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門番、魔王軍と交渉する〜ハズレジョブでも、話を聞く奴が世界を動かす〜  作者: ハル
門番、世界と話す

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232/286

第232話「慟哭」

「さあ、聞いてごらんなさい。聞けるものなら」


レイラ・ヴェイツがそう言ってから、たぶん五秒ほど経った。


議事堂の空気が凝固している。万余の市民が息を詰めて見ている。朝の光が高窓から斜めに差し込んで、彼女の輪郭を白く縁取った。


「和解影響評価室」室長。連合直属の公職者。失脚寸前の、処分を裏で煽り続けた人物。


それだけのことなら、俺はもっと身構えていたかもしれない。


でも彼女は今、裁きに来たわけでも弁明に来たわけでもなかった。俺が本当に聞けるのかどうか、見に来たのだと前の話で言っていた。


だから俺は答えた。


「聞きます」


一言だけ。


「……本当に?」


「どうぞ」


セルウィンが腕を組む気配がした。カイルが隣で通信石を握り直した音がした。ガレスが椅子の端に座り直した。


レイラは俺を見た。値踏みではなかった。測っていた。言葉の奥に何かがあるかどうかを、最後の一度、確認していた。


俺は何も言わなかった。言葉が必要なら出す。今はまだ必要ない。


彼女が口を開いた。



 



「村の名前は、エルリンといいます」


声が静かだった。七年間、審査書類を読み続けてきた声だった。感情の起伏を削ぎ落として磨き上げた、事務的な声。


「王国南部の、麦の産地でした。千二百人が住んでいた。川のそばに市場があって、毎週木曜日に立ちました。子供の頃から、その匂いが好きでした。干し果物と、日干しの藁と、馬の体温の匂い。今でも、似た匂いを嗅ぐたびに——」


一度止まった。


続けた。


「……夫はそこで鍛冶をしていました。寡黙な人でした。話すより手を動かす人でした。鍬と鎌を直すのが得意で、農繁期には朝から晩まで仕事が絶えなかった。そのせいで木曜の市には一度も来たことがなかった。私と娘だけで行くのが、毎週の習慣になっていました」


傍聴席が動かない。


「魔王軍が来たのは、三月でした。雪解けの少し前。先遣隊が通過したという報せが届いた翌朝、東の方角から煙が上がった。夫が見に行って、戻ってこなかった」


声に亀裂が入りかけた。すぐ閉じた。


「娘が七歳でした」


ここで彼女は止まった。


俺は何も言わなかった。


「名前は、ルイナといいます。赤い靴が好きな子で、木曜の市で売っている干し果物を毎週ねだっていた。笑うと目が細くなる子で、泣くときは声より先に眉が下がる子でした。夫に似ていた。口数が少ないのに、伝えたいことだけははっきり言う——そういう子でした」


また声が途切れた。


今度は少し長かった。


傍聴席が千人ぶんの息を飲んだまま静止していた。


「私は王都に出ていました。審査官の仕事で。連絡を受けて馬で走りました。王都からエルリンまで三日の距離を、二日と半分で走った。馬を二頭潰しました。それでも——」


レイラの喉が動いた。


「間に合いませんでした」



 



俺は聞いていた。


論破しようとは思っていなかった。慰めようとも思っていなかった。「でも、それは俺がやったわけじゃない」とも言いたくならなかった。


言いたくないというより、そういう気が起きなかった。


村の名前を言う声だった。夫の手つきを言う声だった。娘の靴を言う声だった。七年間、誰かに言いたかったのかもしれないし、誰にも言えなかっただけなのかもしれない。どちらでもよかった。今、俺に向けて言っている。それで十分だった。


「灰になっていました。市場も、川沿いの道も、木曜に立っていた屋台も。夫の仕事場も、炉もなにもかも。娘の赤い靴だけが、焦げた土の上に片方だけ残っていました」


セルウィンが何かを言いかけた気配がした。言わなかった。賢明だった。


「夫の骨を拾いました。娘の骨は——ルイナの骨は、見つかりませんでした。三日探しました。残った村人にも聞きました。見つけられなかった。だから今でも、あの子がどこにいるのか、わかりません。どこの土に混ざったのか、それとも——」


声が止まった。


また動いた。


「……和解が成立したと聞いたのは、翌年でした。『調停者レン・アシダが交渉し、人類と魔物の新しい時代が始まった』——そう書いてありました。私はその記事を三回読みました。一回目は、意味がわかりませんでした。二回目は、笑いました。三回目は、燃やしました」



 



「わかりますか」


レイラが俺を見た。


俺はうなずいた。


「わかる、じゃないんです。わかってほしいわけじゃないんです。私が聞いてほしいのは——」


声が揺れた。七年間揺れなかった声が、初めて揺れた。


「なぜ、あの子が死ななければいけなかったのかを、誰かに怒鳴りつけたかった。でも夫はいない。ルイナはいない。魔王軍は滅んだ。あなたが話し合って、向こうも悪かったことになって、平和が来て、終わった。私の怒りには——怒鳴りつける先が、もうない」


喉が詰まった音がした。


「あなたが調停したせいで、私はずっと——」


また途切れた。


「……誰かを怒鳴りつけることすら、できなくなった」


傍聴席で、声を殺して泣いている人間がいた。一人じゃなかった。


俺は泣かなかった。


泣いたら彼女の話が止まるかもしれなかった。それだけのことだった。


「私が世論を操作したのは、そういうことです。あなたを処分させたかった。あなたが平和を作ったということ——その話を、なかったことにしたかった。平和なんてなければよかったと、ずっと思っていた。あの子が死んだことに意味があってほしかった。意味がなければ、私は——」


両脚が少し揺れた。


俺は立ち上がりかけた。やめた。立ち上がって近づいたら、七年間誰にも言えなかった話が、途中で消えるかもしれなかった。


座ったまま、聞いていた。


「意味がなければ、私は、何のために生きてきたかわからない」



 



沈黙があった。


長い沈黙だった。議事堂の外で風が吹く音がした。どこかの代表が小さく息を吐いた。セルウィンが椅子の背にもたれかかる気配がした。


レイラは俯いたまま、両手を膝の前で組んでいた。肩が少し震えていた。


俺はまだ何も言っていなかった。


言えることがあるとも思えなかった。ルイナを返すことはできない。エルリンを元に戻すことはできない。木曜の市場も、川沿いの道も、赤い靴も、もうない。


俺が交渉して平和を作ったこと——その事実は変わらない。変えられない。


ただ、それでも。


「……続きが、あれば」


俺は言った。


レイラが顔を上げた。


「続き、聞かせてもらえますか。まだあれば」


彼女の目が赤かった。七年間泣かなかった人の目が、初めて赤くなっていた。


「……ルイナは、どんな子でしたか」



 



崩れた。


声が崩れた、というより、彼女そのものが崩れた。


膝が折れて、床に片手をついた。もう片方の手が口を塞いだ。それでも塞ぎきれなかった嗚咽が、指の隙間から漏れた。


議事堂の空気が変わった。


万余の市民が息を飲んだのが、音でわかった。


セルウィンが「議事を——」と言いかけた。言いきれなかった。場の空気が許さなかった。


ガレスが低い声で「……静かにしてやれ」と言った。


レイラは泣いていた。声を上げて泣いていた。七年間ぶんの泣き声が、全部一度に出てくるような泣き方だった。


俺は動かなかった。席を立って近づくことも、声をかけることも、しなかった。ただ聞いていた。泣き声も、嗚咽も、床に手をついた音も、全部聞いていた。


どれくらい経ったのかわからなかった。長かった。でも短くも感じた。


彼女が顔を上げたとき、頬が濡れていた。乱れた髪が額に貼り付いていた。七年間積み上げてきた「感情を削ぎ落とした官吏」という鎧が、全部なくなっていた。


「……私は」


声がかすれていた。


「あなたが憎い。今でも憎い。それは変わらない」


「わかりました」


「……憎みながら、でも——」


唇が震えた。


「……でも」


もう一度、目から涙がこぼれた。


それでも、絞り出した。


「……もう少しだけ、聞いて——判断させて」



 



議事堂が静止した。


俺の口から言葉が出る前に、肺が動かなくなった。


「まあ、聞いてから判断しよう」——俺が七年間言い続けてきた言葉の欠片が、彼女の口から出てきた。形は違う。でも同じものだった。


違いが一つだけあった。


俺がそれを言うとき、聞く相手に向けて言う。


彼女がそれを言ったとき、聞いてほしいと願いながら言った。


俺はずっと「聞く側」だと思っていた。


違った。


話を聞いてほしい人間が、世界中にいた。ルイナの母親も、そのうちの一人だった。ただ、誰も聞いてくれなかった。七年間、誰も。


「……もちろんです」


俺はそれだけ言った。


レイラがまた俯いた。でも今度は違う俯き方だった。崩れた俯き方ではなく、何かが少しだけ軽くなったような俯き方だった。


しばらく、誰も何も言わなかった。


セルウィンが一度咳払いして、それからまた黙った。傍聴席のどこかで子供の泣き声がした。ガレスが静かに立ち上がって、議事堂の扉をわずかに開けた。風が入った。春の終わりの、少し暖かい風だった。


「私はずっと——」


レイラが顔を上げないまま言った。


「誰かに、こう言ってほしかった」


俺は聞いていた。


「『聞かせてほしい』と。それだけでよかった。それだけ言ってくれる人が——ずっと、いなかった」


【査問集計:賛成63/反対27/保留37】


カイルから数字が来た。まだ動いていなかった。でも動く、と思った。今日じゃないかもしれない。でもレイラが今日ここで言った言葉は、傍聴席の千人が聞いた。その千人が、またどこかで誰かに話す。


「まだ、ありますか」


俺は聞いた。


レイラが顔を上げた。少し驚いたような顔だった。


「続き。ルイナのこと」


彼女は俺を見た。長い間、見ていた。


それから、ゆっくりと口を開いた。


「……木曜の市場では、決まって私の手を引いて歩く子でした。干し果物を買ったら、一番大きいのを私に渡すんです。自分は二番目を選んで——」


声が、少しだけ温かくなった。


泣きながら、温かくなった。


俺は聞いていた。


【共存協定 自動失効まで:あと41日】

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