第244話「動かない一票」
朝の議事堂は静かだった。
中庭の噴水が水を吐く音と、廊下の石床を踏む足音が交互に聞こえた。前夜、カイルとガレスと三人で食事をしながら話し合った内容を、レンは歩きながら頭の中で繰り返していた。
タレンの隣に、連鎖が起きた。
タレンが保留から賛成に戻った日、その隣の二か国も同じ動きをした。理由は「タレンが戻ったから」だとカイルの資料にある。ならば逆方向にも連鎖するはずだ——それがカイルの仮説だった。
カイルから転送された集計が、目の前に浮かんでくるような感覚がある。
【査問集計:賛成64/反対43/保留20/失効まで:あと32日】
六十四。
昨夜から動いていない。昨夜のガレスの言葉が正確だった——「六十四は、最も動かずに済む安全地帯だ」。恐怖の重力が、その数字に人を縛り付けている。崩せない、でも増えもしない。
処分執行に必要な過半数の閾値にちょうど張り付いた数字だ。
南棟の第二控室に向かいながら、レンはダルメン代表の経歴を記憶から引き出した。ウォッツ・ブレイン。五十代前半。貿易仲介で国を運営する小国の代表。タレンの隣に位置する国だ。
まあ、聞いてから判断しよう。
ウォッツは控室にいた。
他の三人の代表と朝の談話をしているところだった。レンが「少し時間をいただけますか」と声をかけると、相手はわずかに目を丸くしたあとで「どうぞ」と椅子を引いた。他の三人が席を外した。
中背の男だった。年は五十前後。笑い方に癖があって——笑う前に口の端が先に持ち上がり、それから目がついてくる。悪意のある顔ではない。ただ、長い年月でそういう形になった顔だ。
「レン・アシダ殿、ですか」
「はい」
「直接お会いするのは初めてですな」
「そうです。今日来たのは、あなたの話を聞きたくて」
「私の」
「賛成票を投じた理由を」
ウォッツはわずかに眉を動かした。それから「率直ですな」と言った。
「急いでいる状況なので」
「まあ、それはそうか」
男は指を組んだ。窓の外に目を向ける。朝の光が斜めに差し込んで、石床に長い影を作っていた。
「……正直に言っていいですか」
「ぜひ」
「大国が賛成しているから、です」
レンは少し間を置いた。
「それだけですか」
「それだけです」
嘘ではなかった。
それが、かえって難しかった。
ウォッツは続けた。「ダルメンはご存知の通り、小さな国です。大陸の流通を仲介して食べている。誰かと揉めたら、たちまち困る——特に大国とは」
「ヴェスタやドラズが賛成している」
「ええ。うちが賛成しておかないと、後々面倒なことになる」
「面倒というのは」
「輸送路の優先度が下がるとか、関税交渉で不利になるとか。直接的なものから、じわじわ利いてくるものまで、様々です」
「それは恐怖ですか」
「恐怖ではなく計算です」とウォッツは答えた。感情が動いている顔ではなかった。「利害の勘定です。私がアシダ殿を危険と思っているかどうか、それは別の話です」
「あなた自身は、どう思いますか。俺が脅威かどうか」
「……正直なところ」
「はい」
「わかりません。直接話したことがなかった。だから隣を見た。ヴェスタが賛成なら、私も賛成する。それだけです」
「あなた自身の意見は、ありますか」
ウォッツはまた笑った。口が先の笑い方だった。
「意見ですか。ダルメンの代表に、独立した意見を持てるだけの余裕はありません。ヴェスタの顔色を見て、メルダの動向を確認して、そのうえで議場に座る。それが私の仕事です」
「つまり、俺がどれだけ話しても」
「隣が動かなければ、私も動きません」
はっきりと言い切られた。
レンは返す言葉を考えた。同時に、何かが引っかかっているのを感じていた。
「あなたはどう思うか」という問いが、この人には最初から届いていない。
「一つ聞いていいですか」とレンは言った。
「どうぞ」
「ダルメンが今回の査問で、独自の判断を示したことはありますか」
ウォッツは少し考えた。
「……四年前、貿易協定の改定のとき。あのときは独自の改定案を出しました。ヴェスタに反対されましたが」
「結果は」
「通りませんでした。当然ですが」
「それ以来、独自判断を出していない」
沈黙が来た。長くはなかった——三秒か四秒。でもウォッツは、その短い沈黙の間に一度だけ目を伏せた。
「……出しても、意味がないので」
レンは何も言わなかった。
ウォッツも続けなかった。
窓の外で鳥が鳴いた。それで、沈黙が終わった。
控室を出て、廊下に立ち止まった。
議事堂の南棟は、午前の議事が始まる前のこの時間、人の往来が少ない。遠くから書類を綴じる音と、誰かが低い声で話す声が聞こえた。
意見を持つことを、いつか諦めた人間だ。
違う、とすぐに思い直した。
諦めたのではなく——意見を表明することに意味を見出さなくなった。それは同じようで、全然違う。四年前、独自案を出して、通らなかった。それ以来、出さなくなった。
その判断は間違っていない。合理的だ。一国の代表として、国の利益を守るための判断だ。
でも——その合理の積み重ねが、今の「六十四」を作っている。
これまでの交渉相手は、全員「自分の何か」を持っていた。
ガレスは怖かった。タレンは宙ぶらりんへの恐怖があった。レイラには取り返しのつかない喪失があった。オルディーンは人類の恐怖を背負って議長席に座っていた。
全員、何かを抱えていた。それを聞けば、動く余地があった。
ウォッツは違う。
この男は何も抱えていない——正確には、何かを抱えているのかもしれないが、それを「判断の根拠」として使わない。隣を見る。それだけだ。
「つまり」とレンは独り言のように呟いた。「動かすべき相手は、ウォッツじゃない」
カイルに連絡すると、すぐに繋がった。
「どうだった」
「難しいことがわかった」
「……話を聞いたのに難しいことがわかっただけか」
「それが大事な情報だ」
短い沈黙。
「どういう意味だ」
「六十四の票は、一つずつ崩しても崩れない可能性がある。全員が互いを参照してる。個人に聞いても、返ってくる答えは「隣を見てる」だけだ」
「……空気が相手、ってことか」
「ああ。空気が六十四を縛ってる。その空気には出どころがあるはずで——でも、その出どころが何かをまだわかってない」
カイルは少し黙った。
「レイラが動かした恐怖の仕組みは崩した。それでも空気が残ってる、ということか」
「そうだ。恐怖が無くなっても、習慣だけが残ることがある。隣を見るという習慣が。でも習慣にも、最初が必ずある」
「それはまた、別の話だな」
「ああ」
「どうする気だ」
「もう少し聞いてみる」
カイルが軽く息をついた。「ウォッツの隣に、タンティカのファベルがいた」
「知ってたのか」
「さっき確認しようとしたら、一緒にいるのが見えた。二国は貿易協定で繋がってる。同時に連鎖したのも、その関係からだと思う」
「そうだ。今、中庭にいた。戻ってみる」
中庭に戻ると、ウォッツはまだいた。
ファベル代表と話していた。白髪混じりの、五十代後半の男だ。ウォッツとは古い知り合いらしく、二人の間に気安い空気がある。笑い声が、噴水の水音に混じって聞こえた。
レンが近づくと、先に気づいたのはファベルだった。
「アシダ殿、ですな」
「はい」
「さっきの話、聞いていました。ウォッツが控室から出てきたとき、会って」
「……どこまで」
「大国が賛成してるから賛成した、というところまでは」
嫌な顔ではなかった。むしろ、少し楽しそうですらあった。
「ウォッツ代表、もう一つだけいいですか」
「構いませんが」
「ファベル代表も、同じですか。隣を見て動く」
ファベルが答えた。「同じです。うちはダルメンを見る。ダルメンがヴェスタを見る。結局、全部ヴェスタを見てる」
「その習慣は、いつからですか」
「父の代から、です」
「タンティカは」
「ええ。父が代表を務めていたころに、ヴェスタとの間で小さな摩擦があった。それ以来、合わせる方針になった」
「うちは祖父の代だ」とウォッツが言った。「六十年以上になる」
六十年。
レンはその数字を頭の中に置いた。
「つまり、あなたたちが意識して選んでいるのではなく——最初からそうしてきた国だ、ということですか」
「そういうことになります」
「その六十年の習慣は、どこから来たと思いますか」
ウォッツとファベルが、互いに目を合わせた。
ファベルが口を開いた。「……ヴェスタから、ではないですか。この連合の中ではヴェスタが一番古い国で、一番強い。ヴェスタが動けば、みんなついていく。ヴェスタが止まれば、みんな止まる」
「ヴェスタが六十四を固めている、ということですか」
「固めているというより——ヴェスタが動かないから、誰も動けない。それが正確だと思います」
ウォッツが頷いた。「アドゥール卿は頑固な人です。言葉では動かない。ヴェスタにとって「聞く」というのは、決断の手順ではなく、情報収集の手段なんですよ。聞いても、それで方針が変わるわけじゃない」
「方針が先にある、ということですか」
「そうです。先に結論がある。その結論を補強する情報を聞く。それがアドゥール卿の聞き方です」
聞いているが、聞いていない。
答えを決めてから、聞いている。
「……ヴェスタの方針が変わる条件は何ですか」
「議場全体の流れが変わることです」とウォッツは言った。「一つの国が変わっても、アドゥール卿は動かない。三つ変われば考えるかもしれない。五つ変われば、確実に変わる」
「五つが先かヴェスタが先か、という問題ですね」
「そういうことです」
ファベルが付け加えた。「ただ——一つだけ言っていいですか」
「もちろん」
「出どころ、というのが本当にあるとしたら——それは多分、声ではないです」
「声ではない?」
「誰かが何かを言ったから、みんなが動いたわけじゃない。ただ——皆が同じ方向を向いていて、そちらへ向かった。風みたいなものです。誰かが吹かせているわけじゃないけど、確かに吹いている」
風みたいなもの。
誰かが吹かせているわけじゃない。
レンはその言葉を、しばらく頭の中に置いた。中庭の光が、噴水の水面を揺らしている。その揺らぎが広がって、また静まる。また広がる。また静まる。
ガレスの怖さには、過去の出来事があった。タレンの宙ぶらりんには、一人の人間の感覚があった。
でも六十四が参照している「空気」には、それがない。誰かの意志ではなく、誰かの感情でもなく——ただ、そこに在る。長い時間をかけて積み上がった、方向性だ。
「じゃあ——」
ゆっくりと、言葉を選びながら。
「じゃあ、空気の方と……話せますか」
ウォッツとファベルが、揃って顔を上げた。
ファベルが「空気と、ですか」と言いかけて、止まった。
その止まり方は、答えが出かかって出なかったのと同じ止まり方だった。
「どうやって」とウォッツが言った。「空気に、話しかけるんですか」
「まだわかりません」
「わかってから来るんじゃないんですか」
「わかってから来ていたら、ここまでかかりませんでした」
ウォッツが短く息をついた。笑いが混じっていたかもしれない。
二人は何も言わなかった。言える答えが、なかった。「できない」と断ることもできない問いを、ただ抱えて立っていた。
中庭の噴水が、静かに水を吐き続けていた。
【査問集計:賛成64/反対43/保留20/失効まで:あと32日】
数字は動いていない。
でも何かが、問われていた。
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