第239話「感動で国は守れん」
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議事が中断されたのは午後の半ばのことだった。
「来た者」が議場を後にし、遺族たちが帰り始め、各国代表が席を立って廊下に散っていく。その流れの中で、俺はゴブと控室に残った。
テーブルの上に湯差しが置かれていた。誰かが気を利かせたのか、湯気が細く上がっている。俺は二人分の茶を注いだ。ゴブの前に置くと、小さな緑色の手がゆっくりとカップを包んだ。
ゴブは椅子の上で膝を抱えていた。人間用の椅子は足先が床に届かない高さで、それでもゴブはそのまま窓の外を見ていた。西に傾いた陽が議事堂の石壁を橙色に染めている。広場には、まだ人が残っていた。遺族たちが石畳の上に灯籠を並べ始めていた。
誰も指示しなかったはずだ。誰かが始めて、誰かが続いた。
「疲れましたか」とゴブが言った。
「そうだな」
「俺もです」
しばらく、二人でただ茶を飲んでいた。控室の外からは、廊下を歩く代表団の足音が断続的に聞こえた。
カイルが通信石から立ち上がって、メモを持ってきた。
「最終集計が出た」
俺は受け取った。
【査問集計:賛成51/反対42/保留34】
51。
処分執行の過半数ラインは64。今この瞬間、13票の差がある。
「よかった」とゴブが静かに言った。確かめるような言い方だった。「よかったのか、俺たちは」
「よかったと思いたい」
ゴブが俺を見た。「信じていいですか」
「数字は本物だ。ゴブが今日やったことで票が動いた。それは本物だよ」
「でも——続きがある顔をしていますね、レンは」
俺は少し考えた。
「連合がこのまま引き下がるとは思えない。51になった瞬間が、向こうにとって一番焦る瞬間だから。届いてしまった、と気づく瞬間には、次の手が来る」
ゴブがカップに視線を落とした。
「……俺は」と言った。「怒りをぶつけに行ったわけじゃなかったんです。証言しに行ったわけでもなかった。ただ、詫びに行きたかった。魔物の側から、一度も言えていなかったから」
「知ってる」
「老女がエルドの話をしてくれたとき——俺は泣いていました。泣いていいのか分からなかったけど、出てきてしまって。でも」
「でも?」
「止めなくてよかったと思いました」
俺はうなずいた。
「レンは泣かなかった」とゴブが言った。確かめるように。
「泣けなかった」
「どうして?」
少し間を置いた。
「泣いたら、聞けなくなる気がして」
ゴブがそれを聞いて、しばらく黙っていた。カップの中の茶面をじっと見ていた。それから「そうか」と言った。その言い方がどこか大人びていた。第七迷宮の門番は、三年でずいぶん変わった。俺がゴブに初めて会ったとき、ゴブはもっと小さく見えた。体格は変わっていないのに、どうしてそう感じるのだろうと思う。
「ゴブ、今夜は休め」とカイルが言った。「来た者」の世話をしている人員が限界に近いと、滞在区画から連絡が来ていた。
「はい」
ゴブが椅子を降りた。カップをテーブルに戻して、出口を向く。それから一度だけ俺を振り返った。
「レン。今日のこと——よかったと思っていいですか。結果がどうなっても」
「よかった」
「理由は?」
「ゴブが詫びたかったから詫びた。詫びられた人が泣いた。それで十分だろ」
ゴブがゆっくりとうなずいた。そのまま扉から出て行った。
夜が深くなってから、扉が叩かれた。
「入っていいか」
声はセルウィンだった。
「どうぞ」
彼が入ってきたとき、査問官の顔をしていなかった。俺に対して論理と手続きで向き合う、あの研ぎ澄まされた顔がなかった。代わりにあったのは——俺にはうまく名前がつけられない何かで、疲れとも諦めとも少し違った。
セルウィンはテーブルの椅子を引いた。座る前に湯差しを見た。
「まだあるか」
「どうぞ」
俺が茶を注ぐと、彼は両手でカップを持った。すぐには飲まなかった。窓の外の灯籠の列を眺めていた。
「若い頃」とセルウィンが言った。「私は別の国の記録係をしていた」
俺は待った。続きを聞くために。
「ある議会で、名もない請願者が半日かけて話した。王は最後まで聞いた。聞き終えた後で、三十年続いた税制を変えた。請願者は翌日には国を出て、どこへ行ったか誰も知らない」
「それが?」
「それからずっと、言葉が怖い」とセルウィンは言った。「誰かの話を聞いた人間が変わることが、怖い。言葉一つで王が変わる。三十年の制度が一日で動く。それが——怖い」
「だから俺を処分しようとした?」
「お前が怖かったのは本当だ」とセルウィンは言った。「今もある程度は怖い。でも今夜の私が抱えている怖さは、少し違う」
「どんな怖さですか」
セルウィンはカップをテーブルに置いた。
「正しい手続きで行われた査問が、正しい手続きで差し戻される——それが今夜起きていることだ。明日、議長が声明を出す。内容は私への事前通告もなかったが、察しはついている。昨日の採決を無効化して、市民の傍聴を制限して、数字を戻すことを各国代表に求める」
俺は少し考えた。「あなたはそれを俺に教えに来た?」
「さあな」
セルウィンは立ち上がった。扉に向かいかけて、背中を向けたまま止まった。
「お前の方法が正しいかどうか、私にはまだ分からない。でも——間違いだとも言い切れなくなった。今日の議場を見て」
それだけ言って、彼は出て行った。
扉が閉まった後、しばらく俺は動かなかった。
セルウィンが「間違いだとも言い切れない」と言った。査問官の口から出る言葉じゃない。そういう言葉を口にするとき、人はまだどちらへ踏み出すかを決めていない。
それが分かった。
窓の外では灯籠の列が続いていた。風に揺れながら、消えていなかった。
翌朝、議事堂の空気が変わっていた。
各国代表が席についている。傍聴席に人が埋まっている。外側は昨日と同じだ。でも内側が違った。代表たちの多くが前を向かずに、隣の席と小声で話している。目が合うと、すぐに逸らされた。
昨日あった、あの場の柔らかさがなかった。
「連合が昨夜のうちに各国代表へ個別接触した」とカイルが俺の隣で低く言った。「今日の声明を待って、昨日の票を再考するよう求めた」
「何票動きそうだ」
「まだ分からない。でも三か国、夜中に接触を受けた」
「まあ、聞いてから判断しよう。声明を聞いてから」
カイルが「そうだな」と小声で返した。
壇上にオルディーン議長が現れた。
六十代、白髪、背筋が伸びている。三年前に共存協定に渋々署名した人物だとカイルから聞いていた。今日のその顔は渋ってはいなかった。何かを——もう決めていた。
「昨日の査問について、連合として見解を述べる」
声が通った。傍聴席も代表席も静まった。
「本査問は《人類最大の脅威第一号・レン・アシダ》の処分の是非を問うものである。昨日の議場では、被告人側の手配による前例のない状況下に各国代表が置かれ、傍聴市民も含め、判断に情緒的な影響が生じた可能性がある。連合はこれを手続き上の瑕疵と認定する」
カイルの手が膝の上で拳になった。俺は何も言わなかった。
「昨日の採決は参考値とし、本日より改めて票の確認を行う。また本日より、一般市民・第三者の傍聴を制限し、連合加盟国代表のみを以って議場を構成する。最終結審は共存協定の自動失効日と同日——残り34日——をもって行う」
【共存協定 自動失効まで:あと34日】
俺は手帳にその数字を書いた。書き終えたとき、カイルの通信石が震えた。カイルが確認して、一瞬だけ顔が変わった。変わり方は小さかった。でも俺には分かった。
「今の数字は」
「……58だ。七票、戻った」
51から58へ。昨夜から今朝にかけての、七票。
俺は何も言わなかった。
早かった、とは思わなかった。むしろそうなると分かっていた。ゴブと「来た者」が頭を下げた——あの光景で感情が動いた、その「動いた」という事実を連合は逆手に取った。感情で動いたことを、判断力を失った証拠として使う。
連合はずっとそれを狙っていた。
議長がもう一度、場を見渡した。各国代表を一人ずつ確認するように視線を動かした。そして最後に、俺のほうへ目を向けた。
一秒か、二秒。
その視線の中に怒りはなかった。侮蔑もなかった。俺を——測っていた。どこまで届く存在なのかを、計算していた。
「——アシダ・レン」
議長が言った。
全員の視線が集まった。
「弁明の機会は引き続き与える。ただし」
声が落ちた。落ちたぶん、よく届いた。
「感動で、国は守れん」
一拍、止まった。
「数字を——元に戻せ」
その言葉は俺への言葉じゃなかった。俺に向けながら、昨日感情に揺れた全代表へ向けていた。連鎖を求める静かな命令だった。
議場に重い沈黙が落ちた。
俺は手帳を閉じた。
34日。58票。過半数まであと6。
オルディーンが壇を降りた。その背中は揺れなかった。
感動で国は守れない——そのとおりだと俺は思った。
だから次は、感動じゃない何かで動かすしかない。
夜になってから、ゴブの通信が来た。
「役に立てましたか」
短い一行だった。俺は少し考えてから返した。
「立てた。続きがある」
返事はしばらく来なかった。宿の窓から外を見ると、広場の灯籠の列はもうなかった。立ち入り制限が広まったのか、誰かが片付けたのか分からない。でも石畳には蝋が固まった跡が残っていた。あの炎がそこにあったことは、消えない。
票は戻った。でも昨日あの場にいた全員が——ゴブの声を聞いた全員が、今夜もその記憶を持って眠っている。それは票より先に、消えない。
ゴブから返信が来た。
「わかりました。またノックします」
また、という言葉を俺は読み返した。また来て、また聞く。ゴブはそれを分かって言っている。
灯りを消す前に、一つだけ考えた。
オルディーンは「感動で国は守れない」と言った。それは正しい。だから彼は感情的な訴えには動かない。
しかしあの一秒の視線に、何かがあった。怒りでも侮蔑でもない——俺を、測っていた。測るということは、まだ分からないものが残っているということだ。
恐れている人間は、まだ聞かせてくれる。
34日、まだある。
どの扉を次にノックするか——「まあ、聞いてから判断しよう」と俺は呟いて、灯りを消した。
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