第242話「過半数の崖」
夜明け前、カイルから集計が届いた。
通信石が弱い光を放ち、文字が浮かぶ。
【査問集計:賛成64/反対43/保留20】
俺はその数字を、三度読んだ。
三度読んでも、変わらなかった。
64。
人類連合が定めた処分執行の条件——全127票のうち過半数、64票以上の賛成。今、票はちょうどそこにある。一票でも少なければ執行できない。一票でも多ければ、まだ余裕があると思える。
だが64は、余裕がどこにもない。
崖の端に、爪先一枚で立っている。
俺は通信石を机に置いた。宿の窓から、連合の議事堂の明かりが見える。夜通し動いていた人間が、向こうにもいる。俺がこうして眠れない夜を過ごしているように、向こう側にも眠れない人間がいる。
昨夜のことを、もう一度頭の中で辿った。
ゴブが議場で頭を下げた。「来た者」が人語を発した。遺族の老女が泣いた。
あれだけのことが起きて——票は51まで下がった。
そして今朝、64に戻っている。
ガレス、レイラ、カイル。全員が動いた。全員が声を上げた。
その全部を吸い込んで、数字は今、処分執行のちょうど閾値に張り付いている。
窓を、薄い朝の光が染め始めた。
「眠れたか」
ドアが開いた。カイルが入ってきた。目の下に隈があるが、背筋はまっすぐだ。
「少しは」
「嘘つくな。顔に出てる」
カイルは椅子を引いて座った。冬の朝の寒気が、一瞬部屋に流れ込んだ。
「昨夜の動向を確認した」カイルが手書きの紙を出した。「64のうち、個別接触を試みた代表は十七人。全員、会っていない」
「扉を開けなかったか」
「ああ。ただ、追い返したわけでもない。中には扉越しに「明日また来てくれ」と言った代表もいた」
「それは脈がある」
「そう判断したいが——連合が明け方に各国へ書状を送っているという話もある。内容は不明だが、タイミングが気になる」
俺はカップに手を伸ばした。昨夜からそのままにしていた茶が、すっかり冷えている。冷たいまま飲んだ。苦みだけが残った味がした。
「64の中に、カイルが顔を知っている代表はいるか」
「二十人ほどはいる。ただ、俺が動くと連合が「調停者が工作した」と逆に使う可能性がある」
「分かった。俺が行く」
「どこへ」
「議事堂の前廊だ。各国の代表が朝の情報交換をする時間に、一人で出向く」
カイルが眉を動かした。
「一人は危険だ」
「連れがいると、相手が身構える。俺一人なら、まだ普通に話せるかもしれない」
カイルが何か言いかけて、止まった。反論できる根拠がないことを、理解しているのだろう。
そこにガレスが来た。
扉をノックして入ってきたガレスは、連合の外套を着ていない。籍を失って以来、支給物資は全部返している。それでも体格は変わらない。三人が揃うと、狭い宿の部屋がさらに狭くなった。
「集計を見た」
「見ただろうな」
「64か」
ガレスは椅子に腰を下ろした。床板が軋む音がした。太い指が、膝の上で組まれる。
「ゴブの謝罪であれだけ動いたのに、一夜で64まで戻る理由が分からない」とカイルが言った。
「——安全に見えるからだ」ガレスが言った。「処分を出せる最低ラインにいれば、連合から責められない。かといってそれ以上動けば、何かが変わるかもしれない。64は「最も動かずに済む場所」だ。ゴブの謝罪に心が動いた人間も、翌朝にはその感情より「安全かどうか」で判断し直す」
俺はガレスの言葉を聞いた。
正確だと思った。
64は中身への賛否じゃない。
恐怖の重力が、人を引き寄せる場所だ。そこにへばりついていれば、少なくとも誰からも「間違っている」とは言われない。
「崩すには、一人ずつしかない」
ガレスが静かに言った。
「ああ」と俺は答えた。「今日から始める」
午前中、俺は単独で議事堂の前廊へ向かった。
衛兵はいる。「レン・アシダは要注意人物」という通達が出ていても、査問の当事者を無断で排除することは連合の手続き上できない——カイルがそこだけは確認していた。
廊下に入ると、いくつかの人の輪があった。
俺が歩くと、輪がほどける。声が止まる。視線が集まる。
気にせず歩いた。
目当ての人物はすぐに見つかった。壁際で一人、書類を眺めていた初老の代表——東方の小国から来たタレン代表。もともと保留だったが、昨日の集計で賛成に変わっていた一人だ。
「タレン代表、少し時間をいただけますか」
タレンが顔を上げた。俺を見た瞬間、表情が固まった。
「私は——」
「一つだけ聞かせてください。なぜ昨夜、票を変えたんですか」
責めていない。本当に知りたくて聞いた。
タレンが目を逸らした。書類に視線を落とし、また上げた。それを二度繰り返した。
「……決めないでいることが、怖くなった」
「怖い、というのは」
「保留のままでいると、連合からも、あなたたちの側からも、どちらからも不満を言われる。賛成に決めれば、少なくとも批判される方向が一つになる。……それだけです」
タレンは言い終えると、また書類に目を落とした。
会話が終わった。
俺は礼を言って、その場を離れた。
廊下を出ると、冬の外気が顔を撫でた。
歩きながら、考えた。
タレンが票を変えたのは、俺たちへの反発でも、連合への忠誠でもない。
宙ぶらりんの状態に耐えられなくなっただけだ。
ゴブが頭を下げた。レイラが泣いた。老女が息子の名を呼んだ。それだけの出来事が起きて、それでも翌朝には「どこにいれば安全か」が感情より勝った。
64という数字はそういう人間を集める。処分執行の最低ラインにいることが、「これ以上動かなくていい安全地帯」に見える。
崩せるとしたら——
宙ぶらりんへの恐怖より確かな何かを、差し出せるときだけだ。
昼過ぎに宿に戻ると、カイルが通信石を持って立っていた。
「セルウィンから連絡が来た。今日の午後、非公式に話したいそうだ」
「セルウィンが?」
「そうだ。俺も驚いている」
俺は少し考えた。
査問官セルウィン。この査問が始まって以来、俺の言葉を「屁理屈だ」と弾き続けてきた。「君は皆を「いい人」扱いする」「世界はそんなに甘くない」と言い続けてきた。
「会う」
「警戒しなくていいのか」
「まあ、聞いてから判断しよう」
カイルが短く息を吐いた。それ以上は言わなかった。
セルウィンは一人で来た。
護衛も書記もいない。連合の制服のままだが、胸の記章を外している。細かいことだが、俺には見えた。
向かいの椅子に座ったセルウィンは、最初しばらく何も言わなかった。机の上で手を組んで、一点を見ている。
俺は待った。
急かす理由がない。
「言いに来たわけではない」
セルウィンが最初に言った言葉がそれだった。
「では、何しに来たんですか」
「……聞きに来た」
その一言が、部屋の中に静かに落ちた。
「聞きに来た」を、セルウィンが言った。
俺は表情を動かさないようにした。
「昨夜の集計を見た」セルウィンが続けた。「64で止まった。あれが何を意味するか——あなたは分かっているだろう」
「分かっています」
「では、これからどうするつもりだ」
「一票ずつ、会いに行きます」
「64人に、64回か」
「まず次の一票からです」
セルウィンの指が机の上で軽く動いた。考えているときの癖だと、長い査問の間に覚えていた。
「……昨日のレイラの証言は」セルウィンはゆっくり言った。「私には処理できなかった」
珍しい言葉だった。
査問官が「できなかった」と言う。
「俺も、同じでした」
「あなたが?」
「あの人の話は、聞けても返せない。論理で整理できない。怒りに見えていたものが、ただの悲しみだった。ただ——聞くしかなかった」
セルウィンが視線を窓に向けた。
午後の光が石畳に当たっている。人の影が動いて、消えた。
「私は長年、言葉から事実を引き出す仕事をしてきた」セルウィンが言った。声は静かだった。「感情を排除して、構造だけを見る。その方が正確だと思っていた」
「思っていた、というのは」
「——今は、少し揺れている」
沈黙があった。
長い沈黙だった。
廊下を誰かが通る音がした。靴音が近づいて、遠くなって、消えた。
静かになった。
「一つだけ聞かせてください」と俺は言った。「セルウィンさんは、今、どちら側にいますか」
セルウィンが俺を見た。
「それを聞くのか」
「聞かないと、分かりません」
また沈黙。
セルウィンの表情が微妙に動いた。眉が、かすかに寄った。
「……まだ、答えが出ていない」
セルウィンはゆっくりと立ち上がった。
「ただ——」
言いかけた。
言葉が出かかって、止まった。口元が動いた。形が、出ない。
俺は待った。急かさなかった。
だが今日は、出てこなかった。
セルウィンが、一つ息を吐いた。
「明日の査問で会おう」
「はい」
扉が開いて、閉まった。
俺は椅子の背にもたれた。天井を見上げた。
セルウィンが「聞きに来た」と言った。
言いかけた言葉が何だったかは分からない。
でも——分かることがある。
あの人の中に、何かが動いている。まだ形になっていない。だが、確かに動いている。
今日一日で、俺が手を届かせられたのはその一点だけだ。
それで十分か、と問われれば、十分じゃない。
でも今日できたのは、それだけだった。
夕方、カイルが最終集計を持ってきた。
動いていなかった。
【査問集計:賛成64/反対43/保留20】
【共存協定 自動失効まで:あと34日】
「一票も動かなかった」カイルが言った。
「ああ」
「それでいいのか」
「後退はしていない」
カイルが窓の外を見た。日が傾いていた。ヴァリスの街の屋根が橙色に染まっている。議事堂の明かりが、もう点いていた。
「タレンに会ったと聞いた」
「ああ」
「どうだった」
「64の中身が分かった。中身への賛否じゃなく、宙ぶらりんへの恐怖で固まってる人間が多い。論でも感情でも崩れない」
「では、どう崩す」
「一人ずつ話すしかない。その人が抱えてる恐怖を、ちゃんと聞く。それだけだ」
カイルが短く息を吐いた。
「また一から始めるのか。査問が始まって何日になる」
「数えるな」
カイルが疲れた顔で、それでも少し笑った。
「分かった。明日はどこから動く」
「セルウィンと話した」
「え」
「非公式に来た。答えは出なかった。ただ——何か言いかけていた」
カイルが少し考えた顔になった。
「セルウィンが……動くのか」
「分からない。でも聞いてから判断する」
「……それがお前の答えか」
「いつもそうだ」
カイルがため息を吐いた。深くて長い息だった。
通信石を机に置いて、数字の表示を見る。
賛成64。失効まで34日。
沈黙が落ちた。部屋の外では、ヴァリスの街が夜へ向かっている。
「……ここまで来た」
カイルが静かに言った。
「あと、一票だ」
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
毎日昼・夜の2回更新中です。続きが気になったら、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。
もしこの話が面白かったら、☆評価をいただけると本当に助かります。
なろうの評価は日間・週間ランキングに直結するので、1クリックが「次の100話」を書く燃料になります。




