第237話「来た者たち」
朝が来るたびに、この議事堂は少しずつ変わっていく気がした。
廊下の石畳は変わらない。欄干の意匠も、天井の高さも。だが四十日前に初めて足を踏み入れたとき、ここには人を裁く空気があった。今は違う。うまく言えないが、人が人の話を聞こうとするときの、少し前のめりになる空気に似ている。
「レン」
カイルの声だった。
振り返ると、彼はいつもより早足で廊下を渡ってきた。手に小さな石板を持っている。通信石の受信端末——第七迷宮からの転送記録だ。
「ゴブから」
受け取った石板に、カイルが薄い魔力を通す。浮き上がった文字は、ゴブの書いた人間語だった。字が少し歪なのは変わっていない。
『レン。俺たちは行く。証人としてじゃない。詫びに行く。来た者も来る。カイル様に道を頼んだ。三日後に着く』
それだけだった。
俺はしばらく石板の文字を見ていた。
「どう思う」とカイルが聞いてくる。
「ゴブらしいと思う」
「そういう話じゃない」カイルが眉根を寄せた。「魔物の一団が王都に向かってくるんだぞ。連合がどう動くか」
「わかってて来るんだろ、ゴブは」
俺は石板をカイルに返した。窓の外は朝靄が薄れはじめたところで、議事堂の前広場にはまだ人影が少ない。四十日間、毎朝ここに立って、今日はどの国と話すかを考えてきた。今日も変わらない。変わったのは、この朝を待つ気持ちの質だけだ。
「手続きを頼む」と俺は言った。「ゴブたちが王都に入れるように」
「……できるかどうかわからないぞ」
「聞いてみないとわからない」
カイルが小さくため息をついた。「お前はいつもそれだ」
「まあ、聞いてから判断しよう。手続きが通るかどうかも含めて」
---
第七迷宮を出たのは、前日の夕暮れだった。
ゴブは列の先頭に立っていた。
後ろを振り返ると、仲間たちの顔が見える。第四層の衛士、第八層の群れ、それから——最後尾に、人より頭二つ分大きい影が揺れていた。「来た者」だ。正確には「来た者」と呼ばれる者たちのうち、この地上に慣れた一体。外から来た知性体の集合体は普段、封印層に近い深部で過ごしているが、今日だけは違う。
「本当に来るか」
ゴブは横を歩く仲間の一体に問いかけた。ハシという名の第六層民——翼はないが、両腕が細長く延びていて、夜は暗視が効く。
「来ると言った。来た者は約束を守る」
「……そうだな」
ゴブは前を向き直した。空は薄紫から黒へ変わりかけていた。
三年前、ゴブは門番小屋の扉をノックした。怖くて、震えていた。あのとき、レンが扉を開けてくれなかったら今どうなっていたかを考えると、今でも背中が冷たくなる。
人間が自分たちを恐れるのはわかっている。
でも、魔物が人間を死なせてきたことも、ゴブは知っている。溢出のたびに、上層から人里へ流れ出て、人を傷つけた。「俺たちは悪くない、境界を越えただけだ」と言いたい気持ちはある。でも言えない。
違うからだ。
人間が壊した村があるように、魔物が壊した村もある。遺族は魔物の遺族より声が大きいだけで、痛みの大きさは同じだ。
レンが一人で人類連合と向き合っている。
四十日間、賛成票を一票ずつ削ってきた。それは全部、俺たちのためだ。ゴブは胸が痛いくらいそれを知っている。
だから行く。
詫びに行く。
それだけだ。
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二日目の午後、「来た者」が列に追いついた。
前を歩いていた仲間たちが思わず足を止め、道の端に寄った。「来た者」の体格は人間の概念からだいぶ外れているが、王都への街道は広い。一体が歩いても余裕がある。
ゴブが近づいた。
「来てくれた」
「待つ者は待っていた。しかし、待つだけでは足りないことを、今回は学んだ」
「来た者」の声は低く、少しかすれていた。人語を覚えたのはここ数年のことだが、フォルとの交信を通じて、言葉の重みというものをよく知っている。
「俺たちが詫びに行くことを、人間はどう思うだろうか」とゴブは聞いた。
「怖がるかもしれない。怒るかもしれない」
「そうだな」
「だが——来た者は、以前、人間に怖がられた。逃げた。逃げることを、しばらく正しいと思った。しかし今は違う。逃げることより、聞いてもらうことの方が、難しくて、価値がある。そう学んだ」
ゴブはしばらく横を歩きながら、その言葉を噛み砕いた。
「俺も、そう思う」
「だから来た。詫びは——言葉でするものだと、レンが教えてくれた」
ゴブは「来た者」の顔を見上げた。大きな瞳が夕陽を反射していた。
「いつ教わったんだ、お前が」
「直接ではない。ただ、ずっと見ていた。聞いていた。そういうことを積み重ねると、自分でも気づかないうちに——まあ、聞いてから判断しよう、と思えるようになる」
ゴブの胸の奥で、何かが静かに温まった。
口癖だ。レンの口癖を、「来た者」が言った。
ゴブは答えを返さなかった。ただ前を向いて、また歩いた。
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カイルが王都側の手続きに奔走していることは、連絡石を通じて伝わってきた。
「通行許可が下りた。ただし、議事堂の正面広場へは直接入れない。南側の待機所から、査問官の案内が必要になる」
「わかった」とゴブは返した。
「ガレスが南門の警備に話を通してくれた。あの人も、ずっと協力してくれている」
「ガレスか」ゴブは顔を思い浮かべた。最初に第七迷宮の前に現れた討伐隊の隊長。今は職を失って困窮しているという話をカイルから聞いたことがある。それでも協力してくれている。
「礼を言っておいてくれ」
「自分で言えばいい。もうすぐ会えるから」
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三日目の朝、王都の輪郭が視界に入ってきた。
城壁の上には旗が並んでいる。連合の紋章と、各国の旗。あの旗の一本一本の後ろに、国があって、人がいて、賛成票か反対票か保留かを持っている。
ゴブは立ち止まった。
後ろを振り返ると、仲間たちが列を組んで並んでいる。第四層の衛士が十二体。第八層の群れが七体。ハシが四体。そして「来た者」が一体。
こんな光景、今まで存在しなかっただろうと思った。
魔物が列を組んで、王都に向かっていく。戦のためでも、溢出でもなく、詫びに行くために。
ゴブは前を向いた。
右足を踏み出した。
列が動いた。
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南門まで、あと半刻というところで、検問所が見えてきた。
木製の柵と、数人の兵。旗を持った兵が一人、柵の前に立っている。街道はここで一度狭まり、通行者を一組ずつ確認する構造になっている。
ゴブは歩調を緩めなかった。
止まれば「怖い」という信号になる。怖くないわけではないが、それは今は関係ない。
検問所まで五十歩。
四十歩。
三十歩というところで、柵の前の兵が動いた。
右手の兵が左手の兵に何か言っている。左手の兵が振り返って、内側の建物に向かって叫んだ。
「おい! 魔物が——!」
声が上ずっている。
十歩。
ゴブは足を止めた。列が止まる。「来た者」も止まる。
静かだった。
鳥の声が遠くで聞こえた。
柵の前の兵が剣に手をかけながら、こちらを見ている。目が丸くなっていた。怖いのは当然だと思う。突然、魔物の一団が街道を歩いてきたら、誰でも怖い。それは否定できない。
ゴブは両手を広げた。武器を持っていないことを示す、人間のやり方だ。レンから教わった。
「俺はゴブ。第七迷宮の門番だ」
兵が固まっている。
「査問官カイル・ベルグの案内で来た。通行許可の書状があるはずだ」
静寂。
それから、内側の建物の扉が開いた。制服ではなく、旅装に近い格好の大柄な男が出てくる。剣は腰に差しているが、鞘のままだ。
ガレスだった。
「来たか」と彼は言った。
「来た」とゴブは答えた。
ガレスは柵の前の兵士たちに向かって「下がれ」と言った。「俺が確認する」
兵士たちは戸惑いながらも後退した。ガレスがゆっくり柵を横に動かし、通路を開ける。
ゴブは一歩進んだ。
ガレスと目が合った。三年前、第七迷宮の前に現れたときの鎧姿ではない。今は元の顔だけが残っていて、それがゴブには返って誠実に見えた。
「ガレス、礼を言う」
「礼はいらん」と彼は言った。「俺も——聞いてからの判断だ。あの男の真似事が、まだうまくできるかどうか、試してみたかっただけだ」
ゴブはそれを聞いて、少し笑った。
列が動き始めた。第四層の衛士、第八層の群れ、ハシ、そして最後に「来た者」が通路に差し掛かる。ガレスの横に立っていた若い兵が、その影を見て一歩引いた。
「大丈夫か」とガレスが静かに言う。
「……は、はい」
「俺も最初は似たようなもんだった。だが、害はない。今日のところは——まあ、聞いてから判断しろ」
若い兵が固まったまま頷く。
ゴブは前を向いた。王都の城壁が正面にある。あそこに入れば、もう引き返せない。
引き返す気はないが。
「来た者」が小声で言った。
「ゴブ。あの若い兵は——」
「ああ」
「怖がっていたが、逃げなかった」
「そうだな」
「それは、最初の一歩だ」
ゴブはそれに答えなかった。でも、その言葉を胸に入れたまま、歩き続けた。
城壁が近づいてくる。
南門のあたりに、もう数人の兵が集まり始めていた。誰かが走って報告に行ったのだろう。その一人が戻ってきて、同僚に何か告げる。
声は届かなかったが、その兵の顔の向こうで、城門の向こうで、今まさに誰かが言っているだろうことが、ゴブには想像できた。
想像して——そうでも変わらない、という気持ちが、胸の底にある。
俺たちはただ、詫びに行く。
それだけだ。
どう受け取られるかは、聞いてもらってから決まる。
「魔物が……」
城門の方から声が届いてきた。見張り台の兵が、同僚に向かって叫んでいる。
「魔物が——列を作って、こっちに歩いてくる」
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