第235話「名前を呼ぶ」
「あの子の名前は、マリアといいました」
老女の声は、かすれていた。
査問会の傍聴席から外れた、石造りの小部屋。長椅子が二脚、向かい合うだけの場所だった。俺はカイルに用意してもらったそこで、レイラの転向から丸一日が経った朝から、遺族の話を聞き続けていた。
「マリア、か」
俺は手帳に名前を書いた。マリア、十四歳。南部の村ガルウィン出身。魔王軍の溢出で失われた。
老女は俺の手もとを見ていた。
「書き留めてくれるんですね」
「聞いただけで、頭の中にしまっておくのは違う気がして」
老女がまた俺を見た。昨日の抗議の列で最前列に立っていた人だ。白髪を後ろに束ねて、背筋が真っ直ぐだった。ずっと怒った顔をしていた。今もその顔は変わっていないが、その奥にある疲れが少し表に出てきた気がした。
「マリアは、どんな子でしたか」
「……やかましい子でした。朝から晩まで喋ってた。食卓が静かになって、最初の一年は耐えられなくて」
老女の手が、膝の上で固く握られた。
「二年目になったら、ようやく黙って食べられるようになった。食べられるようになってしまった、と思いました」
俺は何も言わなかった。
老女が続けた。
「……レイラさんが謝ってくれた。あの人が止まるのを、心のどこかで待っていた気がします。だから正直、抗議の列に並んでいた間も、自分が何を求めているのか、よく分からなくなっていた」
「怒っていたんですよね」
「はい。でも——誰かに怒り続けるのは、疲れる。ずっとそれだけのために生きているみたいで」
俺は手帳にもう少し書き足した。
「話してくれてよかった」
老女が初めて、わずかに目を細めた。
その日、俺は十一人の話を聞いた。
持ってきた手帳はあっという間に埋まって、カイルに紙を追加で借りた。カイルは何も聞かずに渡してくれた。
「飯は食ったか」
「昼に少し」
「少しって何だ」
「パンを半分」
カイルが舌打ちして、廊下の売り子から丸パンを二つ買ってきた。俺はそれを受け取りながら、ありがとうとだけ言った。腹が鳴った。自分でも気づいていなかった。
「何人に会った」
「十一人。まだ希望者がいる」
「何日かけるつもりだ」
「全員に会えたら、それでいい」
カイルが少し黙った。
「……俺も手伝う。別の部屋で話を聞く」
「お前が?」
「悪いか」
俺は首を振った。悪くない。カイルは今、俺よりずっとうまく聞けると思っている。
「じゃあ、名前と出身と、どんな人だったかを中心に」
「分かってる」
カイルが手帳を一冊持って、隣の部屋へ向かった。その背中を見ながら、俺は少し、肩の荷が降りた気がした。パンを一口齧った。やっと食べる気になった。
三日かかった。
カイルと二人で、合計七十四人の話を聞いた。
南部出身が多かった。北部の国境沿いもいた。子を失った親、親を失った子、兄弟を失った者。農民、鍛冶師、行商人、元兵士。一人ひとりの話はそれぞれ違っていて、でも根っこのところにある重さは全部同じだった。
俺は毎晩、その日聞いた名前をもう一度書き直した。ただ書き直すだけでなく、その人がどんな人だったかを一行ずつ添えた。
マリア。十四歳。食卓でやかましかった子。
ターロ。二十二歳。結婚を控えていた。
エレン。四歳。まだ一人で歩けなかった。
書いていると、手が重くなる。
俺には返せるものが何もない。老女が言った通りだ。謝って済むなら、戦争なんか起きていない。俺の言葉がどれだけ丁寧でも、名前を書き留めても、その人たちは帰ってこない。
でも、聞かないよりはましだと思った。
名前を誰も知らないまま消えていくより、誰かが一度でも声にした方がいい。
四日目の朝、セルウィンが小部屋に来た。
査問官らしく書類を小脇に抱えていたが、普段より少し遅い足取りだった。
「君は、何をしている」
俺は手帳から顔を上げた。
「名前を集めています」
「それを査問会に持ち込むつもりか」
「まあ、聞いてから判断しようと思っています」
セルウィンが目を細めた。
「……何人分だ」
「カイルと合わせて七十四人分」
俺は束になった紙を見た。折りたたんで、机の上に置いてある。
「何のために」
俺は少し考えてから答えた。
「弔いのためです。正式な記録として、誰かが声に出して呼んだことにしたい。この査問会が終わった後も、名前が残るように」
セルウィンが長い間、俺を見ていた。
「……それは、弁明になるか?」
「なりません」
「では処分票には関係ない」
「直接は関係しません」
また沈黙があった。
セルウィンが書類を抱え直して、言った。
「明日の午前に一時間確保する。議長への申請は私がする」
俺は顔を上げた。
セルウィンはもう廊下に向かっていた。
「君の弁明ではない。記録としての申請だ。誤解するな」
そう言い残して、足音が遠ざかった。
俺は束になった紙を手に取った。七十四枚。ずっしりと、しかし静かに重かった。
翌朝、査問会の場は普段と違う空気があった。
傍聴席は満員だった。いつも通りの万余の市民だが、声が少なかった。開始前の雑談が消えていた。何かを待っている空気ではなく、何かを感じ取った空気、と言う方が近かった。
俺は壇上に立った。
隣にカイルがいた。無言で手帳を差し出してきたので、受け取った。
「読み上げます」
俺は集めた紙を開いた。
「戦争で失われた方々の、お名前と、どんな方だったかを。遺族の方から直接聞かせていただきました」
場がさらに静まった。
「マリア。十四歳。南部ガルウィン出身。食卓が賑やかな子だったそうです」
俺の声は、思ったより静かに出た。大声を出すつもりはなかった。でも傍聴席の奥まで届くよう、ゆっくり読んだ。
「ターロ。二十二歳。北部セルン農村出身。結婚を三週間後に控えていました」
誰も声を出さなかった。
「エレン。四歳。東部の宿場町ファール出身。その年の冬に、ようやく一人で歩けるようになったと、お父さんが話してくれました」
四歳。書く時に一番手が止まった名前だ。
「コス。三十五歳。中部リェナ出身の鍛冶師。鉄を打つのが好きで、自分で作った小刀を息子に渡したかったと、お母さんが話してくれました」
読み上げながら、俺は傍聴席を見なかった。
名前を見ていた。紙の上の名前を、一つひとつ、声に乗せていた。
「ファン。十八歳。南部グレン島出身の漁師見習い。朝が苦手で、よく寝坊したと妹さんが笑いながら話してくれました」
笑いながら、と書いた。妹は話しながら泣いていたが、「笑いながら」という言葉を使った。それが正しいと思ったので、そのまま書いた。
「ネア。六十二歳。王都近郊出身の行商人。五十年間、同じ街道を歩き続けていたそうです」
五十年。五十年間、道を歩き続けた人間が、突然いなくなる。
「ルーカ。二十八歳。東部出身の元王国兵。迷宮溢出の際、民を逃がした後に亡くなりました」
ざわり、と場が揺れた気がした。
俺は顔を上げなかった。
「ヨルン。四十一歳。中部出身の教師。子供に算術を教えていました。生徒が三十人いたと奥さんが話してくれました」
名前が続いた。
読み上げながら、俺は何も感じないようにしていた。感じていたら声がおかしくなる。でも「何も感じない」と「押し殺している」は違う。押し殺していた。声が揺れないよう、ただ読んだ。
「アーラ。九歳。南部出身。お母さんから聞きました。この子はいつも、扉をゆっくり開けていたそうです。壊さないように、と言いながら」
扉をゆっくり開ける九歳。俺はその子を知らない。これからも会えない。それでも、今こうして名前を声に出した。アーラという子がいた、と。この場所に、今日だけでも、残った。
カイルの手帳の分も、俺が読んだ。カイルは途中から壇の横に立って、俺の声を聞いていた。一度だけ目が合った時、カイルは何も言わなかった。ただ頷いた。
全部で七十四名。
最後の名前を読んだ後、俺は紙を置いた。
場は静かだった。
風が窓から少し入ってきて、紙の端を揺らした。
俺は言葉を足さなかった。
弁明でも、主張でも、そういうものを今ここに置きたくなかった。ただ名前があった。七十四人分の名前と、その人がどんな人だったかの短い言葉が、この空間に残った。
傍聴席が静まりかえる、という感覚は、人の気配がなくなることではない。逆だと思った。一人ひとりが、自分の胸の内側に集中している時の静けさだ。そこに三万人がいても、声がなくなる。
しばらく、誰も口を開かなかった。
セルウィンが書記席で書類を持ったまま動いていなかった。議長代理の席の男が、何かを言おうとして、止めているように見えた。
傍聴席の奥、遺族たちが固まっている区画から、わずかな泣き声が聞こえた。
カイルが静かに俺の隣に来た。
「集計が入った」
小声で言いながら、転送石を俺の前に置いた。光る文字が浮かぶ。
【査問集計:賛成57/反対39/保留31】
俺はその数字を見た。
七十四人分の名前の後に出た数字だ。票が動いた。七十四の名前が動かしたのかどうかは、俺には分からない。でも、確かに動いた。
「レン」
カイルが言った。
「遺族の区画から、一人出てきてる」
壇の方に向かってくる人影があった。老女だった。あの老女だ。
俺は壇から降りた。
老女は俺の前まで来て、立ち止まった。俺より小さな体で、背筋は真っ直ぐだった。
「……マリアの名前を、ちゃんと聞こえました」
「よかった」
老女がまた、わずかに目を細めた。
「あなたに一つ、聞いていいか」
「はい」
老女が口を開いた。
「失効まで四十日を切ったと聞きました。残り四十日で、あなたは——」
そこで老女は一度、言葉を切った。
目が、少し揺れた。
「……いや、聞き方が悪いな。あなたは、どうしたいのか」
俺は少し考えた。
老女は答えを急がなかった。
俺がやがて言い始めた時、廊下の扉が勢いよく開いた。
入ってきたのは連合の書記官だった。書類を手に、急いだ様子で壇に向かっていた。
カイルがそちらへ向かいながら、俺に視線を送ってきた。
書類が広げられる。
カイルの顔が、わずかに硬くなった。
「レン」
カイルが低い声で言った。
「オルディーン議長から、緊急の書状だ」
俺は老女に向き直った。
「すまない、少し待ってもらえますか」
老女が静かに頷いた。
俺はカイルの元へ向かいながら、手の中にある手帳を握り直した。七十四人の名前が、そこにある。
【共存協定 自動失効まで:あと40日】
カイルが書状を俺に渡した。
俺はそれを受け取って、開いた。
一行目を読んだ。
「……これは」
カイルが静かに言った。
「議長が、直接会いたいと——」
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
毎日昼・夜の2回更新中です。続きが気になったら、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。
もしこの話が面白かったら、☆評価をいただけると本当に助かります。
なろうの評価は日間・週間ランキングに直結するので、1クリックが「次の100話」を書く燃料になります。




