第229話「上手さを捨てる」
俺はレイラ・ヴェイツの手紙を、もう八十回は読み返していた。
六行。短い文章だ。それなのに封を開けるたびに、同じ場所で止まる。
「あなたの言葉は上手い。上手いから、信用できません」
上手い。
俺はずっと、それを武器だと思っていた。相手の言葉を受け取りやすいように整える。伝わりやすく、引っかかりなく。扉を開けるためには、まず扉に合った鍵を作らなければならない——そう信じてきた。それが俺のやり方だった。ゴブと初めて交渉したときも、カーラが助けを求めてきたときも、セルディンが「怖い」と白状したときも。
でもレイラの目には、その鍵の精巧さこそが疑いの根拠に見えた。
これほど丁寧に鍵を削れる者が、なぜ、という問いに変わった。
俺は机の上に白い紙を広げた。羽ペンにインクを浸して、それから動けなくなった。
何を書いても、上手くなる。
「レイラ様」と書いた瞬間から、もうそこに計算が入っている。敬称を使うことで距離を測ったように見える。「こんにちは」と書けば親しみを装っているように見える。何も書かなければ書かないで、それすら戦略に思われるかもしれない。どんな入り口を選んでも、選んだこと自体が技巧の証拠になる。
三行書いて丸めた。
また三行書いて丸めた。
窓の外に放り出した。宿の中庭に、白い紙が三枚積もっていた。
「……クソ」
声に出してから、少し笑えた。
「また書き直したのか」
カイルの声がした。
振り返ると、部屋の入り口に腕を組んで立っていた。眠そうな目をしているのに、気配を消して来るのはこいつの悪い癖だ。
「見てたのか」
「羊皮紙の音がうるさかった。何枚目だ」
答えたくなかったので、俺は黙って新しい紙を広げた。
「お前が書けないのは初めて見た」
カイルが部屋に入ってきた。椅子を引いて向かいに座る。無言でレイラの手紙を取り上げ、一度だけ読んだ。顎を引いて、うなずいた。
「上手いから、信用できない、か」
「そういうことだ」
「で、上手くない手紙はどうやって書く」
俺は黙った。
それが問題だった。上手くない手紙の書き方を、俺は知らない。考えれば考えるほど、上手くなる。上手くなることを意識すれば、その意識自体が上手さになる。呼吸を意識すると呼吸が乱れるのと同じだった。
カイルが机の上の羽ペンを取り上げた。インクをつけて、俺の紙に何か書く。
書いたのは一行だけだった。
「俺はお前に会ったとき、お前のことが嫌いだった」
俺は読んだ。
「……そうか」
「今でも微妙に嫌いだ。それはそれとして」と、カイルはペンを置いた。「これは上手いか?」
考えた。考えてから、首を振った。
「上手くない。でも本当のことだ」
「だろ」とカイルは言った。「お前は嘘をついたことはない、たぶん。ただ本当のことを、綺麗に包んで渡してきた。相手が傷つかないように、引っかからないように。レイラは包み紙を疑ってる。中身じゃなくて」
俺は机を見た。
「包まなければ……怪我をさせるかもしれない」
「かもしれない。でも、素手で受け取るかどうかは、向こうが決めることだ」
カイルが立ち上がった。
「俺は眠い。明日の集計もある。続きはお前がやれ」
扉が閉まる。部屋に静寂が戻った。
俺は白い紙を見た。カイルの書いた一行が、インクで滲まずくっきり残っている。
上手くない。整っていない。でも確かにそこにある。削られていない分、重さがあった。
夜が白み始めた頃、廊下で重い足音がした。ガレスだとわかった。
扉を開けると、鎧を脱いだガレスが廊下に立っていた。がっしりした体格のまま、宿衣を着ているのが少し奇妙に見えた。
「眠れないのか」
「体が慣れすぎていて、静かだと逆に目が覚える」とガレスは言った。「お前は?」
「書けなくていた」
「……レイラへの手紙か」
俺はうなずいた。ガレスに隠す理由もなかった。
この人は俺のために隊長職を失った。職だけじゃない。年金も、仲間からの信頼も。その代わりに得たのは、今こうして廊下で眠れない夜を過ごす立場だ。それでも後悔していないと言う。後悔していないのが本当だとわかる。目がそういう目をしていないから。
「俺は言葉が下手だ」とガレスは言った。「上手い言葉より、下手な言葉のほうが時々刺さる。なぜかはわからん」
「……なぜだと思う」
「削ってないからじゃないか」とガレスは少し考えてから言った。「上手い言葉は、相手が受け取れない部分を削ってある。だから滑らかに入る。でも削った部分に、本当のことが残ってたりする」
俺はガレスを見た。
言葉より剣で語ってきた人間だ。それでも、こういうことを知っていた。
「部下を失ったとき、俺は何も言えなかった」とガレスは続けた。「慰めの言葉を探した。でも見つからなかった。だから何も言わなかった。後になって、その家族から言われた。——何も言わずにいてくれて、よかったって」
俺は黙っていた。
「言葉が下手だから、何も言えなかっただけだ。それでも、それがよかったこともある」
ガレスが窓の外を見た。夜明け前の空が、少しだけ白くなっていた。
「俺には何もアドバイスできんがな。ただ……削らないほうがいい場合もある。それだけだ」
足音が遠ざかった。
俺は紙に向かった。
羽ペンを手に取った。インクをつけた。
技巧を捨てると決めた。相手の受け取りやすさを考えない。言葉を滑らかにしない。鍵の形を削らない。
ただ書く。ただ本当のことだけを、削らずに書く。
「レイラ・ヴェイツへ」
書いた。
「返事をくれてありがとうございました」
本当のことだから書けた。感謝は本物だった。
「俺はあなたの言葉を何度も読みました。上手いから信用できない、という言葉を」
「その通りだと思います」
「俺はずっと言葉を整えてきました。相手が受け取りやすいように。傷つかないように。扉を開けやすいように。それが正しいと信じていました」
「でも、あなたに対してそれをやろうとしたとき、できませんでした」
手を止めた。
ここが本当のことだから、書くのに時間がかかった。本当のことを書こうとすると、きれいにならない。書き直したくなる。書き直したくなること自体が、またあの癖だった。
書き直さないと決めた。
「あなたが失ったものを、俺は知りません。正確には知れません。村の名前も、家族の顔も、その後の三年間どんな夢を見たかも、知らない。知ったふりができません」
「だから、これだけ書きます」
「俺はあなたの話を聞きたいです。整理された話でなくていい。上手くまとめようとしない、という約束だけはできます。でも、聞かないよりは聞いたほうがいいと俺は思っています」
「来るかどうかは、あなたが決めてください。返事をくれなくても、明日また書きます」
「アシダ・レン」
書き終えた。
読み返した。
下手だ、と思った。整っていない。余計な言葉がある。もっと短くできる。もっと刺さる一文にまとめられる。
でも、削らなかった。
折りたたんで、封をした。
朝になったら、ガレスに渡す。
その日の査問は四十九日目だった。
カイルが朝の集計を持ってきた。顔が少し違った。普段より、かすかに何かを抑えている顔だった。
「転票が出た」
「どこが」
「リファールだ。昨夜、代表が単独で賛成から保留へ動かした。理由の説明なし。連合への事前連絡なし」
「そうか」
カイルが石板を俺の前に置いた。
【査問集計:賛成63/反対28/保留36】
63。
過半数は64。
あと一票。
俺はその数字を見ていた。何も言えなかった。一票。たった一票。三ヶ月かけて積み上げてきたものが、この一行の数字に収まっている。あと一票で処分執行の水準を割る。あと一票で何かが変わる。
でも一票は一票で、今日のところは63のままだ。
「……ここまで来たな」
「ああ」とカイルは言った。「でも64と63は違う。踏み越えたわけじゃない」
「わかってる」
「リファールが動いた理由を調べてる。連合からの圧力が弱まったとも考えられるし、単純に心変わりした可能性もある」
俺は窓の外を見た。
共存協定の失効まで、あと四十四日。
残り時間も、残り票も、どちらも少ない。でも少なくなっているということは、近づいているということでもあった。
「手紙は送れたか」とカイルが聞いた。
「朝に渡した」
「どんな手紙を書いた」
「下手な手紙を」
カイルが、少し間を置いた。
「……見せなかったな、今回は」
「見せたら直したくなる」
カイルが珍しく、短く笑った。笑ったかと思ったら、すぐ元の顔に戻った。
「そうか」
それだけ言って、カイルは集計の石板を持って出ていった。
午後の査問が終わった後、廊下でガレスに呼び止められた。
「手紙が戻ってきた」
俺は立ち止まった。
「受け取り拒否か」
「いや」とガレスは首を振った。「配達人が言うには——受け取った後で、少し経ってから、一枚だけ何か書いて返してきたそうだ」
俺の手に封書が渡った。
開けた。
中に入っていたのは、一行だけだった。
整った字ではなかった。丁寧に書こうとした跡があったが、書き直した痕跡もあった。削った跡が、紙の端にわずかに残っていた。
「——明日、来ます」
それだけだった。
俺は廊下で、その一行を何度も読んだ。
明日、来る。
上手い言葉ではなく、削らない言葉で書いた手紙が、彼女の何かに届いた。理由はわからない。整っていない文章が、整っていないまま、何かに引っかかったのかもしれない。
何かが変わるかもしれない。いや、変わらないかもしれない。
でも来る。
それだけが確かだった。
共存協定の失効まで、あと四十四日。
そして明日、俺はレイラの話を聞く。
カイルが遠くから「どうだった」と声をかけてきた。
俺は封書を折りたたんで、懐に入れた。
「——まあ、聞いてから判断しよう」
カイルが少し間を置いてから言った。
「……そのセリフ、この状況で使うのか」
「ダメか」
「ダメじゃないけど」とカイルはため息をついた。「何度聞いても、お前が言うと妙に腹が立つ。なんでかは知らんが」
「知ってる」と俺は言った。「俺も最初はそう思ってた」
「……は?」
俺は先に歩き出した。明日、レイラが来る。
【賛成63/共存協定 自動失効まで:あと44日】
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
毎日昼・夜の2回更新中です。続きが気になったら、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。
もしこの話が面白かったら、☆評価をいただけると本当に助かります。
なろうの評価は日間・週間ランキングに直結するので、1クリックが「次の100話」を書く燃料になります。




