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門番、魔王軍と交渉する〜ハズレジョブでも、話を聞く奴が世界を動かす〜  作者: ハル
門番、世界と話す

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246/274

第246話「聞いてみたくないか」

「私は、議長だ」


オルディーンの声は低く、かすれていた。


「私の意見など——」


続きが来なかった。


俺が最後に見たのは、議長の背中だった。大きな肩が、廊下の奥へとゆっくり遠ざかっていく。足音は静かだった。石畳に、革靴の音だけが短く響いて消えた。扉が、静かに閉まる。


夕暮れの光が廊下の窓から斜めに差し込んでいた。ふわりと、埃の粒が光の中を漂っている。その粒を目で追いながら、俺はしばらく廊下に立っていた。


言わなかったのか、言えなかったのか。


その違いは、今はまだわからない。


ただ、扉の前で一瞬だけ止まった足。それが俺には引っかかった。


引き下がることにした。今日はここまでだ。押しつけて引き出した言葉は、相手の中に根付かない。それはレイラのときに学んだことだった。


廊下を出ると、カイルが壁際で腕を組んで待っていた。


「どうだった」


「言わなかった、と言えなかった、には違いがある。今日は後者だったかもしれない」


カイルが「……どう違う」と聞いた。


「言わなかったなら、いつかは言う。言えなかったなら、何かが邪魔している。どちらかによって、次の手が変わる」


「今は後者だと」


「たぶん」


カイルが少し黙った。「それで、どうする」


「今日は何もしない」


ガレスが廊下の柱から離れながら近づいてきた。「飯は食うか」と問うた。


「食う」


「そこだけは即答するんだな」


三人で宿に戻った。夕方の通りは人混みで賑わっていた。屋台の煙が路地に漂い、肉の焼ける匂いがした。ヴァリスの夜は早い。日が沈む前に人が動き、日が落ちると静かになる。


宿の食堂で粥と黒パンを頼んだ。温かいものが腹に入ると、足の裏の疲れが遅れてやってきた。毎日歩いている。代表の部屋の前で待ち、廊下を往復し、広場を行き来する。靴底から響くような疲れが、今頃になって足の裏に出てきた。


布団に入る前に、窓の外を見た。


星がなかった。曇っているせいか、街の明かりだけが夜空に滲んでいる。


俺のやっていることが、どのくらい届いているのか。


フェンから始めた一対一の対話。レイラの証言。ガレスの寝返り。積み重ねてきたものはある。票は六十三まで下がった。でも今は固まって動いていない。


それでも何かが変わっているという感覚が、今日のオルディーンの背中を見たときにあった。うまく言葉にならないが、確かにあった。


そのまま眠った。



 



翌朝、カイルから通信が来た。


【査問集計:賛成63/反対48/保留16】

【共存協定 自動失効まで:あと30日】


「動いてない」とカイルが言った。


「わかった」と俺は言った。


窓の外は曇りのままだった。


その日はエシンス代表に当たることにした。三十分ほど話した。エシンスは丁寧な人間だった。答えも丁寧だった。「隣国のケルダが動けば、我々も再考の余地がある」と言った。


ケルダは連合内でも力のある大国で、変わる気配がない。鶏と卵の話になっていた。


「ありがとうございます」と礼を言って部屋を出た。


廊下でカイルが集計石を手に持って待っていた。


「どうだった」


「鶏と卵だ」


「また空振りか」


「空振りじゃない。どこで止まっているかがわかった」


「それで票が動くのか」


「今日は動かない。でも止まっている場所がわかれば、次に何を崩すかが見えてくる」


カイルが「ケルダに当たらないのか」と聞いた。


「今日はまだ早い。雰囲気で固まった票には、雰囲気が変わってから当たるほうがいい」


「その雰囲気はどうやって変える」


「まあ、聞いてから判断しよう」


カイルが「本当にそれしか言わないな」と呟いた。呆れていたが、怒ってはいなかった。


昼になった。ガレスが「今日の午前は、連合側に大きな動きがなかった」と報告した。


「静かすぎる」とガレスが続けた。


「悪い意味でか」


「静かなときは、たいていこちらが見えていないところで準備している」


俺はそれを頭の片隅に置いておくことにした。


昼飯のパンを半分齧ったとき、カイルが「今日の傍聴席、人が多かった気がする」と言った。


「いつもより?」


「ああ。朝から席が埋まってた。いつもは午後から増えるのに」


「気になるか」とカイルが聞いた。


「少し。何かあったかはまだわからん」



 



翌日、集計の数字は変わっていなかった。【失効まで:あと29日】


午後の議事が始まった。


俺は傍聴席の一番端に腰を下ろした。表向きの目的はセルウィンの動きを確認することだった。どの国の代表を次に絞るかを事前に読めれば、先に動ける。


でも気がつくと、議事台よりも傍聴席を見ていた。


最初の頃、この場所は物見の空気が強かった。珍しいものを見に来た顔の人が多かった。「人類最大の脅威を一目見てみよう」という好奇心と、「どうせ処分されて終わり」という冷めた確信が半々だった。


それが変わってきていた。


三列前に中年の女性がいた。手元に小さな紙を広げて、何かを書き留めていた。議事台の発言を記録しているらしい。今日は特に重要な発言があったわけではない。それでも書いている。習慣になっているのかもしれない。


斜め後ろに、若い男が二人並んでいた。一方が耳元で何かを囁き、もう一方がうなずく。議事の内容について話し合っているようだった。


窓際の席に、初老の商人風の男が座っていた。腕を組んで目を細め、議事台をじっと見ている。見切りをつけた目ではなかった。何かを量っている目だった。


同じ顔が続けて来ている。


俺はそれに数日前から気づいていた。最初は確信が持てなかったが、今日は確かだった。昨日も来ていた女性。一昨日も来ていた老人。物珍しさで来ていたはずの人たちが、理由を持って来るようになっていた。


票じゃない。


票は代表が持っている。傍聴席の市民には査問の結果を変える力がない。


でも何かが変わっている。


端の席に子供を連れた父親がいた。子供は十歳くらいだ。議事台を指さして父親に何か聞いている。父親が小声で答えていた。何を話しているのかは遠くて聞こえなかったが、父親の顔が真剣だった。


昼の広場でも、似たようなやりとりを耳にしていた。


「あのアシダという男、三週間来てるが一度も怒らないな」


「怒るようなことを言われているのに」


「だから不思議なんだよ。根拠があるはずだろ」


名前を知っている。顔を覚えている。怒らないことを知っている。


この街の市民が、俺のことを少しずつ知りはじめていた。



 



翌朝。


【査問集計:賛成63/反対48/保留16】

【共存協定 自動失効まで:あと28日】


数字は変わっていなかった。


「今日はどうする」とカイルが聞いた。


「昼の休憩に、広場に出る」


「代表でなく、市民のほうか」


「様子を見るだけだ」


「票は取れないぞ。市民には」


「わかってる」


カイルが「……そうか」と言って、それ以上は聞かなかった。


昼の休憩になると、俺は議事堂前の広場に出た。


空がいつのまにか晴れていた。昨日まで曇りっぱなしだったのに、気づいたら雲が西に流れていて、白い光が石畳に降りていた。噴水の縁に腰を下ろした。


傍聴席から出てきた人の流れが、広場に広がっていく。屋台で食べ物を買う人、噴水のそばで話す人、連れと並んで歩く人。


いくつかの話し声が耳に入ってきた。


「今日のあの証言、本物だと思うか」


「嘘をついている顔には見えなかったな」


「でも顔で判断するのは早い」


「そうだな。……ただ見てると、代表たちと俺たちを同じ目で見てるんだよ、あの人。上から見てない」


水の音を聞きながら、別の方向の声に耳を向けた。


「あの人、ずっと聞いてばかりいるな」


「弁明の場のはずなのにな」


「それが妙に気になる。怒鳴られるより、聞かれるほうが怖い気がして」


「怖い?」


「なんとなく、ちゃんと話さなきゃいけない気になるから」


若い女の声だった。


俺は後ろを向かないようにして、それを聞いていた。


ちゃんと話さなきゃいけない気になる。


その言葉が、少し残った。


論破じゃなく、聞く。聞くことで、相手の中に何かが生まれることがある。ガレスもそうだった。レイラもそうだった。でも今まで、市民の口からそういう言葉を聞いたことはなかった。


広場の向こうで、子供が走っていた。父親が追いかける。


「ねえ父さん、あのアシダってどこにいるの」


「どこかにいるだろう」


「会えるかな」


「——会えるかもしれないな」


父親の声が遠ざかっていった。


俺は噴水の石縁に手をついて、空を見上げた。


青い空だった。


午後の議事が始まる前に、傍聴席に戻った。席は昼前より増えていた。端の席に腰を下ろすと、隣に初老の男が来た。職人のような、節くれだった手をしていた。昨日も同じ席にいた男だ。


しばらくして、男が言った。


「あんた、毎日来てるな」


「ええ」


「代表ではなさそうだが」


「一般の者です」


男は「ふうん」と言って前を向いた。議事が始まる前の、静かな時間が続いた。


「俺は職人なんだが」と男は言った。「最初は暇つぶしで来てみた。ところが気になって、また来てしまった」


「何が気になりましたか」


「あのアシダという男の話し方だ。弁明しているはずなのに、聞くほうが多い。そのくせ押しつけがましくない。見ていると引き込まれる」


俺は黙って聞いていた。


「昨日、近所の連中に話したら、三人ついてきた」


男が視線だけで斜め前を示した。少し離れた席に、三人が並んで座っていた。体格のばらばらな三人が、議事台に向けて同じように前傾みで顔を向けていた。


「あんたはどう思う。あの男は本当に脅威なのか」


「どう見えますか、あなたには」


「わからん」と男が言った。「だから来てる」


俺は笑いそうになって、止めた。


「わからないなら——まあ、聞いてみれば、少しはわかるかもしれません」


男が「ふむ」と言って、それ以上は話さなかった。


議事が始まった。


セルウィンの声が響く。今日の議題がアナウンスされ、席の動く音、咳払い、紙の束を広げる音が続く。


しばらくして、三列前の席で——


「ねえ」


若い女の声だった。隣に小声で話しかけている。


「あの人の話……一度、聞いてみたくないか」


俺の手が、膝の上で止まった。


代表でも証人でも、味方でもない。ただの市民の声だった。


聞いてみたい——と言った。


傍聴席から、聞くことを求める声が出た。


この査問が始まってから、初めてのことだった。


【共存協定 自動失効まで:あと28日】

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