第240話「揺り戻し」
目が覚める前から、空気が変わっていた。
宿の二階の部屋。石造りの壁越しに、往来の音が聞こえてくる。昨日の夜明け前と今朝では、その音の質が違う。昨日は、あの議場での出来事を引きずるように、誰もが静かに歩いていた。今朝は——早い。足音が、何かから距離を取ろうとしているような速さだ。
俺は起き上がり、水桶に顔を突っ込んだ。冷たさが、頭の靄を払った。
昨夜残しておいた黒パンを一口食べた。硬くなっていたが、腹に何も入れないまま動くのは良くない。判断が濁る。腹が減っているときに大切なことを考えてはいけないというのは、誰かに言われたのか自分で学んだのか、もう覚えていなかった。
「レン」
ドアが叩かれた。
入ってきたのはレイラだった。
三週間前まで俺を裏から潰そうとしていた女が、今は俺の部屋を朝に叩く側に回っている。それが奇妙だとは、もう思わなかった。人は聞かれた後、変わることがある。レイラがそうだった。娘の名前を、万余の市民の前で泣きながら叫んだあの夜から、彼女はこういう顔をするようになっていた。感情が消えたのではなく、使い終わった感情の器が静かに冷えているような顔だ。
「早いな」
「あなたに言われたくない。もう着替えているじゃないか」
レイラが窓際に立ち、外の往来を見下ろした。
「大国が動いている。ヴェスタとドラズが早朝に声明を出した。「昨日の査問会は感情に支配されていた。手続きの正常化が必要だ」——オルディーン議長が昨夜のうちに接触したと思う」
「フェンは」
「動くかもしれない。あそこは小国だから、大国の顔色を読まざるを得ない」
俺はパンの残りをポケットに入れた。
「正常化、という言葉は、今ある状態を「異常」と呼ぶことで初めて成立する。昨日の感動を「異常」と名指しすれば、元の怖さに戻すことができる」
「そうだ」
「まあ、聞いてから判断しよう」
レイラが俺を見た。
「今のは独り言だ。腹が減っていると考えが散漫になる」
「……あなたは本当に、不思議なことを言う」
レイラが窓から目を離さなかった。往来を眺めながら、続けた。
「連合の内部文書——昨夜の議長の指示書に、「感情的な判断を正す機会を与える」という表現が使われていたと聞いた。誰かが「聞く前に判断した」と後で言えるように、記録を作っている。あなたの手法を、逆用している」
「それは知っていた」
「知っていて?」
「勝ったと思った瞬間が、一番危ない」
俺はそう言いながら靴紐を結んだ。外の音が、また少し速くなった気がした。
カイルからの通信は、議場へ向かう道の途中で来た。
石畳の路地の端に寄り、通信石を握った。
「レン、聞こえるか」
「聞こえてる。数字を送れ」
カイルが一瞬だけ間を置いた。その間が、嫌な予感を呼んだ。
集計が転送されてきた。
【査問集計:賛成59/反対38/保留30】
【共存協定 自動失効まで:あと36日】
俺は数字を見つめた。
三日前——ゴブが頭を下げ、「来た者」が人語で詫びを言い、遺族の老女がエルドの名前を叫んだあの日——51だった。過半数の64を割り込んだ瞬間、処分執行は物理的に不可能になった、あの51が。
「八票、戻っている」
「逆流が始まってる」
カイルの声が低かった。「ヴェスタとドラズだけじゃない。海沿いの中堅国が三つ。それと——フェンも」
「フェンが?」
一番最初に「聞いてみたい」と手を挙げた、あの小国が。
「メッセージが来た。「一時的に賛成へ戻す。これは圧力への抵抗ではなく、手続きの正常化への協力だ」って書いてある」
手続きの正常化。
ヴェスタとドラズの声明と同じ言葉だった。一晩で、同じ言葉が複数の国の口から出てきた。自然に生まれた言葉じゃない。誰かが昨夜のうちに用意して、配った言葉だ。
「逆流はまだ続くか」
「今のところ動きが続いている。まだ最終集計じゃない」
「わかった。ガレスはどこにいる」
「宿だ。昨日から——飯を食ってないって言ってた」
俺は足を止めた。
「ガレスを呼んでくれ。食事に誘う」
短い沈黙。
「……それ、今やることか」
「そうだ。お前も食べたか」
「……食べてない」
「じゃあ三人で食べよう。腹が減ったまま一日を始めるな」
ガレスは宿の食堂の隅にいた。
椅子に座って、空の器の底をじっと見ていた。食事は来ていない。頼んでいないのか、来るのを待っているのか。どちらにせよ、何も入ってきていなかった。
俺が隣に座ると、ガレスはゆっくりと顔を上げた。目に疲れがあった。ここ二日、ちゃんと眠れていないのだろう。隊長職を失い、年金を失い、連合に寝返りと見なされた男が、それでも昨日の議場に来たのは——何かを信じたからだ。その信じたものが今朝、数字の上では後退している。
「59になった」
「聞いた」
「昨日の51が、一晩で59になった。わかって座っているのか」
ガレスが俺を見た。
「わかっているから座っている。動けば怒りで動く。それが嫌だ」
俺は食堂の主人に声をかけ、スープと黒パンを三人分頼んだ。
「怒りで動くのが嫌なのか」
「違う。怒り方が間違う。剣を持っていた頃の俺なら——」
「剣はない」
「だから座っている」
スープが来た。俺は先に食い始めた。ガレスも遅れて匙を手に取った。
「ガレス、一度だけ同じ気持ちになったことがある」
「お前が?」
「お前が寝返りを公言した後、賛成票が逆に増えた夜だ。あのとき俺は初めて手応えを失った。「俺のやり方は恐がられるだけかもしれない」と思った」
「……そうか」
「夜が明けたらカイルが来て、言った。「最初にゴブが扉を叩いた夜、俺もお前を怖がった。でも聞いた」って」
ガレスが匙を止めた。
「あいつが、そんなことを言ったのか」
「変わったやつは、変わる前を覚えてる。だから変わる前の話をされると、一番効く。カイルはそれを知っていて言ったのか、自然に言ったのか——どちらでも同じことだ」
ガレスがゆっくりとスープを飲んだ。温かいものが体に入ると、人は少しだけ話しやすくなる。
「昨日のゴブを見た。あの小さいゴブリンが、万余の市民の前で頭を下げた。俺の部下を直接殺したのはあいつらじゃないかもしれない。でも——同じ側の存在として、謝った」
「そうだ」
「それを、「感情に支配された」と言うのか。議長は」
「言っている。そう言わせるのが、連合の手だ」
ガレスが拳を机の上に置いた。強く握っているわけではないが、置き方に力があった。
「俺は怒っている。今も。数字のためじゃない。あの老女が泣いたことと、ゴブが頭を下げたことが、「手続きの異常」として処理されることが——我慢がならない」
「まあ、聞いてから判断しよう」
ガレスが俺を見た。
「今のは何だ」
「お前が言ったことを聞いた。俺の判断だ——お前は今、正しいことに怒っている。怒るべきことに怒っている」
「それだけか」
「それだけだ。怒りは正しい。だからこそ、怒りだけで次の手を打つな」
「では——何をする」
カイルが来た。目の下に影があった。俺は黙って向かいの席を指した。
「一緒に来てくれ、ガレス。軍人は軍人に話しやすい。損を承知で寝返った男の言葉を、軍出身の代表は聞く。俺より、お前がそこにいるほうが意味がある」
「俺はもう何も持っていない」
「お前が持っているのは、「剣を収めた」という事実だ。それは誰にも消せない」
ガレスが立ち上がった。
「——「勝ったと思った瞬間が、一番危ない」と、カイルが昨夜言っていた。お前の言葉だと」
「本当のことだ。51になったとき、俺は一瞬だけ安心した。それが間違いだった」
「安心が、なぜ間違いなんだ」
「安心すると、次の手を考えるのが遅くなる。昨夜もう少し遅ければ、59じゃなくて63だったかもしれない」
議場へ向かう途中、カイルが耳打ちした。
「フェンの代表から、個人的に会いたいという連絡が来てる。非公式で、メッセージを伝えたいと」
非公式で。
今朝賛成票を入れた国が、非公式で動いている。
「場所は」
「西の市場の茶屋。一時間後」
「行く。お前は集計を続けてくれ」
西の市場は人が多い。特徴のない顔は、人混みに入ると消える。今日はそれが便利だった。
茶屋の奥に、フェンの代表が座っていた。一番最初に「聞いてみたい」と手を挙げた男が、今朝は賛成票を入れていた。白湯の入った杯を両手で持ち、俺が向かいに座るのを待っていた。
「来てくれた」
「呼んでくれたから」
「今朝の票、申し訳なかった」
「謝罪は要らない。フェンは小国だ。大国の顔色を読んで動くのは生き延びるための判断だ」
代表が少しだけ表情を緩めた。
「あなたは本当に、こういう言い方をするんだな。責めない、と言う。本当に、責めていない目で」
「用件を聞かせてほしい」
代表が声を落とした。
「昨夜、議長の側近から接触があった。「今後の査問会での発言内容を、事前に確認させてほしい」という申し出だった」
俺は白湯に手をつけず、代表を見た。
「事前確認」
「発言の検閲だ。これを受け入れた国が、今朝賛成に戻った。わかっている限りでは、七つ。だが氷山の一角かもしれない」
七つ。
59から51へ戻った八票のうち、七票が検閲を受け入れた国だとすれば——今後の査問会で、それらの国の代表は「決められた言葉」しか言えない。俺がいくら話を聞いても、聞いた言葉は本音でなくなる。
「フェンは受け入れたのか」
「断った。だから、こうして非公式に動いている。検閲を断ったら、別の方法で圧力が来た。今日は仕方なかった」
俺はしばらく黙った。
七つの国が検閲を受け入れた。しかし——七つの国の代表が検閲を受け入れた、ということは、七つの国の代表がまだ「本当のことを言いたい」と思っているということでもある。言えないから、受け入れを断った者がこうして非公式に動く。沈黙には、本音が残る。
「教えてくれてありがとう」
「役に立てるか」
「わかる。ただ、知るべきことだった」
代表が立ち上がった。去り際に、振り返った。
「——あなたは、諦めるか」
白湯を一口だけ飲んだ。体に温かさが広がった。
「諦めない。七つの国が検閲を受け入れたということは、七つの国の代表がまだ揺れているということだ。揺れているものは、どちらへも動く」
代表が目を細めた。「……変な理屈だ」
「でも、正しいだろ」
代表は微笑んで、人混みの中へ消えた。
後ろからガレスが来た。壁際で聞いていた男が、静かに言った。
「本音を言えない人間から、どう聞く」
「本音を言えない理由なら聞ける。「なぜ今日は違うことを言っているんですか」という質問は、検閲できない。そこにある沈黙が、本音だ」
ガレスが低く笑った。疲れた笑い方だったが、今朝より声に力があった。
その夜、カイルから最終集計が来た。
【査問集計:賛成59/反対38/保留30】
【共存協定 自動失効まで:あと36日】
数字は、今日は動かなかった。
動かなかった、ということは膠着している。向こうも次の手を探している。こちらも。
七つの国の代表の顔を、俺はまだ一人も知らなかった。まだ、聞いていない。
「カイル」
「なんだ」
「明日、セルウィンに会いに行く。フェンから聞いた話を伝えたい」
「査問官に? あの人は俺たちの側じゃない」
「知ってる。だからこそ聞く価値がある」
通信が切れた後、俺は窓の外の夜を見た。
59という数字が頭の中に残っていた。逆流は始まった。しかし今日は止まった。止まった、ということは——まだ動く、ということだ。
翌朝、セルウィンからの返信が届いた。
『面会を受け入れる。——条件がある』
俺は短い文面を読んで、小さく笑った。
条件がある、という言葉は、まだ交渉の余地があるということだ。
【査問集計:賛成59/反対38/保留30】
【共存協定 自動失効まで:あと36日・逆流開始】
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
毎日昼・夜の2回更新中です。続きが気になったら、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。
もしこの話が面白かったら、☆評価をいただけると本当に助かります。
なろうの評価は日間・週間ランキングに直結するので、1クリックが「次の100話」を書く燃料になります。




