第245話「議長の沈黙」
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「ウォッツ殿と話したそうですね」
タンティカ代表ファベルは、俺が近づく前に顔を上げた。中庭の石造りのベンチに腰を下ろし、古びた帳面を膝に置いている。白い髪に、午前の陽が落ちていた。
ここまで来るのに、少し手間がかかった。議事堂の中にも、代表棟の廊下にもいなかった。カイルが「中庭に行ってみろ」と通信越しに言った。答えは中庭にあった。
「昨日、少しだけ」と俺は答えて、断りもせずに隣へ腰を下ろした。
ファベルはそれを咎めなかった。六十を過ぎた小柄な老人で、皺が深いが目だけが若かった。タンティカは農業国で、軍事力も経済規模も大国には及ばない。しかし歴史だけは長い。それが、この老人の目の奥に滲んでいた。
「賛成した理由を、聞かせてもらえますか」
「ウォッツ殿と同じ理由ですよ」とファベルは静かに言った。「大国が賛成した。だから、賛成した」
「そうでしょうか」
ファベルが少し目を細めた。
「ウォッツ殿は、大国の動向を見てから決めたと話していました。あなたは——賛成すると知る前から、もうそちら側にいたのではないですか」
短い沈黙があった。
「……昨日の話が、もう届いているとは」
「届いていません。今、あなたから聞きました」
ファベルが小さく笑った。手の中の帳面を、ゆっくりと閉じた。
「鋭い」
「運がよかっただけです」
老人が少し考えてから、続けた。「ウォッツ殿とはそこが違う。あの人は本当に何も考えずに動く。私は——考えた上で、賛成することにした」
「なぜですか」
「変わることが、怖いからです」
風が吹いた。中庭の草が、一斉に揺れた。
ファベルは遠くを見ていた。視線の先には石壁があるだけだったが、目は何か遠いものを映しているようだった。
「私の国は、今の秩序の中で三十年かけて場所を作りました。外の国とも内の勢力とも、うまくやっていける立場を——石を積むように、少しずつ」
「魔物と人間が、明確に分かれていることを前提に」
「ええ。それが崩れれば、タンティカが三十年かけて作った地図が全部白紙になる。交易の相手も、国境の取り決めも、何もかも。一から書き直すことになる」
俺は返す言葉を探した。
「分かります」とは言えなかった。三十年分は、俺にはない。十七で門番になって、二十三の今まで、ずっと交渉の中で生きてきたが、国一つを背負って積み上げた重さは、俺には想像するしかない。
「分からないです」と言った。「三十年分は、俺にはない」
ファベルが目を見開いた。
「……正直な人だ」
「聞きに来たんで」
しばらく、二人とも黙っていた。
中庭を風が抜けた。石畳の上に、木の葉が一枚落ちた。体の芯が、少し冷えた。
やがてファベルが口を開いた。
「ウォッツ殿に、もう一度あなたと話すよう伝えます。あの人は、頭より目が先に動く人間です。見れば変わる。三十年来の付き合いだから——私が言えば、少なくとも席には着く」
「ありがとうございます」
「礼には及ばない。私自身は——まだ、決めかねている」
最後の言葉は、独り言のようだった。
俺は何も返さなかった。返せることがなかった。決めかねているということは、まだ揺れているということだ。それ以上は聞かなかった。聞いても、無理に引き出す言葉ではない。
ファベルは帳面を開いて、また何かを書き始めた。
その横で、俺はもう少しだけ石畳を見ていた。足元が、じわじわと冷えてきた。
その夜、カイルから集計が届いた。
【査問集計:賛成63/反対44/保留20】
「一票、動いた」とカイルが言った。「ファベルが、保留に戻した」
六十三。過半数の六十四まで、一票。
「連鎖を待っている国がいるはずだ」と俺は言った。
「そうだな。ただ、タンティカ一国では連鎖の引き金にならない可能性がある。規模が小さすぎる。大国が動くには、もう一段の何かがいる」
分かっていた。一票は一票だ。意味はあるが、それだけでは足りない。
【共存協定 自動失効まで:あと31日】
翌日の査問会は、静かだった。
あの日以来——ガレスとレイラの証言で大きく揺れた議場は、今は奇妙な均衡の中にある。誰も動かない。誰かが動けば、それに続く者が出るかもしれない。だから動けない。そういう静けさだった。
俺は傍聴席の端に立ち、議事進行を眺めていた。
「では、審議を始めます。本日の案件は——」
議長席のオルディーンが、議題を読み上げる。
淡々としていた。声に起伏がない。温度がない。
俺はその声をただ聞いていた。聞きながら、何かに気づいた。
この人は、一度も意見を言っていない。
査問会が始まってから何日も経つ。その間、俺はオルディーンの声を何十回も聞いた。「審議を始めます」「発言を認めます」「次の国を呼べ」「本日はここまで」——進行を区切る言葉ばかりで、その中にオルディーン自身の判断や感情が混じったことが一度もない。
正確に言えば、ゼロではないかもしれない。だが、「私はこう思う」という言葉を聞いた記憶がない。
百二十七国の代表が、それぞれの事情で動いてきた。賛成した者も反対した者も、保留の者も、全員が何かを持って席に着いていた。その全員の上に立っている人物が——何も持っていないように見える。
いや、違う。
意見がないのではなく——言っていないのだ。
俺はそこに引っかかりを感じながら、議事の流れを追っていた。
オルディーンの目が、一瞬だけ俺の方へ向いた。
すぐに逸れた。
逸れ方が、早かった。
休憩の刻、廊下に出た。
カイルが弁当を持ってきてくれた。厚いパンに塩漬けの肉を挟んだものだった。三日に一度は同じものを食べている気がするが、構わない。口に合うし、食べないよりはいい。
「オルディーンが、議事の外で意見を言ったのを見たことはあるか」
カイルが少し考えながら、パンを噛んだ。
「……ないな、俺の知る限り」飲み込んでから続けた。「連合の規則で、議長は公式の場以外での政治的発言を禁じられているはずだ。私見を持つことを禁じる条文もあったと思う」
「禁じられている?」
「建前としては。ただ、実際に字義通りに守っているかどうかは——分からない。あくまで規則の話だ」
「上に立つ人間が、そういう立場に追い込まれることはあるか」
「ある」とカイルが即座に言った。「俺も二代目調停者になった直後、「調停者は中立でないといけない」と思いすぎて、何も言えなかった時期があった。自分の意見が、誰かに不公平な影響を与える気がして」
「どうやって抜け出た」
「お前に「自分の意見があっていい。聞いた上での意見なら」と言われた」
覚えていなかった。だが、言いそうなことだった。
「オルディーン本人に、直接聞いたことはあるか」
「ない。そういう人間じゃないと思っていた」
「聞いてみる」
カイルが少し間を置いた。
「怒られるぞ」
「まあ、聞いてから判断しよう」
カイルが低く笑った。
機会は夕刻に来た。
査問会が終わり、各国の代表が引き上げていく中、オルディーンはいつも通り最後に席を立った。
その動線を読んで、俺は廊下の角で待っていた。
「議長」
振り返ったオルディーンの顔が、微かに固まった。予想していなかったが、驚いてもいない——そういう顔だった。護衛が二人、距離を詰めようとした。オルディーンが片手で制した。
初めて間近で見た。六十を超えているはずだが、背筋が真っ直ぐだった。それは誰かに矯正されたものではなく、長年そうあり続けた習慣の姿勢に見えた。衣服はきっちりと整っている。議長の席に十八年座り続けた人間の、体に染みついた形。
目が、疲れていた。
慢性的な疲労だった。一時的なものではなく、何十年もそこにあり続けた種類の疲れ。昨日今日で積み上がったものではない。
「アシダ殿」と静かに言った。「査問会の外での接触は、手続き上好ましくない」
「承知しています」
「なら——」
「一つだけ、聞かせてください」
短い沈黙。
廊下から人の気配が消えるのを、俺は待った。遠くで扉の閉まる音がした。石造りの廊下に、静けさが戻った。
「あなたは、どう思いますか」
オルディーンが静止した。
「査問会が始まってから、俺はあなたが一度も意見を言うのを聞いていません。百二十七国が話して、あなたは議事を進めるだけだった。それは役割として分かります。ただ——俺に対して、あなた自身は、どう思っていますか」
廊下が、静かになった。
遠くから、鳥の声が届いた。
オルディーンは何かを閉じようとしている顔をしていた。あるいは——何かが開きかけているのを、閉じようとしている顔だった。どちらなのか、俺には分からなかった。
「私は……」
声が、少し変わった。
議事を進めるときとは、違う声だった。
「議長だ」
長い間があった。廊下の奥まで、その沈黙が広がっていった。日が傾き、窓から差し込む光が石畳に長い影を伸ばしていた。
「議長に……私の意見など——」
そこで、言葉が止まった。
止まり方があった。
言い切れなかったのではなく——言い切ることを、途中で自分でやめた。そういう止まり方だった。
俺はその止まり方を、黙って見ていた。
オルディーンの目が、わずかに揺れていた。それは感情ではなく、何かを測るような揺れだった。言葉にするかどうかを、今この瞬間に計算しているような。
俺は何も言わなかった。急かさなかった。ただ廊下に立っていた。
「……続きは、また場を改めて」
短い言葉だった。護衛を促し、去っていく背中。
俺は、その背中を見送った。
断られなかった。
それどころか、「また場を改めて」と言った。時間を作る意志があるということだ。続きを話すつもりがある、ということだ。
廊下に一人で残った。石畳の冷たさが、靴の底から伝わってきた。
「議長に……私の意見など——」
その先が言えなかった。「ない」と言いたかったのか。「関係ない」と言いたかったのか。それとも——もっと別の何かを言おうとして、言葉が見つからなかったのか。
あの止まり方は、「ない」と言いかけた止まり方ではなかった。
もっと複雑な何かが、あの沈黙の中にあった。
宿に戻ると、ガレスが起きていた。
椅子に座ったまま、腕を組んで目を閉じている。俺の足音を聞いて、ゆっくりと目を開けた。
「オルディーンに会ったか」
「廊下で少し」
「何を聞いた」
「どう思うか、と」
ガレスが低く笑った。それから、真剣な顔に戻った。
「あの人は、な」と静かに言った。「十八年、議長の席にいる。俺が兵士になる前からだ」
「長い」
「長い。俺が物心ついた頃から、あの声があった。議事を進める、感情のない声が。ずっと——ああいうものだと思っていた」
「ああいうもの?」
「感情がない人間だと」ガレスが目を伏せた。「上に立つ人間は、そうでないといけないと信じていた。感情がないほうが正しい判断をできる。そう思っていた」
俺は廊下でのオルディーンの顔を思い出した。
目が揺れていた。
「違うと思った」と言った。
「何が違った?」
「目が——疲れていた。感情がない目じゃなかった。何十年も何かを背負ってきた、慢性的な疲れの目だった」
ガレスがゆっくりと息を吐いた。
「……そうか」
「あんたは、そういう目をしていたことがあるか」
ガレスが間を置いた。
「していたかもしれない。部下を何人か失った後、しばらく——そういう目になっていたかもしれない。鏡を見る気になれなかったから、確かめてはいないが」
「その目を、誰かに見てもらいましたか」
「見てもらえる相手がいなかった」
単純な事実として、静かに言った。
「隊の上には上がある。下に見せるわけにはいかない。横にいる者たちも、それぞれ自分の疲れを背負っている。だから——黙って、前を向いていた」
「黙っている間、どうでしたか」
ガレスが俺を見た。
「辛かった。ただ、辛いとも言えなかった。辛いと言ったら、止まる気がした」
俺は返さなかった。
しばらくして、ガレスが続けた。
「オルディーンも——そういうものかもしれんな。十八年、辛いと言えないまま前を向いていた」
「そう思います」
「だとしたら——お前はどうする」
「明後日、もう一度会います。向こうから時間を取ると言ってきた」
ガレスが目を見開いた。
「……向こうから?」
「向こうから」
沈黙があった。
「飯、残っているか」
「少し」
「そうか」
ガレスは椅子から立ち上がった。夜が、深くなっていた。
翌朝、カイルから通信が届いた。
「オルディーンから接触があった。明後日の朝、執務室で。一対一を希望している」
俺はその言葉を読んだ。
「一対一か」
「向こうの希望だ」とカイルが続けた。「俺も同席しないほうがいい、ということだろう。——何かある」
「行く」
「一人でか」
「一人がいい」
カイルが「そうか」とだけ返した。余計なことは言わなかった。二代目調停者として、その判断が正しいと理解しているようだった。
【共存協定 自動失効まで:あと30日】
数字がまた一つ減った。
三十日。どう取るかは人による。まだあると見ることも、もうないと見ることもできる。
俺はしばらくその数字を見ていた。
廊下でのオルディーンの顔を、また思い返した。
「議長に……私の意見など——」
その先が、言えなかった。
十八年間、議事を進めながら、一度も自分の意見を言わなかった人間の中に、何があるのか。
何もないのか。
何かがあって、だから言えないのか。
どちらにしても——明後日には、続きが聞けるかもしれない。
まあ、聞いてから判断しよう。
窓の外に、朝の光が差し込んでいた。
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