第238話「差し出された赦し」
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議場の空気が変わったのは、午後を少し過ぎたころだった。
傍聴席の後方から前へ、波紋のように何かが伝わってきた。立ち上がる者がいた。扉のほうを見る者がいた。
後方の扉が、内側から叩かれた。
扉番の衛兵が廊下に出た。間を置かず、顔色を変えて戻ってきた。
「セルウィン卿」と衛兵は言った。声が落ちていた。「外に——魔物が来ています」
議場がざわめいた。
ざわめきは瞬く間に広がり、代表席でも傍聴席でも、人々が立ち上がり互いを見た。
俺は動かなかった。
来た、と思った。ゴブが来た。
昨夜カイルから通信が入ったのを覚えていた。「ゴブが今夜出発する。「来た者」も一緒に来るって言ってる。止めるか」と聞いてきた。
俺は少しだけ考えた。
止めるべき理由を探した。でも見つからなかった。
「まあ、聞いてから判断しよう」と俺は言った。
カイルが長い間を置いた。「……今回、聞くのはお前じゃなくて向こうだけどな」
その通りだった。今日ここで聞かれるのは、俺じゃない。
セルウィンが立ち上がり、手を挙げて議場を制した。
「静粛に。確認が取れるまで議事を中断します」と彼は言った。それから俺を見た。「アシダ殿、あなたは何か知っているんですか」
「知っています」と俺は言った。「入れてください。話を聞いてから判断しても、遅くないはずです」
セルウィンは俺を、長い沈黙で見た。
議場中の視線が集まっていた。遺族が並ぶ列から、連合各国の代表席から、傍聴席の万余の市民から。
「……通せ」と彼は衛兵に言った。
ゴブが入ってきた。
議場の通路を歩く音が、静寂の中でよく聞こえた。
俺の記憶の中のゴブより、少し背が伸びた気がした。門番として第七迷宮の前に立ち続けて三年。それでも傍から見れば小さなゴブリンが、万余の視線を受け止めながら、姿勢を崩さずに歩いてくる。
ゴブの後ろから、別の何かが来た。
「来た者」だった。
人型だが人ではない。かつて封印の外から来た存在の一つ。姿は霧のような輪郭を持ち、歩くたびに周囲の光が微妙に屈折した。床に着く足の音は、人間のものより柔らかかった。
傍聴席が完全に静まった。
連合代表が並ぶ席から、声がなくなった。
遺族の列を、俺は横目で見た。あの老女がいた。先日「うちの子を返してくれるのかい」と言った老女が、今は口を閉じて、ゴブを見ていた。
ゴブが壇の前に立った。
「来た者」が、その隣に並んだ。
長い沈黙があった。
ゴブは何も言わなかった。ただ立っていた。俺にはゴブが、台本のない言葉を選んでいるのだと分かった。ゴブはいつもそうだ。言うべきことは決まっている。でも言い方は、そのときにしか決まらない。
傍聴席の誰かが小さく咳をした。それだけが聞こえた。
ゴブが頭を下げた。
深く。
「来た者」も、同じように頭を垂れた。
人でない存在が、万余の人間の前で、静かに頭を下げた。
議場が、止まった。
呼吸の音すら消えた、と思った。
ゴブが頭を上げて、口を開いた。
「俺たちは——人間を、傷つけました」
声は落ち着いていた。緊張していたかもしれない。でも声は揺れなかった。
「溢出がありました。俺たちの迷宮から、魔物が外へ出て、人間の村を踏み荒らしたことがあります。命を奪ったことも、ある」
席から誰かが立ちかけた。セルウィンが手で制した。
ゴブは続けた。
「俺たちは長い間、それを人間のせいにしてきました。先に攻めてきたのは人間だと。先に壁を作ったのは人間だと。それは本当のことです。でも——」
一拍の間があった。
「でも、俺たちが人間の命を奪ったのも、本当のことです」
傍聴席の老女が、口元を手で押さえた。
「俺たちは一度も、謝ったことがない」とゴブは言った。「誰が先に悪かったかは、今も分かりません。でも——謝ったことがないのは、確かです。今日、謝りに来ました」
もう一度、頭を下げた。
「来た者」も、同じように。
人間語を持たない存在が、それでも人間の前で体を折った。その意味が、言葉よりも先に伝わった。
議場の中で最初に泣いたのは、遺族の一団の中の若い男だった。声は立てなかった。ただ顔を覆った。肩が揺れた。
俺は息を吸った。
胸の奥が熱くなっていた。
遺族の老女が、立ち上がった。
静かな動作だった。誰かに促されたわけでもなく、ただ立った。膝が少し震えていたが、立った。
ゴブが老女を見た。
「……うちの子は」と老女が言った。「十八でした。迷宮周辺の駐在兵で、溢出のときに——」
声が、途切れた。
続けようとしていた。でも続かなかった。
ゴブが老女を見続けた。視線を逸らさなかった。
「聞かせてください」とゴブは言った。「名前を、教えてもらえますか」
老女の口が動いた。
「……エルド、です。エルド・マッカ」
「エルド」とゴブは繰り返した。「覚えます」
「……覚えて、どうするんだい」
「俺が門番でいる間は、忘れません」とゴブは言った。「俺たちが、奪ったんです。覚えていないといけない」
老女が、もう一度手を口元に当てた。今度は涙が出た。声が出た。声が出て、老女は俯いた。隣にいた女が、肩を抱いた。
俺は視線を前に向けた。
目の奥が熱かった。泣くのは、この場じゃない。でも熱かった。
「来た者」が、そのとき初めて人語を使った。
「——私たちも、ここにいた」
低い音だった。声というより振動に近かった。でも言葉になっていた。
「私たちは名前を持った。「来た者」と呼ばれる。私たちは来た。ここへ来た。そして——傷つけた。その記憶を、持ち帰る」
傍聴席の誰かが、小さく呟いた。「……喋った」
俺の隣でセルウィンが、静かに息を吐いた。
カイルからの通信が連続して入ってきた。
【査問集計:賛成57/反対51/保留19】
一時間前は賛成57のまま動いていなかった。反対が51。今まで最大だった。
次の通知が来た。
【査問集計:賛成54/反対56/保留17】
反対が賛成を超えた。
もう一度。
【査問集計:賛成51/反対59/保留17】
賛成51。
全127票。処分執行の過半数は64。
51は、その数を割った。
カイルから短い文が添えられた。「レン。51だ。64を割った」
俺はその通知を、手の中で静かに握った。
胸の中で何かが軋んだ。勝ったとは思わなかった。終わったとも思わなかった。数字が遠かった。ゴブが、老女から息子の名前を聞いていた。その光景が目に焼き付いていて、数字が遠かった。
セルウィンが立ち上がった。
「……本日の議事を、一時中断します」
静かな声だった。
「再開は——明日以降とします」
誰も反論しなかった。
議場が、ゆっくりとほどけ始めた。
ゴブが壇を降りた。老女のそばへ歩いていった。老女は座ったまま、ゴブを見た。ゴブが老女の前で立ち止まった。
何かを言おうとして、止まった。
ゴブは、黙って頭を下げた。
老女が、小さく頷いた。
それだけだった。それだけで十分だった、と俺は思った。
廊下に出ると、カイルが待っていた。
「見てたか」と俺は聞いた。
「外から見てた。傍聴席には入れなかったから」
「そうか」
「51だ」とカイルが言った。「ここまで来るとは思わなかった」
「ゴブが来るって決めたとき、止める言葉が出てこなかった。止めなくてよかった」
「うん」
カイルは短く答えた。
「ゴブは」と俺は聞いた。
「まだ中にいる。老女と話してる。別の遺族が近づいていって——ゴブが聞いてやってる」
俺は廊下の壁に背を預けた。
高窓から午後の斜光が差し込んでいた。夕方が来ていた。
賛成51。まだ処分は終わっていない。過半数を割ったが、確定ではない。明日また数字が動く。動かされる。連合はこのままでは終わらない。
それでも今日、ゴブがエルドという名前を覚えた。
その事実は、どこにも消えない。
数字が戻っても、あの老女の涙は、戻らない。
「……「来た者」は?」と俺は聞いた。
「もう外に帰った。一言言いたかっただけだったみたいで、「伝えられた」って」
「そうか」
「来て、よかったよな」
カイルの声に、珍しく迷いがあった。
「よかった」と俺は言った。
「お前がそう言うなら、そうなんだろうな」
「お前はどう思う」
カイルは少し考えた。
「わからない。でも——あの老女の顔を見て、俺には何もできなかった。ゴブにしかできなかった。それは、よかったのかもしれない」
俺は頷いた。
扉が開く音がした。
ゴブが出てきた。
小さな体で、少し疲れた顔をしていた。でも、どこかすっきりした顔もしていた。
「レン」
「お疲れ」
「……怖かったです」
「そうか」
「人間がたくさんいて、みんな俺を見てて、言葉が出なくなりそうで」
「でも出た」
「出ました」とゴブは言った。「出てよかったです」
俺は壁から背を離した。
「今夜は宿を取ってある。休め」
「はい」
少し間があった。
ゴブが夕光の中に目を細めた。それから、静かに言った。
「俺たちは、赦してほしいんじゃないです」
俺は、ゴブを見た。
「ただ——詫びたかった。それだけです。詫びたら、少し軽くなりました」
「そうか」
「ダメですか」
「ダメじゃない」と俺は言った。「十分すぎる」
ゴブが、小さく息を吐いた。
廊下の高窓から差す光が、ゴブの小さな影を床に伸ばしていた。
カイルの通信石が、静かに光った。最終集計だった。
【査問集計:賛成51/反対62/保留14】
【共存協定 自動失効まで:あと34日】
51。
過半数の崖まで、あと13票。
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