。珍しいものを見に来た顔の人が多かった。「人類最大の脅威を一目見てみよう」という好奇心と、「どうせ処分されて終わり」という冷めた確信が半々だった。
それが変わってきていた。
三列前に中年の女性がいた。手元に小さな紙を広げて、何かを書き留めていた。議事台の発言を記録しているらしい。今日は特に重要な発言があったわけではない。それでも書いている。習慣になっているのかもしれない。
斜め後ろに、若い男が二人並んでいた。一方が耳元で何かを囁き、もう一方がうなずく。議事の内容について話し合っているようだった。
窓際の席に、初老の商人風の男が座っていた。腕を組んで目を細め、議事台をじっと見ている。見切りをつけた目ではなかった。何かを量っている目だった。
同じ顔が続けて来ている。
俺はそれに数日前から気づいていた。最初は確信が持てなかったが、今日は確かだった。昨日も来ていた女性。一昨日も来ていた老人。物珍しさで来ていたはずの人たちが、理由を持って来るようになっていた。
票じゃない。
票は代表が持っている。傍聴席の市民には査問の結果を変える力がない。
でも何かが変わっている。
端の席に子供を連れた父親がいた。子供は十歳くらいだ。議事台を指さして父親に何か聞いている。父親が小声で答えていた。何を話しているのかは遠くて聞こえなかったが、父親の顔が真剣だった。
昼の広場でも、似たようなやりとりを耳にしていた。
「あのアシダという男、三週間来てるが一度も怒らないな」
「怒るようなことを言われているのに」
「だから不思議なんだよ。根拠があるはずだろ」
名前を知っている。顔を覚えている。怒らないことを知っている。
この街の市民が、俺のことを少しずつ知りはじめていた。
翌朝。
【査問集計:賛成63/反対48/保留16】
【共存協定 自動失効まで:あと28日】
数字は変わっていなかった。
「今日はどうする」とカイルが聞いた。
「昼の休憩に、広場に出る」
「代表でなく、市民のほうか」
「様子を見るだけだ」
「票は取れないぞ。市民には」
「わかってる」
カイルが「……そうか」と言って、それ以上は聞かなかった。
昼の休憩になると、俺は議事堂前の広場に出た。
空がいつのまにか晴れていた。昨日まで曇りっぱなしだったのに、気づいたら雲が西に流れていて、白い光が石畳に降りていた。噴水の縁に腰を下ろした。
傍聴席から出てきた人の流れが、広場に広がっていく。屋台で食べ物を買う人、噴水のそばで話す人、連れと並んで歩く人。
いくつかの話し声が耳に入ってきた。
「今日のあの証言、本物だと思うか」
「嘘をついている顔には見えなかったな」
「でも顔で判断するのは早い」
「そうだな。……ただ見てると、代表たちと俺たちを同じ目で見てるんだよ、あの人。上から見てない」
水の音を聞きながら、別の方向の声に耳を向けた。
「あの人、ずっと聞いてばかりいるな」
「弁明の場のはずなのにな」
「それが妙に気になる。怒鳴られるより、聞かれるほうが怖い気がして」
「怖い?」
「なんとなく、ちゃんと話さなきゃいけない気になるから」
若い女の声だった。
俺は後ろを向かないようにして、それを聞いていた。
ちゃんと話さなきゃいけない気になる。
その言葉が、少し残った。
論破じゃなく、聞く。聞くことで、相手の中に何かが生まれることがある。ガレスもそうだった。レイラもそうだった。でも今まで、市民の口からそういう言葉を聞いたことはなかった。
広場の向こうで、子供が走っていた。父親が追いかける。
「ねえ父さん、あのアシダってどこにいるの」
「どこかにいるだろう」
「会えるかな」
「——会えるかもしれないな」
父親の声が遠ざかっていった。
俺は噴水の石縁に手をついて、空を見上げた。
青い空だった。
午後の議事が始まる前に、傍聴席に戻った。席は昼前より増えていた。端の席に腰を下ろすと、隣に初老の男が来た。職人のような、節くれだった手をしていた。昨日も同じ席にいた男だ。
しばらくして、男が言った。
「あんた、毎日来てるな」
「ええ」
「代表ではなさそうだが」
「一般の者です」
男は「ふうん」と言って前を向いた。議事が始まる前の、静かな時間が続いた。
「俺は職人なんだが」と男は言った。「最初は暇つぶしで来てみた。ところが気になって、また来てしまった」
「何が気になりましたか」
「あのアシダという男の話し方だ。弁明しているはずなのに、聞くほうが多い。そのくせ押しつけがましくない。見ていると引き込まれる」
俺は黙って聞いていた。
「昨日、近所の連中に話したら、三人ついてきた」
男が視線だけで斜め前を示した。少し離れた席に、三人が並んで座っていた。体格のばらばらな三人が、議事台に向けて同じように前傾みで顔を向けていた。
「あんたはどう思う。あの男は本当に脅威なのか」
「どう見えますか、あなたには」
「わからん」と男が言った。「だから来てる」
俺は笑いそうになって、止めた。
「わからないなら——まあ、聞いてみれば、少しはわかるかもしれません」
男が「ふむ」と言って、それ以上は話さなかった。
議事が始まった。
セルウィンの声が響く。今日の議題がアナウンスされ、席の動く音、咳払い、紙の束を広げる音が続く。
しばらくして、三列前の席で——
「ねえ」
若い女の声だった。隣に小声で話しかけている。
「あの人の話……一度、聞いてみたくないか」
俺の手が、膝の上で止まった。
代表でも証人でも、味方でもない。ただの市民の声だった。
聞いてみたい——と言った。
傍聴席から、聞くことを求める声が出た。
この査問が始まってから、初めてのことだった。
【共存協定 自動失効まで:あと28日】
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