第234話「憎しみの旗を降ろす場所」
カイルが数字を読み上げたのは、朝飯を半分残したころだった。
「【査問集計:賛成58/反対25/保留44】。昨夜の採決直後と比べて、賛成が一票減った。保留は六票増えている」
宿の食卓。外からの朝の光が斜めに差し込んでいた。パンは固く、スープは冷めていた。それでも俺は食べた。腹が減ったまま動いても碌なことにならない、という習慣は長い旅で身についていた。
「昨夜から今朝で、それだけか」
「ああ。急には動かない」
「そうだな」
カイルは手元の記録用紙を畳んだ。向かいに座って、俺と同じものを食べている。表情には出さないが、疲れているのは分かった。昨夜の議事堂のことは、カイルにとっても衝撃だったはずだ。レイラが崩れ落ちる場面を、俺の隣で全部見ていた。
「セルウィンから今朝、通達があった」とカイルは言った。「午後の査問は予定通り行う。ただし——レイラの記録が公開されたことについては『個人の行動であり連合は関与していない』という声明を出す予定だ」
「連合は距離を置くわけか」
「庇うより切り捨てる方が楽だからな。査問でレイラの工作の話が出るたびに、『連合は無関係』で通すつもりだろう」
「それは好きにさせていい」と俺は言った。
カイルが少し顔を上げた。
「いいのか」
「連合が庇わないなら、遺族の方々はレイラの話を自分の言葉として受け取れる。連合の道具だったと分かれば、動員された怒りが何だったか、自分で整理しやすくなる」
「……そういうことか」
「まあ、そうなるかどうかは分からん。でも、そういう可能性がある」
パンを一口かじった。固い。歯が痛くなるほどではないが、ちゃんと噛まないと喉に詰まる硬さだった。こういう細かいことが、長い査問の中では妙に助かる。ゆっくり噛む時間が、考える時間になる。
「広場はどうなってる」と俺は聞いた。
「昨夜の解散後、ほとんどが戻ったが——今朝になって何人かがまだ周辺に残っていると報告が入ってる」
「喪章は」
カイルが少し間を置いた。
「外している者の方が多い。ただ、全員ではない」
喪章。遺族たちが腕につけていた黒い布の帯だった。「我々の家族を忘れるな」という意思表示として、レイラが推奨していたものだ。
「外した理由が、外せと言われたからなのか——それとも自分で決めたのか。どっちだと思う」
カイルは少し考えてから、答えた。
「両方だろう。でも、どちらかと言えば——外すことしかできなかった、じゃないか。自分で決めたというより、行き場を失って、それしかできなかった」
「うん」と俺は言った。「それを聞きに行こうと思う」
「広場に?」
「今から時間があるか」
「査問は午後からだ。ただ、先方も——」
「まあ、聞いてから判断しよう」
カイルが少し黙った。それからスープを一口飲んだ。
「分かった。案内する」
広場は、議事堂の東側に広がっていた。
石畳の広場で、平時には市場が立つらしかった。先週から遺族の抗議が続いたせいで、露天の台は全部端に寄せられていた。今日は何台かが元の位置に戻り始めていて、行商人が商品を並べ始めているところだった。ためらいながら元の日常に戻ろうとしているような、そういう光景だった。
「三人があそこに」とカイルが小声で言った。
広場の端、石段の近くに、老いた男と若い女と中年の男が並んで座っていた。会話はしていない。ただ、議事堂の方向を見ている。
腕に喪章はなかった。
俺はカイルに軽く頷いてから、一人で歩き出した。
昨夜の雨の跡が石畳に残っていた。日陰のあたりはまだ湿っている。砂が混じった石畳を踏む感触が足の裏に伝わってきた。靴底が薄くなっているから、よく分かる。長旅で何足か履き潰した。次の街で新しいものを買わないといけない、とぼんやり思った。
三人に近づくにつれて、顔が見えてきた。
眠れていない顔だった。
目の下が落ちて、肩の力が抜け切っている。疲弊しているが、眠れていない。大きな感情が行き場をなくしたとき、人間はああいう顔になる、と俺は思った。怒りとも悲しみとも違う——感情の空洞みたいなものが、顔の表面に出てくる。
中年の男が最初に気づいて、顔を上げた。
「何か用か」
声に刺はなかった。ただ、疲れていた。
「昨日、ここにいましたか」と俺は聞いた。
「いた」
「今日、ここにいる理由を聞かせてもらえますか」
男はしばらく考えてから、言った。
「分からん。だから、まだいる」
俺は少し迷ってから、三人の横の石段に腰を下ろした。立ったまま聞くより、座って聞いた方がいい。それは長い経験から分かっていた。
中年の男が少し驚いたように俺を見た。
「あんた——査問の人間か」
「違います。ただの旅人です」
「ただの旅人が、なんでここに」
「話を聞きたくて」
男はまた議事堂の方を向いた。しばらく、沈黙があった。若い女は俯いたままだった。老いた男は最初から何も言っていなかった。
「レイラさんが、辞めた」と中年の男がぽつりと言った。
「知っています」
「分からんのだ」男は石畳を見ながら言った。「俺たちはレイラさんに呼ばれて来た。あの人が話してくれた。あんたたちが魔物と手を結んで、戦争の犠牲者を踏みにじってる、と。そうじゃないと怒れなかったから——怒りに言葉をくれる人が必要だった。でも」
男は言葉を切った。
広場の向こうで行商人が声を上げた。荷物を運ぶ馬が蹄を鳴らした。普通の朝の音が、ここまで届いてくる。
「あの人が昨日、止めた。俺たちは何も聞かなかった。外にいたから、中で何があったかも分からない。でも朝になったら、喪章を外していた。外さないといけない気がして」
「外さないといけない、と思った理由は何ですか」
男は俺を見た。
「……分からん。なんとなく、そういう気がした。それだけだ」
「それで十分です」と俺は言った。
「何が十分なんだ」
「外そうと思った、ということが。誰かに言われたからじゃなく、自分でそう感じた。それは大事なことだと思います」
男はしばらく何も言わなかった。若い女がそっと顔を上げた。
「俺の兄は戦争で死んだ」と中年の男が言った。
俺は聞いた。
「あんたのせいじゃない。あの戦争のせいだ。でも——戦争が終わって、平和になって、兄の死が何だったのか分からなくなった。魔物と話して仲良くなるなら、最初から話してくれりゃよかった。なんであいつは死ななきゃいけなかったんだ」
「分からないです」と俺は言った。
男が俺を見た。
「分からないですが、あなたのお兄さんが死んだことは本当のことで、それは変わらない。俺には変えられない。俺にできるのは——話を聞くことだけです」
「話を聞いて、どうなる」
「どうなるかは、聞いてから判断しようと思っています」
男は俺を見た。それから若い女を見た。若い女が初めて顔を上げた。目が赤かった。泣いたのか、眠れなかったのか、両方なのか、分からなかった。
「俺の夫も死にました」と若い女は言った。「南部の村の出身で、徴兵されて、帰ってこなかった。結婚して半年でした」
「話を聞かせてもらえますか」と俺は言った。
午前中、俺は七人と話した。
全員に共通していたのは、「怒りをどこに向ければいいか分からなくなった」という感覚だった。
レイラがいる間は、向かう先があった。議事堂に向かって立っていれば、自分の怒りに意味があった。しかし今、方向を失った。旗を降ろしたのは、降ろしていいと思ったからではない。降ろすことしかできなかったから、降ろした。
怒りは消えていない。怒りの向かう場所がなくなっただけだ。
俺には怒りを消してやることも、新しい向かう先を作ってやることも、できない。できることは一つだけだった。
最後に話した年配の男に「ありがとうございました」と言って立ち上がったとき、男は少し間を置いてから、「……こちらこそ」と言った。小さな声だったが、確かにそう言った。
カイルが迎えに来たのは、日が中天を過ぎたころだった。
「そろそろ戻らないと。査問が始まる」
「分かった」
石畳を歩きながら、カイルが聞いた。
「何人と話した」
「七人」
「収穫は」
「みんな、話を聞いてほしかったんだと思う。ただ、聞いてくれる場所がなかった」
「レイラと、同じだな」とカイルが言った。
「似てると思う。レイラが動員できたのは、そこだったんだと思う。聞いてもらえない人間は、代わりに聞いてくれる声についていく。それが怒りの形を借りていても」
「じゃあ、これからも一人ずつ会いに行くのか」
「できるだけ」
「失効まで四十日を切ってる。票も、まだ二十票以上足りない」
「分かってる」と俺は言った。「でも、票を動かすためだけに会いに行くわけじゃない」
カイルが少し黙った。俺も何も言わなかった。石畳の日陰の部分を踏むたびに、昨夜の雨の冷たさが靴底を通って上がってきた。
「次は誰に会う」とカイルが聞いた。
「できるだけ全員に」
「無茶だ」
「そうかもしれない。でも、まあ——」
「聞いてから判断する、だろ」
カイルが先に言った。少し呆れたような、でも諦めたような声だった。
「そうだ」
議事堂に戻る道の途中に、細い通りがあった。
議事堂の裏手で、人通りが少ない。石段に苔が生えていて、日が当たらないから昨夜の雨の湿気がまだ残っていた。
そこに老女が一人、石段に座っていた。
七十を越えていると思った。髪が白く、背が小さく丸まっていた。膝の上に何かを抱えている。よく見ると、小さな布の人形だった。子供の手のひらに収まるくらいの大きさで、古びていた。長い間、大切にされてきたものの色をしていた。
老女が足音に気づいて顔を上げた。
目が、澄んでいた。疲れてはいるが、目だけは澄んでいた。
「あんたが、調停者の子かい」
「元門番です」と俺は答えた。
「同じことだろう」と老女は言った。どこか穏やかな声だった。「あの人から聞いたよ。レイラちゃんが、話を聞いてもらって——泣いたってね」
俺は立ち止まった。
「昨日のことを、知っていますか」
「外にいたから、中は見えなかった。でも、終わった後でレイラちゃんが出てきて、一言だけ言ってくれた。『話してきた』って」
「それだけですか」
「それだけ。でも顔が——七年ぶりに見る顔だった。七年前にしていた顔と、同じだった」
俺は少し立ち止まった。
「七年前の顔、というのは」
「泣いた後の顔だよ」と老女は言った。静かに、ただ事実として。「七年間、あの子は泣けなかった。ずっと怒ってた。怒ってないと崩れるから、怒り続けていた。昨日初めて、あの子が泣いたってことで——私も初めて、泣けた気がした」
「レイラさんをご存知なんですか」
「娘の同級生だよ。村が同じだった。エルリンの——」
老女の声が、一瞬だけ詰まった。
「エルリンの、子だ」
俺は動けなかった。
エルリン。
昨日、レイラが語った村の名前だった。魔王軍に焼かれた、南部の村。レイラが夫を失い、娘ルイナを失った。その村の名だった。
「あなたも——」
「そうだよ」と老女は言った。
声は静かだった。感情が枯れ切ってしまったような、そういう静けさだった。
「娘を失った。あのとき二十三だった。あの子には、お腹に三ヶ月の子がいた。生まれてくるはずだった子が——二人とも、帰ってこなかった」
俺は何も言えなかった。
石段の端に、ゆっくりと腰を下ろした。老女から少し離れた位置に。
細い通りの向こうから、ヴァリスの昼の音が聞こえてきた。市場の声、馬の蹄、子供の笑い声。生きている街の音が、ここまで届いてくる。
老女は膝の上の人形を、両手でそっと握り直した。
「七年間、ずっと聞いてやれなかった」と老女は言った。「レイラちゃんに。あの子が怒っているのは知ってた。でも私も怒ってたから、二人で怒ってたから、聞いてやれなかった。昨日初めて、あの子が泣いたってことで——私も初めて、泣けた気がした」
「泣けた」
「うん。七年ぶりに」
細い通りに風が吹いて、石段の湿気を運んでいった。俺は何も言わなかった。言える言葉が見当たらなかった。
老女が人形をじっと見た。長い間があった。
「あんたに話を聞いてもらったら——私も少し、楽になれるかい」
「分かりません」と俺は言った。「でも、聞かせてもらえますか。娘さんの話を」
老女が俺を見た。
澄んだ目が、少しだけ揺れた。
「……あの子の話を、聞いてくれるのかい」
【共存協定 自動失効まで:あと40日】
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