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門番、魔王軍と交渉する〜ハズレジョブでも、話を聞く奴が世界を動かす〜  作者: ハル
門番、世界と話す

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244/271

第244話「動かない一票」

朝の議事堂は静かだった。


中庭の噴水が水を吐く音と、廊下の石床を踏む足音が交互に聞こえた。前夜、カイルとガレスと三人で食事をしながら話し合った内容を、レンは歩きながら頭の中で繰り返していた。


タレンの隣に、連鎖が起きた。


タレンが保留から賛成に戻った日、その隣の二か国も同じ動きをした。理由は「タレンが戻ったから」だとカイルの資料にある。ならば逆方向にも連鎖するはずだ——それがカイルの仮説だった。


カイルから転送された集計が、目の前に浮かんでくるような感覚がある。


【査問集計:賛成64/反対43/保留20/失効まで:あと32日】


六十四。


昨夜から動いていない。昨夜のガレスの言葉が正確だった——「六十四は、最も動かずに済む安全地帯だ」。恐怖の重力が、その数字に人を縛り付けている。崩せない、でも増えもしない。


処分執行に必要な過半数の閾値にちょうど張り付いた数字だ。


南棟の第二控室に向かいながら、レンはダルメン代表の経歴を記憶から引き出した。ウォッツ・ブレイン。五十代前半。貿易仲介で国を運営する小国の代表。タレンの隣に位置する国だ。


まあ、聞いてから判断しよう。



 



ウォッツは控室にいた。


他の三人の代表と朝の談話をしているところだった。レンが「少し時間をいただけますか」と声をかけると、相手はわずかに目を丸くしたあとで「どうぞ」と椅子を引いた。他の三人が席を外した。


中背の男だった。年は五十前後。笑い方に癖があって——笑う前に口の端が先に持ち上がり、それから目がついてくる。悪意のある顔ではない。ただ、長い年月でそういう形になった顔だ。


「レン・アシダ殿、ですか」


「はい」


「直接お会いするのは初めてですな」


「そうです。今日来たのは、あなたの話を聞きたくて」


「私の」


「賛成票を投じた理由を」


ウォッツはわずかに眉を動かした。それから「率直ですな」と言った。


「急いでいる状況なので」


「まあ、それはそうか」


男は指を組んだ。窓の外に目を向ける。朝の光が斜めに差し込んで、石床に長い影を作っていた。


「……正直に言っていいですか」


「ぜひ」


「大国が賛成しているから、です」


レンは少し間を置いた。


「それだけですか」


「それだけです」



 



嘘ではなかった。


それが、かえって難しかった。


ウォッツは続けた。「ダルメンはご存知の通り、小さな国です。大陸の流通を仲介して食べている。誰かと揉めたら、たちまち困る——特に大国とは」


「ヴェスタやドラズが賛成している」


「ええ。うちが賛成しておかないと、後々面倒なことになる」


「面倒というのは」


「輸送路の優先度が下がるとか、関税交渉で不利になるとか。直接的なものから、じわじわ利いてくるものまで、様々です」


「それは恐怖ですか」


「恐怖ではなく計算です」とウォッツは答えた。感情が動いている顔ではなかった。「利害の勘定です。私がアシダ殿を危険と思っているかどうか、それは別の話です」


「あなた自身は、どう思いますか。俺が脅威かどうか」


「……正直なところ」


「はい」


「わかりません。直接話したことがなかった。だから隣を見た。ヴェスタが賛成なら、私も賛成する。それだけです」


「あなた自身の意見は、ありますか」


ウォッツはまた笑った。口が先の笑い方だった。


「意見ですか。ダルメンの代表に、独立した意見を持てるだけの余裕はありません。ヴェスタの顔色を見て、メルダの動向を確認して、そのうえで議場に座る。それが私の仕事です」


「つまり、俺がどれだけ話しても」


「隣が動かなければ、私も動きません」


はっきりと言い切られた。


レンは返す言葉を考えた。同時に、何かが引っかかっているのを感じていた。


「あなたはどう思うか」という問いが、この人には最初から届いていない。


「一つ聞いていいですか」とレンは言った。


「どうぞ」


「ダルメンが今回の査問で、独自の判断を示したことはありますか」


ウォッツは少し考えた。


「……四年前、貿易協定の改定のとき。あのときは独自の改定案を出しました。ヴェスタに反対されましたが」


「結果は」


「通りませんでした。当然ですが」


「それ以来、独自判断を出していない」


沈黙が来た。長くはなかった——三秒か四秒。でもウォッツは、その短い沈黙の間に一度だけ目を伏せた。


「……出しても、意味がないので」


レンは何も言わなかった。


ウォッツも続けなかった。


窓の外で鳥が鳴いた。それで、沈黙が終わった。



 



控室を出て、廊下に立ち止まった。


議事堂の南棟は、午前の議事が始まる前のこの時間、人の往来が少ない。遠くから書類を綴じる音と、誰かが低い声で話す声が聞こえた。


意見を持つことを、いつか諦めた人間だ。


違う、とすぐに思い直した。


諦めたのではなく——意見を表明することに意味を見出さなくなった。それは同じようで、全然違う。四年前、独自案を出して、通らなかった。それ以来、出さなくなった。


その判断は間違っていない。合理的だ。一国の代表として、国の利益を守るための判断だ。


でも——その合理の積み重ねが、今の「六十四」を作っている。


これまでの交渉相手は、全員「自分の何か」を持っていた。


ガレスは怖かった。タレンは宙ぶらりんへの恐怖があった。レイラには取り返しのつかない喪失があった。オルディーンは人類の恐怖を背負って議長席に座っていた。


全員、何かを抱えていた。それを聞けば、動く余地があった。


ウォッツは違う。


この男は何も抱えていない——正確には、何かを抱えているのかもしれないが、それを「判断の根拠」として使わない。隣を見る。それだけだ。


「つまり」とレンは独り言のように呟いた。「動かすべき相手は、ウォッツじゃない」


カイルに連絡すると、すぐに繋がった。


「どうだった」


「難しいことがわかった」


「……話を聞いたのに難しいことがわかっただけか」


「それが大事な情報だ」


短い沈黙。


「どういう意味だ」


「六十四の票は、一つずつ崩しても崩れない可能性がある。全員が互いを参照してる。個人に聞いても、返ってくる答えは「隣を見てる」だけだ」


「……空気が相手、ってことか」


「ああ。空気が六十四を縛ってる。その空気には出どころがあるはずで——でも、その出どころが何かをまだわかってない」


カイルは少し黙った。


「レイラが動かした恐怖の仕組みは崩した。それでも空気が残ってる、ということか」


「そうだ。恐怖が無くなっても、習慣だけが残ることがある。隣を見るという習慣が。でも習慣にも、最初が必ずある」


「それはまた、別の話だな」


「ああ」


「どうする気だ」


「もう少し聞いてみる」


カイルが軽く息をついた。「ウォッツの隣に、タンティカのファベルがいた」


「知ってたのか」


「さっき確認しようとしたら、一緒にいるのが見えた。二国は貿易協定で繋がってる。同時に連鎖したのも、その関係からだと思う」


「そうだ。今、中庭にいた。戻ってみる」



 



中庭に戻ると、ウォッツはまだいた。


ファベル代表と話していた。白髪混じりの、五十代後半の男だ。ウォッツとは古い知り合いらしく、二人の間に気安い空気がある。笑い声が、噴水の水音に混じって聞こえた。


レンが近づくと、先に気づいたのはファベルだった。


「アシダ殿、ですな」


「はい」


「さっきの話、聞いていました。ウォッツが控室から出てきたとき、会って」


「……どこまで」


「大国が賛成してるから賛成した、というところまでは」


嫌な顔ではなかった。むしろ、少し楽しそうですらあった。


「ウォッツ代表、もう一つだけいいですか」


「構いませんが」


「ファベル代表も、同じですか。隣を見て動く」


ファベルが答えた。「同じです。うちはダルメンを見る。ダルメンがヴェスタを見る。結局、全部ヴェスタを見てる」


「その習慣は、いつからですか」


「父の代から、です」


「タンティカは」


「ええ。父が代表を務めていたころに、ヴェスタとの間で小さな摩擦があった。それ以来、合わせる方針になった」


「うちは祖父の代だ」とウォッツが言った。「六十年以上になる」


六十年。


レンはその数字を頭の中に置いた。


「つまり、あなたたちが意識して選んでいるのではなく——最初からそうしてきた国だ、ということですか」


「そういうことになります」


「その六十年の習慣は、どこから来たと思いますか」


ウォッツとファベルが、互いに目を合わせた。


ファベルが口を開いた。「……ヴェスタから、ではないですか。この連合の中ではヴェスタが一番古い国で、一番強い。ヴェスタが動けば、みんなついていく。ヴェスタが止まれば、みんな止まる」


「ヴェスタが六十四を固めている、ということですか」


「固めているというより——ヴェスタが動かないから、誰も動けない。それが正確だと思います」


ウォッツが頷いた。「アドゥール卿は頑固な人です。言葉では動かない。ヴェスタにとって「聞く」というのは、決断の手順ではなく、情報収集の手段なんですよ。聞いても、それで方針が変わるわけじゃない」


「方針が先にある、ということですか」


「そうです。先に結論がある。その結論を補強する情報を聞く。それがアドゥール卿の聞き方です」


聞いているが、聞いていない。


答えを決めてから、聞いている。


「……ヴェスタの方針が変わる条件は何ですか」


「議場全体の流れが変わることです」とウォッツは言った。「一つの国が変わっても、アドゥール卿は動かない。三つ変われば考えるかもしれない。五つ変われば、確実に変わる」


「五つが先かヴェスタが先か、という問題ですね」


「そういうことです」


ファベルが付け加えた。「ただ——一つだけ言っていいですか」


「もちろん」


「出どころ、というのが本当にあるとしたら——それは多分、声ではないです」


「声ではない?」


「誰かが何かを言ったから、みんなが動いたわけじゃない。ただ——皆が同じ方向を向いていて、そちらへ向かった。風みたいなものです。誰かが吹かせているわけじゃないけど、確かに吹いている」


風みたいなもの。


誰かが吹かせているわけじゃない。


レンはその言葉を、しばらく頭の中に置いた。中庭の光が、噴水の水面を揺らしている。その揺らぎが広がって、また静まる。また広がる。また静まる。


ガレスの怖さには、過去の出来事があった。タレンの宙ぶらりんには、一人の人間の感覚があった。


でも六十四が参照している「空気」には、それがない。誰かの意志ではなく、誰かの感情でもなく——ただ、そこに在る。長い時間をかけて積み上がった、方向性だ。


「じゃあ——」


ゆっくりと、言葉を選びながら。


「じゃあ、空気の方と……話せますか」


ウォッツとファベルが、揃って顔を上げた。


ファベルが「空気と、ですか」と言いかけて、止まった。


その止まり方は、答えが出かかって出なかったのと同じ止まり方だった。


「どうやって」とウォッツが言った。「空気に、話しかけるんですか」


「まだわかりません」


「わかってから来るんじゃないんですか」


「わかってから来ていたら、ここまでかかりませんでした」


ウォッツが短く息をついた。笑いが混じっていたかもしれない。


二人は何も言わなかった。言える答えが、なかった。「できない」と断ることもできない問いを、ただ抱えて立っていた。


中庭の噴水が、静かに水を吐き続けていた。


【査問集計:賛成64/反対43/保留20/失効まで:あと32日】


数字は動いていない。


でも何かが、問われていた。

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