第228話「手紙の返事」
羽ペンを握った瞬間、右手の中指が鈍く痛んだ。
ペンだこだ。二十日かけてできた小さな硬い瘤が、今朝はいつもより疼いた。書いた日数が皮膚に刻まれているようで、妙な実感がある。
書きかけの手紙を眺めた。
「レイラ・ヴェイツ殿」という書き出しの後、今日も十数行が並んでいる。整っている。消そうと思いながら最後まで書いて、また整った文章ができあがる。削る。書く。また削る。その繰り返しが二十日続いた。
二十一通目だ。
「また書いてるのか」
扉が開いて、カイルがパンと茶の盆を持って入ってきた。テーブルに盆を置き、俺の手紙をひとつ見て、何も言わずに向かいの椅子を引いた。
「ありがとう」
「礼はいい。食えよ。昨夜もまた食い忘れてたろ」
正しかった。昨夜は手紙を書いているうちに夕食の時間を失った。考え込んでいると体の感覚が薄くなる癖が昔からあって、空腹を感じるのは決まって後からだ。
茶をひとくち飲んだ。少し渋い。それでも体が温まった。
「今日も返事はなかったか」
「昨夜の時点ではない。ガレスに確認した」
「そうか」
カイルが自分のパンをちぎり始めた。しばらく黙っていたが、やがて言った。
「……二十日だ、レン」
声に何かが混じっていた。責めているわけではない。ただ心配しているのだ、と分かった。「普通の人間なら諦める。いや、普通かどうかは関係ない。お前以外の誰だって手を止けてる」
「まあ、聞いてから判断しよう。返事が来たとき」
カイルが短くため息をついた。
「それが来なかったら、どうする」
「来るまで書く」
「……そういうやつだったよな、お前は」
窓の外からヴァリスの朝の音が聞こえてきた。荷車の軋み。水売りの声。遠くで鳥が鳴いている。査問会が始まる第三刻まで、まだ少し時間があった。
パンをちぎりながら、二十日間に書いた手紙のことを考えた。最初の数通は「会いたくない理由を聞かせてほしい」という一点だけを、言葉を換えながら書き続けた。それが正直だと思っていた。六日目ごろから、それだけでは足りない気がしてきて、自分が何者か、なぜここにいるか、査問がどういう状況かを書き加えた。技巧を排そうとした。でも書き慣れているせいで、いつの間にか整ってしまう。削って、また整える。残ったものが手紙になって、ガレスのルートを通じてレイラのいる場所へ向かった。
届いているかどうかも、最初は分からなかった。
それでも書き続けたのは——届いていないとしても、書いた事実は残るからだ。書かれた言葉は、書かれた事実として存在する。俺がそれを確かめたかっただけかもしれない。
議事堂は今日も満席だった。
査問第四十六日目。今日はドラズ代表による追加陳述の日だ。先週「剣を鋤に打ち直しても採算が合うかもしれない」という話を持ち帰ったドラズのオレム代表が、ふっくらした体を演壇の前に運んできた。五十代の男で、いつも短く刈り込んだ顎髭をいじる癖がある。今日はその顎髭を一度だけいじって、止めた。何かを決めてきた人間の所作だ、と思った。
「鍛冶組合と協議した」とオレムが言った。「試算では——一定の条件下で、採算が合う」
傍聴席がざわついた。
「ただし」とオレムは続けた。「即座の転換は行わない。百年の技術を一夜で変えるのは、職人への侮辱だ」
「もちろんです」と俺は言った。「俺がお願いしたいのは、転換ではなく、可能性を閉じないでほしい、ということだけです。半年後でも一年後でも、扉が開いていれば十分です」
オレムが俺を見た。慎重な目だった。何かを確かめようとしている。
「……閉じないでいい。それだけか」
「それだけです」
しばらく、誰も何も言わなかった。
俺はそこで黙った。この場面は言葉を重ねてはいけない。オレムは今、自分の内側で何かを動かしている最中だ。余計な言葉はそれを止める。
オレムが顎髭を三回いじった。
「保留を維持する。ただし半年後に再交渉の機会を設けること。その時に最終判断を出す」
「承りました」
セルウィンが集計板に何かを記入した。後列でカイルが通信石を操作している。保留のままだが、閉じなかった。今日のところはそれで十分だった。
午後の休憩に、議事堂の裏手の中庭へ出た。植木が几帳面に刈り込まれた庭で、石のベンチに腰を下ろした。陽が強い。石畳が白く照らされている。
カイルからの通信が短く振動した。
【査問集計:賛成67/反対22/保留38】
先週より賛成が一つ減っていた。ゆっくりだが、動いている。
右手を開いて、指先を見た。ペンだこが陽の下で目立った。中指の第二関節の少し下。この二十日で作り上げた傷跡だ。
「アシダ殿」
声がして振り返ると、ガレスが立っていた。鎧はない。隊長職を解かれた後のガレスは、大きな体を少し縮めるようにして歩く。それを見るたびに、なんとなく胸が痛くなった。あの体格は誇るべきものだ。
「座ってくれ」
「いや、立ったままで」
ガレスが三歩近づいた。
「ルートから連絡がありました」
体が少し固まった。
「レイラ・ヴェイツからか」
「はい」
「……返事が来たのか」
「来ました」とガレスが言った。言いにくそうに、でもはっきりと。「短いです。一枚、半分以下の量しか書いていない」
「かまわない。今どこに」
「カイル殿に預けました。私は見ていません。封がしてあった」
「そうか」
俺は立ち上がった。脚が思ったより早く動いた。
「ありがとう、ガレス」
「読んでから礼を言ってください。良い内容とは限りません」
「分かってる」
カイルは二階の廊下の窓際にいた。
封書を手に持ったまま、開けずに立っていた。俺が来ると、何も言わずにそれを差し出した。
「さっき受け取った。開けてない」
「ありがとう」
封書は薄かった。一枚か、せいぜい二枚。紙質は連合の公文書に使われるものと同じだった。公式の便箋を私的な文書に使っている——公私の境界に、何らかの意図がある気がした。
封を切った。
一枚だった。
字は細かくて整っている。書き慣れた手の字だ。文書を長く扱ってきた人間の筆跡。六行だけ書いてあった。
俺は読んだ。
一度。
もう一度。
三度目を読んでいるとき、カイルが隣に来た。
「なんと書いてある」
俺は黙って手紙をカイルに渡した。
カイルが読んだ。眉が少し動いた。
「……上手い、か」
「上手いから信用できない、と書いてある」
「分かった、読んだ」カイルが手紙を返した。「これはどう受け取る」
俺はすぐには答えなかった。
窓から光が差し込んでいた。紙が白く光った。
レイラは正しいかもしれない、と俺は思った。
俺は言葉を選ぶ。相手が受け取りやすい形を、無意識に探す。それは癖だ。排そうとしても、整ってしまう。二十日分の手紙も全部そうだったはずだ。「ただ聞きたい」という事実だけを書こうとして、いつの間にか「伝わる文章」になっていた。
それが「上手さ」だ。
そして上手さは——レイラの言葉を使うなら——信用を損なう。
俺の最大の武器が、今度は俺の足を引いている。査問会でもそれが起きた。ガレスが証言したことで「この男は人の心を操る」と逆用された。同じ構造だ。言葉が上手いという事実そのものが、警戒される理由になる。
「届いていた」と俺は言った。
「え?」
「返事が来た、ということは二十日分全部読んでいた、ということだ。無視しようと思えばできた。でも返事を書いた」
カイルが少し考えた。
「……一票も動いていない相手が、手紙には返事を書く。その差は何だ」
「まだ分からない。でも」俺はペンだこの指を曲げた。「読んだ、ということは確かだ」
「これで諦めるつもりはないんだろうな」
「書き方を変える。上手さを捨てる方法を考える」
カイルが窓枠に腕をかけた。外を見ながら言った。
「お前が技巧を持たずに話したところを、俺は見たことがない」
「俺もない」
正直な答えだった。俺は物心ついた頃から言葉を選んでいる。選ぶことが習慣になっていて、選ばないでいられるかどうか、自分でも分からない。
ただ——分からないなら、試してみるしかない。それだけだ。
「持っておいてくれ」と俺は言って、手紙をカイルに戻した。「往復の記録として」
「証拠か」
「そういうものだ。彼女がいつか査問会に来ることになったとき、あるいは来なかったとしても——この手紙のやりとりは存在した、ということが残る」
カイルが封書を受け取った。
夕方が来ていた。窓から見えるヴァリスの街が橙色に染まっていた。議事堂の塔が長い影を落としている。遠くで鐘が鳴り始めた。
夜、部屋で手紙を書いた。
技巧を捨てるということを考えながら書いた。うまくしようとしない。伝わりやすい形を探さない。今ここにある事実を、事実のまま並べる。
書いた。整った。削った。また書いた。また整った。
何度削っても、俺の文章は整ってしまった。
削り続けて、最後に残ったのは三行だった。
「俺はあなたの話を聞きたいです。上手く聞こうとするのをやめます。ただ、聞きたいというだけです」
三行でもまだ整っている気がした。でも、これ以上削ると何も残らない。俺はそれをそのまま封に入れた。ペンだこが疼いた。今夜は一通しか書いていないのに、もう指が限界に近かった。
蠟燭の火を消す前に、レイラの六行をもう一度思い返した。
上手い。信用できない。
俺は二十日書き続けた。それを全部読んでくれた。それでも、信用はしていない。
当たり前だ、と俺は思った。
二十日の手紙で二十年の不信が消えるはずがない。でも俺は、二十年分を消そうとしているわけじゃない。ただ、次の一行を読んでもらいたいだけだ。
翌朝、通信石が振動した。
ガレスからだった。
「昨夜の手紙、今朝早くに届きました」
「そうか」
「それから——追加の伝言があります」
「聞かせてくれ」
ガレスが間を置いた。その間の長さが、何かを含んでいる気がした。
「直接の言葉ではなく、文書係を通した口頭伝達です。レイラ殿から」
俺は通信石を強く握った。指先が痛んだ。ペンだこの場所だ。
ガレスが続けた。
「——『言葉で人が救われるなら、私の家族は生きています』」
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