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門番、魔王軍と交渉する〜ハズレジョブでも、話を聞く奴が世界を動かす〜  作者: ハル
門番、世界と話す

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240/272

第240話「揺り戻し」

目が覚める前から、空気が変わっていた。


宿の二階の部屋。石造りの壁越しに、往来の音が聞こえてくる。昨日の夜明け前と今朝では、その音の質が違う。昨日は、あの議場での出来事を引きずるように、誰もが静かに歩いていた。今朝は——早い。足音が、何かから距離を取ろうとしているような速さだ。


俺は起き上がり、水桶に顔を突っ込んだ。冷たさが、頭の靄を払った。


昨夜残しておいた黒パンを一口食べた。硬くなっていたが、腹に何も入れないまま動くのは良くない。判断が濁る。腹が減っているときに大切なことを考えてはいけないというのは、誰かに言われたのか自分で学んだのか、もう覚えていなかった。


「レン」


ドアが叩かれた。


入ってきたのはレイラだった。


三週間前まで俺を裏から潰そうとしていた女が、今は俺の部屋を朝に叩く側に回っている。それが奇妙だとは、もう思わなかった。人は聞かれた後、変わることがある。レイラがそうだった。娘の名前を、万余の市民の前で泣きながら叫んだあの夜から、彼女はこういう顔をするようになっていた。感情が消えたのではなく、使い終わった感情の器が静かに冷えているような顔だ。


「早いな」


「あなたに言われたくない。もう着替えているじゃないか」


レイラが窓際に立ち、外の往来を見下ろした。


「大国が動いている。ヴェスタとドラズが早朝に声明を出した。「昨日の査問会は感情に支配されていた。手続きの正常化が必要だ」——オルディーン議長が昨夜のうちに接触したと思う」


「フェンは」


「動くかもしれない。あそこは小国だから、大国の顔色を読まざるを得ない」


俺はパンの残りをポケットに入れた。


「正常化、という言葉は、今ある状態を「異常」と呼ぶことで初めて成立する。昨日の感動を「異常」と名指しすれば、元の怖さに戻すことができる」


「そうだ」


「まあ、聞いてから判断しよう」


レイラが俺を見た。


「今のは独り言だ。腹が減っていると考えが散漫になる」


「……あなたは本当に、不思議なことを言う」


レイラが窓から目を離さなかった。往来を眺めながら、続けた。


「連合の内部文書——昨夜の議長の指示書に、「感情的な判断を正す機会を与える」という表現が使われていたと聞いた。誰かが「聞く前に判断した」と後で言えるように、記録を作っている。あなたの手法を、逆用している」


「それは知っていた」


「知っていて?」


「勝ったと思った瞬間が、一番危ない」


俺はそう言いながら靴紐を結んだ。外の音が、また少し速くなった気がした。



 



カイルからの通信は、議場へ向かう道の途中で来た。


石畳の路地の端に寄り、通信石を握った。


「レン、聞こえるか」


「聞こえてる。数字を送れ」


カイルが一瞬だけ間を置いた。その間が、嫌な予感を呼んだ。


集計が転送されてきた。


【査問集計:賛成59/反対38/保留30】

【共存協定 自動失効まで:あと36日】


俺は数字を見つめた。


三日前——ゴブが頭を下げ、「来た者」が人語で詫びを言い、遺族の老女がエルドの名前を叫んだあの日——51だった。過半数の64を割り込んだ瞬間、処分執行は物理的に不可能になった、あの51が。


「八票、戻っている」


「逆流が始まってる」


カイルの声が低かった。「ヴェスタとドラズだけじゃない。海沿いの中堅国が三つ。それと——フェンも」


「フェンが?」


一番最初に「聞いてみたい」と手を挙げた、あの小国が。


「メッセージが来た。「一時的に賛成へ戻す。これは圧力への抵抗ではなく、手続きの正常化への協力だ」って書いてある」


手続きの正常化。


ヴェスタとドラズの声明と同じ言葉だった。一晩で、同じ言葉が複数の国の口から出てきた。自然に生まれた言葉じゃない。誰かが昨夜のうちに用意して、配った言葉だ。


「逆流はまだ続くか」


「今のところ動きが続いている。まだ最終集計じゃない」


「わかった。ガレスはどこにいる」


「宿だ。昨日から——飯を食ってないって言ってた」


俺は足を止めた。


「ガレスを呼んでくれ。食事に誘う」


短い沈黙。


「……それ、今やることか」


「そうだ。お前も食べたか」


「……食べてない」


「じゃあ三人で食べよう。腹が減ったまま一日を始めるな」



 



ガレスは宿の食堂の隅にいた。


椅子に座って、空の器の底をじっと見ていた。食事は来ていない。頼んでいないのか、来るのを待っているのか。どちらにせよ、何も入ってきていなかった。


俺が隣に座ると、ガレスはゆっくりと顔を上げた。目に疲れがあった。ここ二日、ちゃんと眠れていないのだろう。隊長職を失い、年金を失い、連合に寝返りと見なされた男が、それでも昨日の議場に来たのは——何かを信じたからだ。その信じたものが今朝、数字の上では後退している。


「59になった」


「聞いた」


「昨日の51が、一晩で59になった。わかって座っているのか」


ガレスが俺を見た。


「わかっているから座っている。動けば怒りで動く。それが嫌だ」


俺は食堂の主人に声をかけ、スープと黒パンを三人分頼んだ。


「怒りで動くのが嫌なのか」


「違う。怒り方が間違う。剣を持っていた頃の俺なら——」


「剣はない」


「だから座っている」


スープが来た。俺は先に食い始めた。ガレスも遅れて匙を手に取った。


「ガレス、一度だけ同じ気持ちになったことがある」


「お前が?」


「お前が寝返りを公言した後、賛成票が逆に増えた夜だ。あのとき俺は初めて手応えを失った。「俺のやり方は恐がられるだけかもしれない」と思った」


「……そうか」


「夜が明けたらカイルが来て、言った。「最初にゴブが扉を叩いた夜、俺もお前を怖がった。でも聞いた」って」


ガレスが匙を止めた。


「あいつが、そんなことを言ったのか」


「変わったやつは、変わる前を覚えてる。だから変わる前の話をされると、一番効く。カイルはそれを知っていて言ったのか、自然に言ったのか——どちらでも同じことだ」


ガレスがゆっくりとスープを飲んだ。温かいものが体に入ると、人は少しだけ話しやすくなる。


「昨日のゴブを見た。あの小さいゴブリンが、万余の市民の前で頭を下げた。俺の部下を直接殺したのはあいつらじゃないかもしれない。でも——同じ側の存在として、謝った」


「そうだ」


「それを、「感情に支配された」と言うのか。議長は」


「言っている。そう言わせるのが、連合の手だ」


ガレスが拳を机の上に置いた。強く握っているわけではないが、置き方に力があった。


「俺は怒っている。今も。数字のためじゃない。あの老女が泣いたことと、ゴブが頭を下げたことが、「手続きの異常」として処理されることが——我慢がならない」


「まあ、聞いてから判断しよう」


ガレスが俺を見た。


「今のは何だ」


「お前が言ったことを聞いた。俺の判断だ——お前は今、正しいことに怒っている。怒るべきことに怒っている」


「それだけか」


「それだけだ。怒りは正しい。だからこそ、怒りだけで次の手を打つな」


「では——何をする」


カイルが来た。目の下に影があった。俺は黙って向かいの席を指した。


「一緒に来てくれ、ガレス。軍人は軍人に話しやすい。損を承知で寝返った男の言葉を、軍出身の代表は聞く。俺より、お前がそこにいるほうが意味がある」


「俺はもう何も持っていない」


「お前が持っているのは、「剣を収めた」という事実だ。それは誰にも消せない」


ガレスが立ち上がった。


「——「勝ったと思った瞬間が、一番危ない」と、カイルが昨夜言っていた。お前の言葉だと」


「本当のことだ。51になったとき、俺は一瞬だけ安心した。それが間違いだった」


「安心が、なぜ間違いなんだ」


「安心すると、次の手を考えるのが遅くなる。昨夜もう少し遅ければ、59じゃなくて63だったかもしれない」



 



議場へ向かう途中、カイルが耳打ちした。


「フェンの代表から、個人的に会いたいという連絡が来てる。非公式で、メッセージを伝えたいと」


非公式で。


今朝賛成票を入れた国が、非公式で動いている。


「場所は」


「西の市場の茶屋。一時間後」


「行く。お前は集計を続けてくれ」


西の市場は人が多い。特徴のない顔は、人混みに入ると消える。今日はそれが便利だった。


茶屋の奥に、フェンの代表が座っていた。一番最初に「聞いてみたい」と手を挙げた男が、今朝は賛成票を入れていた。白湯の入った杯を両手で持ち、俺が向かいに座るのを待っていた。


「来てくれた」


「呼んでくれたから」


「今朝の票、申し訳なかった」


「謝罪は要らない。フェンは小国だ。大国の顔色を読んで動くのは生き延びるための判断だ」


代表が少しだけ表情を緩めた。


「あなたは本当に、こういう言い方をするんだな。責めない、と言う。本当に、責めていない目で」


「用件を聞かせてほしい」


代表が声を落とした。


「昨夜、議長の側近から接触があった。「今後の査問会での発言内容を、事前に確認させてほしい」という申し出だった」


俺は白湯に手をつけず、代表を見た。


「事前確認」


「発言の検閲だ。これを受け入れた国が、今朝賛成に戻った。わかっている限りでは、七つ。だが氷山の一角かもしれない」


七つ。


59から51へ戻った八票のうち、七票が検閲を受け入れた国だとすれば——今後の査問会で、それらの国の代表は「決められた言葉」しか言えない。俺がいくら話を聞いても、聞いた言葉は本音でなくなる。


「フェンは受け入れたのか」


「断った。だから、こうして非公式に動いている。検閲を断ったら、別の方法で圧力が来た。今日は仕方なかった」


俺はしばらく黙った。


七つの国が検閲を受け入れた。しかし——七つの国の代表が検閲を受け入れた、ということは、七つの国の代表がまだ「本当のことを言いたい」と思っているということでもある。言えないから、受け入れを断った者がこうして非公式に動く。沈黙には、本音が残る。


「教えてくれてありがとう」


「役に立てるか」


「わかる。ただ、知るべきことだった」


代表が立ち上がった。去り際に、振り返った。


「——あなたは、諦めるか」


白湯を一口だけ飲んだ。体に温かさが広がった。


「諦めない。七つの国が検閲を受け入れたということは、七つの国の代表がまだ揺れているということだ。揺れているものは、どちらへも動く」


代表が目を細めた。「……変な理屈だ」


「でも、正しいだろ」


代表は微笑んで、人混みの中へ消えた。


後ろからガレスが来た。壁際で聞いていた男が、静かに言った。


「本音を言えない人間から、どう聞く」


「本音を言えない理由なら聞ける。「なぜ今日は違うことを言っているんですか」という質問は、検閲できない。そこにある沈黙が、本音だ」


ガレスが低く笑った。疲れた笑い方だったが、今朝より声に力があった。


その夜、カイルから最終集計が来た。


【査問集計:賛成59/反対38/保留30】

【共存協定 自動失効まで:あと36日】


数字は、今日は動かなかった。


動かなかった、ということは膠着している。向こうも次の手を探している。こちらも。


七つの国の代表の顔を、俺はまだ一人も知らなかった。まだ、聞いていない。


「カイル」


「なんだ」


「明日、セルウィンに会いに行く。フェンから聞いた話を伝えたい」


「査問官に? あの人は俺たちの側じゃない」


「知ってる。だからこそ聞く価値がある」


通信が切れた後、俺は窓の外の夜を見た。


59という数字が頭の中に残っていた。逆流は始まった。しかし今日は止まった。止まった、ということは——まだ動く、ということだ。


翌朝、セルウィンからの返信が届いた。


『面会を受け入れる。——条件がある』


俺は短い文面を読んで、小さく笑った。


条件がある、という言葉は、まだ交渉の余地があるということだ。


【査問集計:賛成59/反対38/保留30】

【共存協定 自動失効まで:あと36日・逆流開始】

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