第233話「聞かれた後」
朝が来た。
前夜、議事堂の床に崩れ落ちたレイラ・ヴェイツが退場したのは、空の色が変わりかけた頃だった。介添えの女官二人に支えられ、足を引きずるようにして廊下の奥へ消えていく背中を、俺はただ見送るしかなかった。
声をかけることも、追いかけることも、しなかった。
聞くべきことは聞いた。
今それ以上をすれば、昨夜俺に差し出されたものを踏みにじることになる気がした。
宿に戻ったのは夜明け前だった。カイルはもう起きていて、小さなテーブルの前に座り、数字と格闘していた。
「眠れたか」と聞くと、「いいえ」と短く返ってきた。俺も同じだったから、それ以上は言わなかった。
二人で黙って座っていた。ヴァリスの街が動き始める音が、窓の外からゆっくりと届いてくる。市場の荷車の音、早朝に出かける職人の足音、水を汲みに行く子供の声。一晩中眠れなかったせいで、目の奥が鈍く痛んだ。
——ルイナは、どんな子でしたか。
昨夜、俺が問うた言葉が頭の中で反響していた。
レイラが答えた声も。七歳だった、と彼女は言った。走るのが好きで、よく転んで、でも泣かない子で——そこから先は、声にならなかった。声にならないまま、彼女は床に落ちた。七年間、誰にも言えなかった言葉が、あの議事堂の石畳に溶けていった。
俺にできたことは、そこにいることだけだった。
それで十分だったかどうかは、今もまだ分からない。
カイルが紙束を置いたのは、朝飯を済ませた後だった。パンを半分しか食えなかった。カイルも似たようなものだった。
「通知が来た」
声は平坦だったが、その言葉が意味することは分かった。
紙を手に取る。連合の公式書簡。差出人——「和解影響評価室、室長代行」。
「室長代行」と俺は繰り返した。
「レイラはもう室長じゃない」とカイルが言った。「自ら辞表を出したらしい。それだけじゃない。保管していた全記録——世論工作に使った資金の流れ、依頼主の名前、情報操作の手順書——全部、連合の監査部に持ち込んだ。今朝の早朝に」
俺は少し間を置いた。
「自分から」
「自分から」
カイルが繰り返した。「証拠書類と一緒に、短い添付書もあった。「私が行ったことの記録を、正しく残すために提出する」、と」
窓の外を見た。ヴァリスの朝の空は薄く晴れていた。
思っていたより、早かった。
昨夜レイラが崩れ落ちてから、夜が明けるまでの時間で、彼女は何かを決めた。その何かは俺には分からない。俺が押し付けたものではなく、あの石畳の上で、一人で決めたものだろう。
「ガレスには連絡したか」
「まだです」
「先に知らせてやれ。あの人が一番、気にしているはずだ」
査問会の廊下でセルウィンに会ったのは、午前の議事が始まる前だった。
彼はいつも通り書類を抱えていたが、歩く速度がわずかに遅かった。俺が近づいても立ち止まらず、ただ横目で確かめるように一瞥して、また前を向いた。
「……公開されたことは、知っている」
「そうですか」
「資金の流れが白日の下に出た以上、連合は対応しなければならない」声に感情はなかった。「君にとっては、望ましい展開だろう」
「そうは思っていません」
セルウィンが立ち止まった。
俺も止まった。廊下の石柱が日差しを切って、二人の間に縞模様の影を落としていた。
「彼女が自分でやったことです」と俺は言った。「俺がやらせたわけじゃない」
「それは分かっている」
「分かった上で、何が言いたいのですか」
セルウィンはしばらく黙った。書類を持ち直す音がした。
「……昨夜、俺も議事堂にいた」
それは知っていた。査問官は全員、傍聴することになっている。
「七年間、誰にも聞いてもらえなかった女が、初めて泣いた」彼は低い声で言った。「その相手が——君だった」
俺は何も言わなかった。
「それが気に食わない、とは言わない。ただ——」セルウィンが一瞬、言葉を止めた。顎を引いて、どこか遠くを見るような目をした。「腹が立つとか、悔しいとか、そういうことでもない。ただ……少し、分からなくなった。何が正しいのかを」
「それは、いつからですか」
「昨夜から、だ」と彼は言った。少し間があって、「……ずっと前から、かもしれない」と付け加えた。
その言葉を聞いて、俺は少し安心した。分からなくなっている人間は、まだ聞ける。
「昨日の書類が全部揃ったら、見せていただけますか」
「……査問の書類か」
「いいえ」と俺は言った。「レイラさんが提出した記録です。俺もちゃんと読みたい」
セルウィンは答えなかった。しかし立ち去りもしなかった。
しばらくして、「明日には手に入る」とだけ言って、歩き始めた。
レイラから連絡が来たのは、午後に入ってすぐだった。
「時間があれば、話したいことがある」
カイルに見せると「行くか」と問い返してきた。
「まあ、聞いてから判断しよう」
「それを言いたかっただけだろう」
「少しは」
連絡先にあった建物は、議事堂から三ブロック離れた事務棟だった。連合の下部組織が使う場所らしく、廊下は狭く、天井が低かった。案内された小部屋には窓が一つだけあり、外を向いて椅子に座っているレイラの後ろ姿があった。
俺が入ると、彼女は振り返らなかった。
「座ってください」
向かいの椅子に座った。テーブルに置かれた湯呑みから白い湯気が出ていた。
窓の外には雲が広がっていた。ヴァリスの街並みが遠く霞んで見えた。
「全部、提出しました」とレイラは言った。「資金の流れも、依頼の経緯も。何も残していない」
「知っています」
「あなたが頼んだわけじゃない」彼女は続けた。「でも、昨夜があったから——そうしようと思えた、ということは言っておく必要があると思って」
俺は黙って聞いた。
「あなたに感謝しているわけじゃない」彼女が言った。「七年間の怒りが、一夜で消えるわけがない。娘のことも、夫のことも——何一つ変わっていない。あなたがどれだけ誠実に聞いても、失ったものは戻らない」
「そうです」と俺は言った。
「……返せないと、言った」
「返せません。何一つ」
昨夜も言った言葉を、もう一度言った。言葉の意味は同じだが、今の方が少し重かった。昨夜は彼女の前で声を上げて語られた後だったから。それが重さの違いを生んでいた。
「でも、逃げなかった」レイラが言った。
「逃げられる理由がなかった」
「それだけですか」
少し考えた。
「それだけじゃない、かもしれない」と俺は言った。「あなたが七年間、一人で抱えていた話を——聞けた側の人間になりたかった、という気持ちもあった。それが俺の動機の全部じゃないが、一部だった」
レイラはしばらく黙った。
窓の外で鳥が鳴いた。遠くで馬車の車輪が石畳を鳴らした。
「あなたを許したわけじゃない」
彼女が静かに言った。怒りではなく、何かを確認するような声だった。
「分かっています」
「あの戦争を対話で終わらせたことで、私の怒りはずっとどこにも行けなかった。それはあなたのせいじゃないかもしれない。でも、そう感じていた事実は変わらない」
「変わらなくていい」と俺は言った。「それを変えてほしいと思って、昨夜聞いていたわけじゃない」
レイラが俺を見た。七年間の傷は目の下の疲れとして残っていたが、昨夜よりわずかに、輪郭が落ち着いていた。
「憎むのを、やめただけです」と彼女は言った。「憎み続けることに疲れた。ただ——それだけのことです」
俺は頷いた。
「……それで十分です」
「十分とは言っていない」レイラがすぐ言い返した。「それがどういうことかは、まだ自分でも分からない。整理が追いつかない。昨夜泣いたことも、今日記録を出したことも、自分でも理解できていない部分がある」
「無理に理解しなくていい」
「あなたはいつもそれを言う」彼女はどこか呆れたように言った。「「無理しなくていい」「変えなくていい」「怖いままでいい」——全部、やめさせない言葉だ」
「そうです」
「嫌味じゃないんですか、それは」
「嫌味のつもりはない」と俺は言った。「やめさせたいなら、俺は別の言葉を使う。でも昨夜、あなたが自分で決めた。俺がやめさせたんじゃない」
レイラは答えなかった。
湯呑みを両手で包むように持って、窓の外に視線を戻した。しばらく、雲の流れを見ていた。
「一つ確認させてください」と俺は言った。
彼女が軽く眉を上げた。
「これからも、査問に関わるつもりですか」
「……どういう意味ですか」
「昨日まで、あなたは処分推進の側にいた」と俺は言った。「今日、記録を提出した。それは立場が変わったということではなく、あなた自身が決めたことだと理解しています。その上で、これからをどうするつもりか——聞かせてもらえますか」
レイラはしばらく考えた。
「私が記録を提出したことで、組織的な扇動は止まる。でも遺族の感情は別です。動員した人々が、私の転向で怒りを向け直すかもしれない。その収拾も、私がやるべきことだと思っています」
「それは俺が決めることじゃない」
「分かっています」彼女は言った。「これはあなたへの配慮じゃない。自分のためです。七年間、怒りを燃やし続けるために人を使った。その人たちに、今度は自分の言葉で話しかける必要がある」
「その話を、もし聞いてほしいときがあれば」と俺は言った。「来てください」
「……必要になるかもしれません」
レイラは小さく息をついた。疲れた息だったが、前夜とは違う種類の疲れだった。
「一つだけ言っていいですか」と彼女が言った。
「どうぞ」
「——これは、和解じゃない」
彼女の目が俺を真正面から見た。七年分の傷が、まだそこにあった。消えてはいない。ただ、前夜とは違う場所にあった。
「停戦、です」
部屋の外から廊下を歩く足音が聞こえた。誰かが通り過ぎて、遠ざかった。
俺は頷いた。「分かりました」とだけ言った。
事務棟を出ると、カイルが廊下の端で待っていた。
「どうだった」
「話した」
「それだけか」
「それだけだ」
カイルは少し間を置いてから、懐から紙を取り出した。
【査問集計:賛成61/反対27/保留39】
【共存協定 自動失効まで:あと41日】
俺はその数字を見た。
昨夜の慟哭の後、今朝の公開——それが数字に出始めていた。賛成が下がっていた。でも過半数の64まで、まだ三票ある。逆流すれば、あっという間に戻る距離だ。
「微妙な位置だな」
「動いてはいる」とカイルが言った。「ただ遺族の怒りがどっちに向くかで、逆流する可能性もある。まだ分からない」
「まだ分からない、か」
「ああ。でも——」カイルが少し口をつぐんだ。「昨日まで見えなかった数字が、見えてきた気はする」
俺は紙をカイルに返した。
「ガレスに連絡したか」
「さっきした。驚いてた」
「そうか」
歩き出した。空は夕方に向かって色を変え始めていた。
レイラが言った言葉が、頭の中でもう一度鳴った。
——これは和解じゃない。停戦です。
和解と停戦は違う。停戦は、まだ戦いが終わっていないことを意味する。でも停戦は、話すための時間を生む。七年間、誰かと話せなかった人間が、初めて「まだ話す」という選択をした。
「カイル、明日の予定は」
「遺族の団体代表が面会を求めてきている。三グループ」
「会う」
「……全員か」
「まあ、聞いてから判断しよう」
カイルが小さく息をついた。呆れた息だったが、口の端が少しだけ動いていた。
「そう言うと思ってた」
夕暮れのヴァリスを、二人で歩いた。
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