表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
門番、魔王軍と交渉する〜ハズレジョブでも、話を聞く奴が世界を動かす〜  作者: ハル
門番、世界と話す

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
235/272

第235話「名前を呼ぶ」

「あの子の名前は、マリアといいました」


老女の声は、かすれていた。


査問会の傍聴席から外れた、石造りの小部屋。長椅子が二脚、向かい合うだけの場所だった。俺はカイルに用意してもらったそこで、レイラの転向から丸一日が経った朝から、遺族の話を聞き続けていた。


「マリア、か」


俺は手帳に名前を書いた。マリア、十四歳。南部の村ガルウィン出身。魔王軍の溢出で失われた。


老女は俺の手もとを見ていた。


「書き留めてくれるんですね」


「聞いただけで、頭の中にしまっておくのは違う気がして」


老女がまた俺を見た。昨日の抗議の列で最前列に立っていた人だ。白髪を後ろに束ねて、背筋が真っ直ぐだった。ずっと怒った顔をしていた。今もその顔は変わっていないが、その奥にある疲れが少し表に出てきた気がした。


「マリアは、どんな子でしたか」


「……やかましい子でした。朝から晩まで喋ってた。食卓が静かになって、最初の一年は耐えられなくて」


老女の手が、膝の上で固く握られた。


「二年目になったら、ようやく黙って食べられるようになった。食べられるようになってしまった、と思いました」


俺は何も言わなかった。


老女が続けた。


「……レイラさんが謝ってくれた。あの人が止まるのを、心のどこかで待っていた気がします。だから正直、抗議の列に並んでいた間も、自分が何を求めているのか、よく分からなくなっていた」


「怒っていたんですよね」


「はい。でも——誰かに怒り続けるのは、疲れる。ずっとそれだけのために生きているみたいで」


俺は手帳にもう少し書き足した。


「話してくれてよかった」


老女が初めて、わずかに目を細めた。



 



その日、俺は十一人の話を聞いた。


持ってきた手帳はあっという間に埋まって、カイルに紙を追加で借りた。カイルは何も聞かずに渡してくれた。


「飯は食ったか」


「昼に少し」


「少しって何だ」


「パンを半分」


カイルが舌打ちして、廊下の売り子から丸パンを二つ買ってきた。俺はそれを受け取りながら、ありがとうとだけ言った。腹が鳴った。自分でも気づいていなかった。


「何人に会った」


「十一人。まだ希望者がいる」


「何日かけるつもりだ」


「全員に会えたら、それでいい」


カイルが少し黙った。


「……俺も手伝う。別の部屋で話を聞く」


「お前が?」


「悪いか」


俺は首を振った。悪くない。カイルは今、俺よりずっとうまく聞けると思っている。


「じゃあ、名前と出身と、どんな人だったかを中心に」


「分かってる」


カイルが手帳を一冊持って、隣の部屋へ向かった。その背中を見ながら、俺は少し、肩の荷が降りた気がした。パンを一口齧った。やっと食べる気になった。



 



三日かかった。


カイルと二人で、合計七十四人の話を聞いた。


南部出身が多かった。北部の国境沿いもいた。子を失った親、親を失った子、兄弟を失った者。農民、鍛冶師、行商人、元兵士。一人ひとりの話はそれぞれ違っていて、でも根っこのところにある重さは全部同じだった。


俺は毎晩、その日聞いた名前をもう一度書き直した。ただ書き直すだけでなく、その人がどんな人だったかを一行ずつ添えた。


マリア。十四歳。食卓でやかましかった子。

ターロ。二十二歳。結婚を控えていた。

エレン。四歳。まだ一人で歩けなかった。


書いていると、手が重くなる。


俺には返せるものが何もない。老女が言った通りだ。謝って済むなら、戦争なんか起きていない。俺の言葉がどれだけ丁寧でも、名前を書き留めても、その人たちは帰ってこない。


でも、聞かないよりはましだと思った。


名前を誰も知らないまま消えていくより、誰かが一度でも声にした方がいい。



 



四日目の朝、セルウィンが小部屋に来た。


査問官らしく書類を小脇に抱えていたが、普段より少し遅い足取りだった。


「君は、何をしている」


俺は手帳から顔を上げた。


「名前を集めています」


「それを査問会に持ち込むつもりか」


「まあ、聞いてから判断しようと思っています」


セルウィンが目を細めた。


「……何人分だ」


「カイルと合わせて七十四人分」


俺は束になった紙を見た。折りたたんで、机の上に置いてある。


「何のために」


俺は少し考えてから答えた。


「弔いのためです。正式な記録として、誰かが声に出して呼んだことにしたい。この査問会が終わった後も、名前が残るように」


セルウィンが長い間、俺を見ていた。


「……それは、弁明になるか?」


「なりません」


「では処分票には関係ない」


「直接は関係しません」


また沈黙があった。


セルウィンが書類を抱え直して、言った。


「明日の午前に一時間確保する。議長への申請は私がする」


俺は顔を上げた。


セルウィンはもう廊下に向かっていた。


「君の弁明ではない。記録としての申請だ。誤解するな」


そう言い残して、足音が遠ざかった。


俺は束になった紙を手に取った。七十四枚。ずっしりと、しかし静かに重かった。



 



翌朝、査問会の場は普段と違う空気があった。


傍聴席は満員だった。いつも通りの万余の市民だが、声が少なかった。開始前の雑談が消えていた。何かを待っている空気ではなく、何かを感じ取った空気、と言う方が近かった。


俺は壇上に立った。


隣にカイルがいた。無言で手帳を差し出してきたので、受け取った。


「読み上げます」


俺は集めた紙を開いた。


「戦争で失われた方々の、お名前と、どんな方だったかを。遺族の方から直接聞かせていただきました」


場がさらに静まった。


「マリア。十四歳。南部ガルウィン出身。食卓が賑やかな子だったそうです」


俺の声は、思ったより静かに出た。大声を出すつもりはなかった。でも傍聴席の奥まで届くよう、ゆっくり読んだ。


「ターロ。二十二歳。北部セルン農村出身。結婚を三週間後に控えていました」


誰も声を出さなかった。


「エレン。四歳。東部の宿場町ファール出身。その年の冬に、ようやく一人で歩けるようになったと、お父さんが話してくれました」


四歳。書く時に一番手が止まった名前だ。


「コス。三十五歳。中部リェナ出身の鍛冶師。鉄を打つのが好きで、自分で作った小刀を息子に渡したかったと、お母さんが話してくれました」


読み上げながら、俺は傍聴席を見なかった。


名前を見ていた。紙の上の名前を、一つひとつ、声に乗せていた。


「ファン。十八歳。南部グレン島出身の漁師見習い。朝が苦手で、よく寝坊したと妹さんが笑いながら話してくれました」


笑いながら、と書いた。妹は話しながら泣いていたが、「笑いながら」という言葉を使った。それが正しいと思ったので、そのまま書いた。


「ネア。六十二歳。王都近郊出身の行商人。五十年間、同じ街道を歩き続けていたそうです」


五十年。五十年間、道を歩き続けた人間が、突然いなくなる。


「ルーカ。二十八歳。東部出身の元王国兵。迷宮溢出の際、民を逃がした後に亡くなりました」


ざわり、と場が揺れた気がした。


俺は顔を上げなかった。


「ヨルン。四十一歳。中部出身の教師。子供に算術を教えていました。生徒が三十人いたと奥さんが話してくれました」


名前が続いた。


読み上げながら、俺は何も感じないようにしていた。感じていたら声がおかしくなる。でも「何も感じない」と「押し殺している」は違う。押し殺していた。声が揺れないよう、ただ読んだ。


「アーラ。九歳。南部出身。お母さんから聞きました。この子はいつも、扉をゆっくり開けていたそうです。壊さないように、と言いながら」


扉をゆっくり開ける九歳。俺はその子を知らない。これからも会えない。それでも、今こうして名前を声に出した。アーラという子がいた、と。この場所に、今日だけでも、残った。


カイルの手帳の分も、俺が読んだ。カイルは途中から壇の横に立って、俺の声を聞いていた。一度だけ目が合った時、カイルは何も言わなかった。ただ頷いた。


全部で七十四名。


最後の名前を読んだ後、俺は紙を置いた。


場は静かだった。


風が窓から少し入ってきて、紙の端を揺らした。


俺は言葉を足さなかった。


弁明でも、主張でも、そういうものを今ここに置きたくなかった。ただ名前があった。七十四人分の名前と、その人がどんな人だったかの短い言葉が、この空間に残った。


傍聴席が静まりかえる、という感覚は、人の気配がなくなることではない。逆だと思った。一人ひとりが、自分の胸の内側に集中している時の静けさだ。そこに三万人がいても、声がなくなる。


しばらく、誰も口を開かなかった。


セルウィンが書記席で書類を持ったまま動いていなかった。議長代理の席の男が、何かを言おうとして、止めているように見えた。


傍聴席の奥、遺族たちが固まっている区画から、わずかな泣き声が聞こえた。



 



カイルが静かに俺の隣に来た。


「集計が入った」


小声で言いながら、転送石を俺の前に置いた。光る文字が浮かぶ。


【査問集計:賛成57/反対39/保留31】


俺はその数字を見た。


七十四人分の名前の後に出た数字だ。票が動いた。七十四の名前が動かしたのかどうかは、俺には分からない。でも、確かに動いた。


「レン」


カイルが言った。


「遺族の区画から、一人出てきてる」


壇の方に向かってくる人影があった。老女だった。あの老女だ。


俺は壇から降りた。


老女は俺の前まで来て、立ち止まった。俺より小さな体で、背筋は真っ直ぐだった。


「……マリアの名前を、ちゃんと聞こえました」


「よかった」


老女がまた、わずかに目を細めた。


「あなたに一つ、聞いていいか」


「はい」


老女が口を開いた。


「失効まで四十日を切ったと聞きました。残り四十日で、あなたは——」


そこで老女は一度、言葉を切った。


目が、少し揺れた。


「……いや、聞き方が悪いな。あなたは、どうしたいのか」


俺は少し考えた。


老女は答えを急がなかった。


俺がやがて言い始めた時、廊下の扉が勢いよく開いた。


入ってきたのは連合の書記官だった。書類を手に、急いだ様子で壇に向かっていた。


カイルがそちらへ向かいながら、俺に視線を送ってきた。


書類が広げられる。


カイルの顔が、わずかに硬くなった。


「レン」


カイルが低い声で言った。


「オルディーン議長から、緊急の書状だ」


俺は老女に向き直った。


「すまない、少し待ってもらえますか」


老女が静かに頷いた。


俺はカイルの元へ向かいながら、手の中にある手帳を握り直した。七十四人の名前が、そこにある。


【共存協定 自動失効まで:あと40日】


カイルが書状を俺に渡した。


俺はそれを受け取って、開いた。


一行目を読んだ。


「……これは」


カイルが静かに言った。


「議長が、直接会いたいと——」

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


毎日昼・夜の2回更新中です。続きが気になったら、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。


もしこの話が面白かったら、☆評価をいただけると本当に助かります。

なろうの評価は日間・週間ランキングに直結するので、1クリックが「次の100話」を書く燃料になります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ