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門番、魔王軍と交渉する〜ハズレジョブでも、話を聞く奴が世界を動かす〜  作者: ハル
門番、世界と話す

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第227話「カイルの喪失」

夜は長い。


ヴァリスの宿の中庭は狭い。石畳が続いて、壁際に水鉢が一つ置いてある。それだけの場所だった。俺は椅子を持ち出して、そこに座った。


日が落ちてから、もう二時間は経つはずだった。遺族の顔が、まだ目の前に浮かんでいた。


四十代の男の言葉が耳の奥でくり返されていた。


——謝って済むなら、戦争なんか起きてない。


反論しようとは思っていなかった。あれは正しかった。俺が何かを間違えたわけじゃない。ただ、正しかった。だからこそ、どこにも行き場がなかった。


水鉢に月が映っていた。小さく揺れていた。風があるのかと思ったが、座ったときの振動が伝わっただけだった。揺れはすぐに落ち着いた。


「……ここにいたか」


声がした。振り返るとカイルが立っていた。上着を羽織っていなかった。懐から通信石を取り出していた。


「探した」


「悪い」


カイルは何も言わず、近くの段差に腰を下ろした。椅子を取りに戻る気配もなかった。石の硬さが気にならないのか、それともそれどころじゃなかったのか、見た目では判断できなかった。


「今日の分だ」


カイルが通信石の結果を転送してきた。


【査問集計:賛成68/反対22/保留37】

【共存協定 自動失効まで:あと45日】


数字を見た。動いていなかった。今日は遺族との対峙があり、その後も議事が続いたが、票は変わらなかった。


賛成68。あと六票。失効まで四十五日。


一票ずつ、と自分に言い聞かせた。それは正しかった。でも今夜だけは、その計算が遠かった。


しばらく、二人で水鉢の月を見ていた。


カイルが先に口を開いた。


「一つ、聞いてもいいか」


珍しい切り出し方だった。カイルは命令するように話すか、怒鳴るように話すか、どちらかだった。「聞いてもいいか」と確認するのは、覚えている限り初めてだった。


「まあ、聞いてから判断しよう」


カイルが短く笑った。


「……その言葉、昔は腹立たしかった。白々しいのに白々しくなかった。それが余計に」


「わかった。で、聞きたいことは何だ」


カイルが石の段差の上で膝を立てて、腕を組んだ。視線は水鉢に向いたままだった。


「今日、遺族の前でお前が「返せない」と言ったとき——俺は後ろに立っていて、昔のことを思い出した」



 



「昔、か」


「剣士の訓練を始めて、四年目のことだ。お前と同じ齢だった。十六」


カイルの声は静かだった。いつものぶっきらぼうさがなかった。


「一緒に組んでた奴がいた。名前はロッセ。同い年で、剣士志望だった。俺と同じようにランクを目指していた。第五迷宮に一緒に入ったことがある。公認前の探索だった」


「公認前、というのは」


「登録もしてない段階で勝手に入った。今思えば馬鹿な話だ。でも十六の頃は、そういうことをする」


カイルが少しだけ唇の端を下げた。苦い表情だった。


「三人で行った。俺がリーダー格で、ロッセともう一人と。第七層まで行って——そこでやられた」


俺は黙って聞いた。


「ロッセが死んだ。俺は助かった。もう一人も助かった。でも、ロッセだけが——」


カイルが言葉を止めた。


水鉢の月がわずかに揺れた。


「ロッセは、背が高かった。俺より頭一つ分。うまいこと口が回る奴で、遠征の帰り道にいつも妙に面白い話をした。腹が減っているのに、気がつくと笑っていた。そういう奴だった」


カイルの声に、少しだけ何かが混じった。懐かしさとも悔いとも取れる、判断がつかないものだった。


「俺が先に行ったからだ。そう思った。ロッセは俺の後ろにいた。もし順番が違えば——そういう計算が止まらなかった。当時の俺には、それしか考えられなかった」


「それを、誰かに話したか」


「話した。一緒に生き残ったもう一人に。そしたら「気にするな、お前のせいじゃない」と言われた」


「……嘘じゃないだろうが」


「そうだ。嘘じゃない。でも、それを聞きたかったわけじゃなかった」


カイルが腕を解いて、両手を膝の上に乗せた。大きな手だった。今は、何も持っていなかった。


「「気にするな」と言われると、気にしていることが許されない気がした。俺が感じていたものを、ただ外に出したかっただけだったのに——そのことに、当時は気がついていなかった」


「今は気がついてる」


「今はな」カイルが短く言った。「当時は「弱い」と思ってた。強い剣士が悔やむのは恥だと思ってた。だから誰にも言えなかった。言ったとしても「前を向け」と言われるのが目に見えていた。だから黙って、飲み込んだ」


「何年、黙ってたんだ」


カイルが少し考えるような間を置いた。


「四年だ。お前に会うまで」



 



俺は少し驚いた。


「俺に話したか、ロッセのことを」


「話してない。でも話してる最中に、頭の中でロッセのことを思い出していた」


カイルの目が、遠いところを見ていた。


「第七迷宮で返り討ちになって、情けなく助けを求めた夜だ。お前は別に得意げにしなかった。ただ「何があったか話せ」と言って、聞いた。それだけだった」


「それだけだったと思う」


「そのとき——なんか、軽くなった。ロッセのことも、込みで」


カイルの声は低く、静かだった。感情が乗っていないわけじゃなかった。ただ、感情が落ち着いた場所から話していた。


「「気にするな」と言われると、悔やむことが許されない気がした。でもお前はそういうことを言わなかった。ただ聞いた。だから俺は——悔やんでいいと思えた。ロッセが死んで、俺が生き残ったことを、悔やんでいいと思えた」


俺は何も言わなかった。何も言う必要がなかった。


「それから前に進めた。ロッセのことは今でも重い。重いままだ。でも「前を向け」の上で前を向くのと、「悔やんでいい」の上で前を向くのとは、違う。後者のほうが——ずっと楽だった」


カイルが息を一つ吐いた。長い息だった。


「だから今日、遺族の人たちの顔を見ていたとき——」


カイルが少し間を置いた。


「あの人たちが本当に聞いてほしかったことを、十年前に聞いてやれる誰かは、いたのか、と思った」



 



「いなかったんだろうな」


俺は静かに言った。


「おそらく、いなかった。「被害者」という括り方はあった。補償の制度はあった。でも、一人ひとりの言葉を聞いた人間が、いたかどうか」


カイルが頷いた。


「だから、あそこまで積み上がった」


「積み上がった、というのは」


「怒りだ」カイルが短く言った。「最初は「聞いてほしい」だったものが、聞いてもらえないまま十年残ると、別の形になる。あの男が言った言葉——「謝って済むなら戦争なんか起きてない」——あれは怒りだったが、もとを辿れば「誰かに話したかった」だったかもしれない」


「かもしれない、だが」


「そうだ。確かめようがない」カイルが俺を見た。「でもお前が今、レイラに手紙を書き続けているのは、同じ仮定を持ってるからじゃないのか」


俺は少し考えた。


「そうだと思う。レイラは十一年間、一人でやってきた。孤児救済の制度を作った。遺族の声を集めた。誰かに頼んでもらったわけじゃなく、自分でやるしかなかったから、やった。その人間が世論工作に手を出したとき——たぶん、誰かに聞いてもらいたかったものが、別の形になってると思う」


「……証拠はないな」


「ない」


「お前の勘か」


「俺の勘だ」


カイルが鼻で笑った。久しぶりに聞いた笑い方だった。


「お前の勘は、たいてい当たる。それが腹立たしい」


「そういうつもりじゃないが」


「わかってる」


カイルが石の段差の上で、少し前に倒した。両肘を膝に置く姿勢だった。


「俺に聞いてくれる人間がいなかったら——今でもロッセの名前を誰にも言えていなかったかもしれない。それが十年続いていたら、何かが変わっていたかもしれない。どこかに向けなきゃいけなくなっていたかもしれない」


俺は黙って聞いた。


「あの遺族も——十年前に、誰かが聞いていたら、違ったかもしれない」


「かもしれない、だ」


「そうだ」カイルが俺を見た。目が、落ち着いていた。「でも、それで「じゃあ仕方ない」にはならないだろ。お前は」


「ならない。だから今、書いてる」


しばらく、二人で黙っていた。


月が薄い雲に入って、水鉢の影が薄くなった。中庭が少し暗くなった。


カイルが立ち上がった。骨が鳴った。


「今日は休め。俺も休む。明日の査問集計はまた転送する」


「ああ」


「……一つだけ言う」


カイルが扉に手をかけながら、振り返らずに言った。


「レイラへの手紙、続けろ。届かなくても書くと言ったんだろ。それが「正しい決断を積み重ねる」ってやつだろ。ゴブが言っていた。お前の言葉だ、と」


「ゴブが言いふらしてるのか」


「そうだ。迷惑そうにするな」


カイルが扉を開けた。


「——それと、もう一つ」


止まった。扉に手をかけたまま、少しだけ振り返った。俺と視線が合った。


「レイラは……誰にも聞いてもらえなかった側だ。そっちから考えれば、答えが違ってくるかもしれない」


扉が閉まった。


俺は一人、中庭に残った。


カイルの言葉が、頭の中で静かに残っていた。


——誰にも聞いてもらえなかった側。


遺族の男の顔が浮かんだ。老女の「帰れ」が浮かんだ。そしてレイラの書面の一行が浮かんだ。


「あなたの言葉は上手い。上手いから、信用できません」


その言葉の裏に、何があったのか。


十一年、積み上がってきたものが、何だったのか。


俺は立ち上がって、椅子を持って宿の中に戻った。部屋の机の前に座った。紙を広げた。


技巧は要らない。事実だけ書く。


「会いたくない理由を、聞かせてほしい」という問いだけを送り続けることに意味があるかどうかは、今夜もわからなかった。でも書く。届かなくても書く。


カイルが四年かかったとしても、俺はまだその途中だ。


ペンを持った。


窓の外で、遠く風が鳴った。ヴァリスの夜は深かった。

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