第241話「恐怖の出どころ」
議事堂の廊下は昨日より静かだった。
静かなのに、重い。
昨日の喧騒——ゴブが頭を下げた、「来た者」が人語を発した、遺族の老女が泣いた——あれは夢じゃない。ちゃんと起きたことだ。でも今朝の議場を流れる空気は、まるで昨日がなかったみたいに落ち着いていた。
落ち着いているのは、昨日のことが終わったからじゃない。昨日のことを、もう「別の話」として処理した人間が増えたからだ。
カイルが廊下の壁際に立って通信石を握っていた。表情が固い。近づくと、聞かなくても数字を見せてくれた。
【査問集計:賛成61/反対38/保留28】
「昨夜から二票、増えた」
昨日、ゴブが頭を下げて票が五十一まで落ちた。それが今朝の段階で六十一。一夜で十票が揺り戻された。
「オルディーンが動いたか」
「確認できただけで三カ国。フェンまで戻ってる」
フェンは最初に俺の話を聞いてくれた国だった。代表が傍聴席から「一国くらい話を聞いても罰は当たるまい」と言って、最初に手を挙げてくれた。
それが戻った。
腹は立てない方がいいと思う。フェンにとっては連合全体との関係の方が、俺一人より大事だ。それは、そうだ。責める気にはなれない。ただ、少しだけ重かった。
「ガレスは」
「食堂にいる。今日も傍聴席に座ると言ってた」
隊長職を剥奪されても、まだここにいる。大した人間だと思う。
「今日、お前はどうするつもりだ」とカイルが聞いた。
俺は少し考えた。
「聞く」
「……それだけか」
「それだけだ」
カイルが何か言いかけて、止まった。通信石を確認して、また黙った。数字がまた動いていた。六十一が六十二になっていた。
議場の正面演壇に立ったセルウィンの声は、昨日より低かった。
「昨日の件について、改めて確認させていただきたい」
傍聴席は昨日より埋まっていた。おそらく昨日の「出来事」を聞きに来た層だろう。ゴブが頭を下げた話は、議場の外にも広がっている。
「査問会は厳密な手続きに基づいて進行しなければならない。感情的な演出によって票が動いたとすれば、それは正当な採決の結果とは言えない。昨日発生した事象については——」
「意図的でしたよ」
静かな声が割り込んだ。
セルウィンが話を止めた。傍聴席が一斉にそちらを向く。
立ち上がったのはレイラ・ヴェイツだった。
黒い服。束ねた髪。少し疲れた目。昨日、議事堂の床に崩れ落ちて声を上げて泣いた人と、同じ人間とは思えないくらい、落ち着いていた。
「意図的でした。私が計画しました」
議場が静まりかえる。
「……続けてください」とセルウィンが言った。動揺が顔に滲んでいた。
「ただし、私が計画したのはゴブリンたちの登場ではありません。彼らは自分の意志で来た」
レイラが傍聴席をゆっくり見渡した。それからセルウィンに目を戻した。
「私が計画したのは——昨日のゴブリンの登場を、今日の揺り戻しに使うことです」
「どういう意味ですか」
「昨日、集計が五十一票になりました。その夜のうちに連合中枢は複数の国の代表へ個別に接触しました。私も、ある筋からその内容を聞きました」
彼女は懐から書類を取り出した。
「『感情的影響による手続き上の瑕疵』——この表現を最初に使ったのは誰ですか。オルディーン議長が議場で発言する前夜、この言葉は既に複数の代表へ届けられていた。私には分かります。なぜなら私が以前、同じ仕事をしていたから」
傍聴席からざわめきが上がった。肯定でも否定でもない、驚きに近い種類のざわめきだった。
セルウィンが口を開いた。
「あなたは以前、連合の世論工作に関わっていた。その立場から言っているということですか」
「そうです」
「ならあなたの証言自体、信用性に問題がある」
「それはそうです」
レイラは逃げなかった。
「だから証拠を持ってきました」
彼女が書類の束を演壇へ歩いて置いた。静かな議場に足音が響いた。
「各国代表への接触記録、および使われた文言の一覧です。私が管理していた資料の中に、今朝の展開とほぼ同じパターンが存在します。手順が同じということは——同じ技術が使われているということです」
俺は壁際から動かずに、それを聞いていた。
レイラが自分の手口を喋っている。かつて自分がやっていたことを、一つずつ言葉にしている。それはただの暴露じゃなかった。証言台に立って、自分を切り開いているみたいだった。
セルウィンが書類を受け取り、視線を走らせた。表情が変わらないようにしているのが分かった。でも変わらない努力をしているということが、分かった。
「これは公式の記録ではありません」
「公式の記録は消えます」とレイラが言った。「だから私は非公式のものを残していました。いざというときのために」
「いざというときとは」
「私が裏切られたときのために」
静かな答えだった。
「私は十年、連合のために働きました。正しいことをしていると思っていた。でも先日、私の名前がリークされて失脚寸前になったとき、連合は私を守らなかった。それで分かりました。私は道具だったんだと」
ガレスが傍聴席から立ち上がった。
「俺にも言えることだな」
レイラがガレスを見た。二人は互いを知らないはずだが、目が合った。
「俺は、ゴブリンたちが溢出を起こして部下を殺したと信じていた。そう報告されていたし、そう言われていた。でも第七迷宮に実際に行ったら、あいつらは話を聞こうとしていた。信じていた情報が、正確じゃなかった」
セルウィンが「この場は——」と言いかけた。
「聞いてください」
俺が言った。
全員の視線が俺に来た。
「セルウィン査問官。今、二人が話しています。一人はかつて世論工作を行っていた人間。もう一人は武力側として討伐に来た人間。どちらも、俺の都合のいい証言をしているわけじゃない。自分が誤っていたという話をしています」
俺はセルウィンから目を離さなかった。
「それを聞かないなら——何を根拠に判断しますか」
長い沈黙があった。
セルウィンが書類を机に置いた。
「……続けてください」とレイラに言った。声が、少し低くなっていた。
レイラがうなずいた。
「この揺り戻しの仕組みを説明します。三段階あります」
彼女は淡々と語った。技術者が設計図を説明するみたいに。
「まず、感情的な出来事が起きる。次に、その感情を『不正』と再定義する言葉が用意される。最後に、その言葉が公式の場で使われる前に、あらかじめ各国の代表に届けられる。代表たちは議場で聞く前に、答えを持っている状態になります」
傍聴席が静まりかえっていた。
「答えを持った状態で議場に来た人間に、何を聞かせても意味がない。だから聞かなくなる。そうやって、恐怖が維持されます」
彼女は一度、呼吸を整えた。
「恐怖の出どころは、私じゃない。私を使った、この仕組みです」
議場がしばらく静まりかえった。
カイルが俺の耳元に近づいた。
「……六十四」
揺り戻しが止まった。
六十四は処分執行のちょうど過半数だ。あと一票で結審できる。でも一票、入れない。その状態で、数字が止まっている。
不気味だと思った。
音もなく、完璧に六十四で止まっている。偶然止まる場所じゃない。
レイラが証言台から降りてきて、俺の隣に立った。少し疲れた顔をしていたけど、さっきより肩が軽そうだった。
「うまくいったかどうか、聞くつもりはないです」
「俺も、そういうことは聞きません」
「……どうしてですか」
「聞いても、今は分からないから」
彼女が少し笑った。疲れた笑いだったけど、本物に見えた。
「あなたは変な人ですね」
「よく言われます」
俺たちは少しの間、議場の前方を見ていた。セルウィンが書類を整理している。傍聴席では何人かがまだ話し合いを続けていた。
「昨日のことを、記録に残していいですか」とレイラが聞いた。
「どうぞ」
「正確に書きます。あなたの言葉も、私の言葉も、ゴブリンたちの言葉も」
「ありがとうございます」
彼女がうなずいて、踵を返そうとした。一歩踏み出して、止まった。
「一つだけ、聞かせてください」
「どうぞ」
「あなたは——私の話を聞いて、怖くなりませんでしたか。私みたいな人間が、こんなに人を動かせるということが」
俺は少し考えた。
「怖かった、かもしれません。でも聞いてから、そう思いました。聞く前は——怖くなかった。どんな人か分からなかったから」
「……そういうことですか」
「怖いままで聞けばいい、というのが俺の考えです。怖くなくなるのを待っていたら、俺は何も聞けない」
レイラが少し黙った。
「私はずっと——誰かに怖がってほしかったのかもしれない。怒りをぶつけてほしかったんじゃなくて。正面から、向き合ってほしかっただけかもしれない」
俺には答える言葉がなかった。ただ聞いていた。
「まあ」と俺は言った。「聞いてから判断しよう、というのが俺の口癖でして」
「知っています」とレイラが言った。「昨日から、頭の中にある言葉です。まだうまく使えません。でも——あなたが使うのを聞いていると、少しだけ、楽になります」
それだけ言って、彼女は議場を出ていった。
ガレスが俺の隣に来た。
「……あの人は強い人間だな」
「そうかもしれません」
「俺は今日のことを後悔するかな」と彼は言った。独り言みたいに。
「後悔するかどうかは、まあ——聞いてから判断しましょう」
ガレスが笑った。あまり笑わない顔が笑うと、案外柔らかくなるんだな、と思った。
「お前には何を言っても同じ返しが来るな」
「それしか持っていないので」
カイルが戻ってきた。険しい顔を崩さないまま、俺の前に立った。
「六十四で、動いていない。一時間以上」
「分かってる」
「意図的に止めてると思うか」
俺は議場の扉を見た。
「待ってるんだろう」
「何を」
「俺が次に何をするか、だ。六十四で止めておけば、あと一票が常に頭にある。その状態で次の手を打てば、俺は焦る」
「焦ってるか」
「焦ってない」
嘘じゃなかった。今日、レイラが話した。ガレスが立ち上がった。それを聞いていた。聞いている間は、焦れなかった。
「一票ずつだ」と俺は言った。「ここからは」
カイルが小さく「そうだな」と言って、通信石をしまいかけた。
そのとき、扉の向こうから足音が来た。
一人だけの足音だった。
扉が開いて、査問官セルウィンが立っていた。書類も持たずに。珍しいことに、それだけ手ぶらで。
俺を見て、カイルを見て、ガレスを見た。
それから、少し間を置いて言った。
「……今日の、レイラ・ヴェイツの証言録を、正式な議事記録に含めることにした」
カイルが小さく息をのんだ。
「あなたが決めていいことですか」とカイルが聞いた。
「手続き上は、査問官の裁量の範囲内だ」
セルウィンは俺をまっすぐ見ていた。
「あなたが正しいとは、まだ思っていない。あなたの手法が安全だとも思っていない」
「分かっています」
「だが」と彼は言った。「——今日の証言を聞かなかったことにするのは、違うと思った」
それだけ言って、彼は戻っていった。
足音が遠ざかる。
ガレスが「……変わってきたな」と低い声で言った。
俺には答えなかった。答えなかったけど、同じことを思っていた。
六十四という数字は変わっていない。
でも、この場にいる人間の何かが、少しずつ変わっている。
【査問集計:賛成64/反対39/保留24——共存協定 自動失効まで:あと34日】
カイルが通信石を見つめたまま、呟いた。
「……ここまで来た。あと、一票」
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