第236話「魔物側の沈黙」
名前を、聞いていた。
今日で三日目になる。
議事堂の天井は高い。声が吸い込まれるように消えていく。それでも遺族たちは前に出て、一人ずつ、失った人の名前を口にした。
「ヨルク。息子の名前です。二十二歳でした。迷宮の溢出を押さえようとして——」
老いた父親の声は途中で詰まった。俺は急かさなかった。待つことしかできないが、待てる。
「ヨルク」と俺は声に出す。文字に起こしながら繰り返す。「ヨルクさんは、どんな人でしたか」
父親が驚いたように顔を上げた。
裁判でそういうことを聞く人間はいない。有罪か無罪かを決めるのに、息子の笑い方は要らないから。でも俺には要る気がした。証拠ではなく、ヨルクという人間が確かにいたという事実として。
「よく笑う子でした。飯も人の倍は食って。剣の腕は大したことなかったんですが、度胸だけは一人前で」
「そうですか」
「だから——あの夜、先頭に出たんだと思います。度胸があったから」
父親の声が小さくなった。
俺は紙の上に「ヨルク、二十二歳、よく笑う、度胸がある」と書いた。下手な字で、でも残す気で書いた。
傍聴席はしんと静まり返っていた。一昨日まであった「これは裁判か、弁明の場か」という声は、もうどこからも聞こえない。万余の市民が、名前が呼ばれるたびに少しずつ姿勢を変えている。立て掛けていた腕を降ろし、前のめりになり、隣の人間とひそひそ話すのをやめていく。
次の遺族が前へ出た。今度は若い女性だった。
「母の名前を言いに来ました。ミレナといいます。農村の産婆でした。溢出のとき、逃げ遅れた子供を連れて走って——間に合わなかったそうです」
「ミレナさん」と俺は繰り返した。「子供は助かりましたか」
「はい。その子が今日、私の隣に来ています」
娘の隣に立っていた十代の少年が、小さく頭を下げた。
俺は「ミレナ、産婆、子供を助けた」と書いた。
議事堂が、また静かになった。
レイラが供述台の脇に座ったまま、前を見ていた。表情が読めなかった。目は赤くないが、乾いてもいない。瞬きの間隔だけが、普通より長かった。
セルウィンは何も言わなかった。一日目は何度か「それは弁明に関係があるのか」と割り込もうとしたが、二日目からは黙っている。止め方が分からなくなったのか、止める理由が見つからなくなったのか、俺には判断できない。ただ、立っていた。
「次の方」と俺は言った。
また誰かが前に出てくる。
数字は今日も更新されていた。
【査問集計:賛成57/反対38/保留32/共存協定 自動失効まで:40日】
第七迷宮に知らせが届いたのは、その夜のことだ。
ゴブは門番小屋の外で夕暮れを見ていた。今日最後の旅人を見送って、一人になったところだった。秋に入りかけた空気は冷えていて、草の匂いがする。第七迷宮の入口から遠くを見ると、山の稜線が暗くなり始めていた。頂には、もう白いものが見える。
通信石が震えた。
「カイルか」
「そうだ」とくたびれた声が返ってくる。「お前に伝えておこうと思って」
「何があった」
「レンが遺族の名前を聞き続けてる。今日で三日目だ。朝から晩まで——ひたすら聞いて、書いて、また次の人を呼んで。食事は運んでもらいながら食べてる。休憩も取ってる。でも止まらない」
ゴブは石を握り直した。
「止めようとする人間はいないのか」
「セルウィンが最初は割り込もうとしてた。でも今は黙ってる。レイラも黙ってる。傍聴席も——なんか、静かになってる。引いてるんじゃなくて、見てる感じの静かさだ」
「賛成票は」
「57だ。さっき更新が来た」
ゴブはしばらく何も言えなかった。
「あいつは、疲れてないか」
「疲れてると思う。でも止まらない。あいつはそういう奴だ、昔から」
「そうだな」
「一応、知らせとこうと思って。俺も明日が早いから」
「ありがとう」
カイルの通信が切れた。
ゴブは通信石を手の中で転がした。
遺族が名前を言う。レンがそれを聞いて書く。三日も続いている。
実際の場面は見ていないのに、なんとなく分かる気がした。誰かが前に出て、声が詰まって、でも名前だけは言う。レンがそれを——ただ聞いている。
ゴブの胸の中で、何かが動いた。
うまく言葉にできない感情だった。ただ、じっとしていられないような気持ちだった。
門の板を一度だけ叩く。音が夜の空気に消えていく。
三年前、反対側から叩いたのを思い出す。扉の向こうに誰かいると信じて、ノックした夜。今は、叩く必要がない。鍵は自分が持っている。
それが、何かを教えてくれている気がした。
翌朝、ゴブは迷宮の奥へ降りた。
フォルのいる場所は十一層だ。三年前は夢にも思わなかったが、今は慣れた道になっている。石段を降りるたびに空気が変わり、人間の世界から切り離されていく感覚がある。明かりは要らない。体が覚えている。
フォルは待っていた。
「来ると思っていた」とフォルは言う。壁から滲み出るような低い声だった。
「カイルの記録、見ていたか」
「流れてくる。毎日見ている」
ゴブは石の床に腰を下ろした。壁に背をつけて、膝を抱える格好になる。子供みたいな座り方だと分かっているが、今はそれでよかった。
「人間の遺族が、死んだ人間の名前をレンに話している」
「そうだ」
「レンは、それを書いている」
「そうだ」
ゴブは膝の上で手を組んだ。
「昨夜から——何か、胸がつかえている。うまく言えないんだが」
フォルは答えない。ゴブが自分でたどり着くのを、待っている。三年前から、フォルはずっとそういう存在だった。答えを渡さない。ただ、そこにいる。
「溢出のとき」とゴブは言った。「俺たちの仲間が人間の里へ出た。「来た者」も同じだ。封印の外の瘴気から逃げるために、上を目指した。それは本当のことだ。俺たちは脅威になりたかったわけじゃない」
「そうだ」
「でも——その途中で、人間が死んだ。父親が息子を失ったのも、娘が母親を失ったのも——俺たちの仲間が動いたせいだ。事情があっても、人間が死んでいいわけじゃない。それも、本当のことだろう」
フォルは黙っていた。
「俺たちは、謝りに行ったことがあったか」
「なかった」とフォルは言った。「機会もなかった」
「でも今はある」
「そうだ」
「なぜ今まで思いつかなかったんだろう」
「言葉を持つ者として見てもらえていなかったからだ」とフォルは言った。声が、少し低くなった。「誰かに謝るためには、相手に言葉が届かなければならない。三百年間、我々は言葉を持つ者として扱われなかった。だから謝ることも、謝る機会を思い描くことも、できなかった」
「でも今は」
「今は違う。アシダが来た。話を聞いた。お前が来た。カイルが来た。外から来るものも言葉を持つ者になった。今、お前には機会がある」
ゴブはゆっくりと顔を上げた。
「怖いか」とフォルが聞いた。
「怖い」とゴブは即座に答えた。「人間の前に立つのは、三年前から変わらず怖い。慣れた部分もある。でも根の部分は、まだ怖い」
「では」
「でも」とゴブは言った。「レンが最初に扉を開けてくれたとき——あいつも怖かったと思う。夜中に俺みたいな存在がノックしたんだ。震えてたかもしれない。でも、開けた。聞いてくれた」
「……」
「俺は、扉を叩く側に行きたい。「来た者」も——連れていけるなら、連れていきたい」
「「来た者」は怖がるだろう」
「まあ」とゴブは言った。「聞いてから——一緒に判断しよう」
フォルが低い音を出した。笑いに近い、柔らかいものだった。
「行くといい」とフォルは言った。「私はここで待っている」
「来た者」との話し合いは、十六層で半日かかった。
最初に言葉を持つ個体が問いかけてきた。
「なぜ人間の都へ行くのか」
「詫びに行く」とゴブは答えた。
「証言ではないのか。アシダを守るためではないのか」
「違う」ゴブははっきり言った。「レンのためではなく、俺たちが傷つけた人間のところへ——傷つけたことを、伝えに行く」
集合体が揺れた。疑問を示す揺れだと、今は分かる。
「伝えて、何が変わる」
「わからない」とゴブは正直に言った。「赦してもらえるかもしれない。怒られるだけかもしれない。門前払いかもしれない」
「では、なぜ」
「言わないままでいるのは、おかしい気がした」とゴブは言った。「今、人間の側では、人間が人間に亡くなった者の名前を伝えている。俺たちの側では——何もしていない。俺たちにも傷つけた相手がいる。俺たちにも、言うべきことがある」
「来た者」の集合体が、ゆっくりと揺れ続けた。
「人間は怖がるか」
「怖がる」
「俺たちを見るか。目を向けるか」
「向けないかもしれない」とゴブは言った。「でも向けてくれる人間が一人でもいたら——そこから始まる。俺たちが最初に人間と話せるようになったのも、最初は一人だった」
「来た者」が揺れた。今度の揺れは、違う質を持っていた。
しばらく、沈黙が続いた。
十六層は深く、人間の音が届かない。ゴブは待った。急かす必要はない。フォルがゴブを待ってくれたように、ゴブが待てばいい。
「——行こう」とやがて「来た者」は言った。「詫びに、行く」
通信石を取り出したのは、小屋に戻った後だった。
夜になっていた。星が出ている。
「カイル」と呼びかけると、すぐに返事が来た。
「どうした、こんな夜中に」
「明日、俺たちが向かう」
「……向かう、というのは」
「王都に」とゴブは言った。「査問会に」
カイルが沈黙した。長い間があった。
「証人としてか」
「違う」
ゴブは一度だけ息を吸った。
「俺たちも行く。証人としてじゃない——詫びに行く」
通信石の向こうが、静かになった。
カイルの息づかいが聞こえる。それから、低く「——わかった」という声が来た。「手配する。すぐに動く」
「レンに伝えるか」
また少し間があった。
「伝えない」とカイルは言った。「久しぶりに——あいつが驚く顔を、見たい」
ゴブは、口元が動くのを感じた。笑っていた。
「そうしよう」
通信を切ってから、ゴブは門の前に立った。
三年前、ここから始まった。扉の向こうに誰かいると信じて、ノックした夜。「話を聞いてほしい」という言葉しか持っていなかった夜。扉が開いて、中に眠そうな人間がいた夜。
あの夜、あいつは聞いてくれた。怖くても、聞いてくれた。
明日、俺たちは扉を叩きに行く。
受け入れてもらえるかどうかは、わからない。怒られるかもしれない。怖がられるだけかもしれない。それでも行く。
聞いてくれる人間が、向こうにいる。
「来た者」も来る。詫びに来る。
ゴブは夜空を見上げた。第七迷宮の入口から見る空は、いつも少し狭い。でも今夜は、どこまでも続いている気がした。
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