第226話「返せないもの」
「聞いてどうする」
男の声は怒鳴り声ではなかった。
それが、かえって重かった。
議事堂前の石畳に、三十人ほどの遺族が立っていた。腕に巻いた喪の緑布が夕方の光を吸って、くすんで見えた。昨夜から一晩立ち続けた人々の表情には、疲労よりも深いものが積み重なっていた。怒りでも悲しみでもない——消耗とでも呼ぶしかないものが、それぞれの顔に静かに堆積していた。
男は四十代かそれより上に見えた。がっしりした体格をしていたが、両肩が少し落ちている。一日中重いものを担いでいた人間が、夜になって初めてそれをおろしたときの、あの落ち方だった。腕の緑布は、ほかの人よりも色が濃い。新しい。まだ洗っていない。
俺は一歩、前に出た。
「聞いてどうするか、とおっしゃっているんですよね」
「そうだ」
「答えてもいいですか」
「どうせ言い訳だろう」
「言い訳じゃないです」
男が薄く笑った。嘲りに近かったが、完全にそうではなかった。「じゃあ聞いてやろう」という投げやりさが、かろうじて残っていた。聞くことをやめていない人間の、最後の余白だった。
俺は数秒、黙った。
嘘をつくなら考える必要がない。うまいことを言うなら、もっと考えなくていい。でも本当のことを言おうとすると、言葉が重くなった。軽くしてから出せばいいのかもしれない。でも、それをする気になれなかった。
「返せません」
静かに言った。
「何一つ」
男が瞬きをした。長い間をおいて、「……何?」と言った。
「あなた方が失ったものを、俺は返せません。誰も返せないし、俺は特に返せない。三年前に戦争を言葉で終わらせたことが、後からあなたたちの喪失を変えることはない。そういう魔法は持っていません」
「……」
「謝罪も言いません。言えば楽になるのかもしれないけど、謝って何かが返ってくるようなものじゃないから、言う気になれない」
誰も喋らなかった。
石畳に立つ三十人が、ひとりひとり違う表情をしていた。目を見開いた者、首を少し傾けた者、口元を引き結んだ者、地面を見た者。共通していたのは、予想と違うものを見た人間の顔をしていたことだった。
言い訳が来ると思っていたのだろう。「平和のために」とか「未来のために」とか、大きな言葉が来ると。あるいは「でも魔物にも事情があって」という説明が来ると。
俺には、そういう言葉が出てこなかった。
「じゃあ」と、男とは別の声がした。
列の端に小柄な老女が立っていた。腕の緑布が何度も洗われてすこし色が褪せていた。長く使っている。
「聞いて、どうするつもりなんですか」
繰り返しの問いだったが、中身が違った。最初の男の「どうする」は刃だった。老女の「どうする」には、もう少し違う何かが混じっていた。諦めの手前にある、最後の問いのような色があった。
「聞かないよりはいい、と思っています」
「それだけか」
「それだけです」
老女が何かを言いかけて、やめた。隣に立っていた若い女性が老女の腕に手を添えた。その手にも緑布があった。母と娘か、姉妹か。家族で来ているのかもしれない。二枚の緑布が同じように色褪せていた。同じくらい長く、同じものを抱えてきた人たちだった。
俺は続けた。
「あなた方の話を聞いて、俺の処分が覆るかどうか、わかりません。俺を赦してほしいとも言いません。ただ——失ったものの名前を、俺は知らない。あなた方が知っていて、俺が知らないことが、ここにある。それだけは聞かせてもらえますか」
しばらくの間があった。
「……名前、か」と、誰かが呟いた。
列がわずかに揺れた。
揺れというのは言葉にしにくい動きだった。後ずさりでも前進でもなく、人が何かを感じたときに身体全体で行う微細な動作だった。列の端から端へ、波紋のようにそれが伝わった。
一人が目を伏せた。一人が唇をわずかに動かした。声は出なかったが、誰かの名前を呼んだのかもしれなかった。緑布を巻いた腕が、それぞれに違う速さで、ほんのすこし動いた。
俺はそれを見て、息を吸いそうになった。
これかもしれない、と思いかけた。
だが次の瞬間に、空気が変わった。
変えたのは、最初に口を開いた男だった。
「名前を知って、どうする」
声は静かだった。それでも刃だった。
俺は答えを持っていなかった。「記録する」と言えば冷たく聞こえる。「忘れない」と言えば嘘くさい。「供養になる」なんて言葉は口に出す前から自分でわかっていた——そんな言葉を受け取れる立場じゃない。受け取る権利を、俺はどこからも与えられていない。
「……正直に言うと、わからない」
「わからない、か」
「わからないで聞いて、意味があるとは思う。でも確かめようがないから、確かめようがないとしか言えない」
男がゆっくりと息を吐いた。
笑った。
今度の笑いは最初とは違った。苦さだけでできた笑いだった。
「あんたは正直だな」
「正直なだけじゃ駄目だっていうのは、わかってます」
「そうだ」
男は一歩、前に出た。俺と三歩分の距離になった。顔が少し近くなって、目の下の隈が見えた。昨夜から一睡もしていない目だった。
「あんたは話がうまいと思ってた。連合の奴らが怖がるのも、聞いたとき理解できた。ちゃんと聞いて、ちゃんと答えて、意味のないことを言わない」
「……」
「今もそうだ」と男は続けた。「言い訳せず、返せないと言う。謝罪もしない。大きい言葉も言わない」
「できるかどうかじゃなくて、それしかないから」
「同じことだ」
男は石畳を一度だけ見た。目地の模様を数えるように。それからゆっくりと俺に視線を戻した。
「あんたがどういう人間か、少しわかった気がする」
俺は何も言わなかった。
「だからこそ、言わなきゃいけない」
男の声が、低くなった。
「謝って済むなら——」
一度、止まった。
石畳の目地を見ていた。数秒の間だった。その間に、列の全員が静かになった。通りを歩いていた通行人が足を遅らせた。少し離れた場所からずっと見ていたカイルも、動かなかった。
男が顔を上げた。
「謝って済むなら、戦争なんか起きてない」
俺には、答えがなかった。
何一つ。
言えることが何もなかった。
言えないのに言葉を出すのは、この場ではできなかった。
男の言葉は正しかった。論理として正しいのではなく、経験として正しかった。謝罪で消えるものなら、そもそも謝罪が必要な出来事にはなっていない。「和解」という言葉が、失われた命を変えることはない。戦争の後に残るものは、言葉より先にそこにある。
そのことを、俺は頭では知っていた。
でも今、石畳の前に立ってみて初めて、それを体で知った。
知っている、と思っていたことが、全然知れていなかった。
俺は「そうですね」と言えなかった。「違います」とは言えなかった。「でも」も「だから」も、次に来る言葉がなかった。
ただ立っていた。
夕風が石畳を吹き抜けた。遺族の緑布がひらりと動いた。
どこかで鳥が鳴いた。
「もう帰れ」
老女が言った。攻撃的な声ではなかった。疲れ切った声だった。「これ以上ここにいると、こっちが辛い」という意味に聞こえた。
俺は一歩引いた。
「明日も来ます」
「来なくていい」
「それでも来ます」
老女が俺を見た。長い間だった。何かを探るような目だった。探して、何を見つけたかはわからなかった。
「……勝手にしなさい」
それだけ言って、老女は列に戻った。
男はもう俺を見ていなかった。石畳の先を見ていた。何もない方向を。
俺は頭を下げて、その場を離れた。
議事堂の裏手の通路で、カイルが待っていた。
壁に背を預けて腕を組んでいた。
「全部聞こえてた」と俺が着くより先に、彼が言った。
「そうか」
しばらく、どちらも黙った。
「どうだ」と俺が言った。
「どう、とは」
「うまくいったか、失敗したか」
カイルが組んでいた腕を解いて、壁から体を離した。
「どちらでもない、と思う。ただ」
「ただ?」
「あの男は——お前をちゃんと見ていた。帰り際に、俺はお前じゃなくてあの男の顔を見ていたんだが」
「それで」
「悔しそうだった」
俺は少し考えた。
「悔しそう」
「そうだ。怒っているんじゃなく、悔しそうだった。やっつけられなかった、という意味の悔しさじゃなく——違う種類の悔しさに見えた」
「どういう種類だ」
カイルが天井を見上げた。夕暮れが青から橙に変わりつつある空だった。
「わからん。でも——嫌いな相手が、思ったより正直だったときの顔に見えた。俺も昔、似たような顔をお前にしたことがある気がする」
それ以上の言葉が出ないようだった。
俺も、それ以上は聞かなかった。
「査問の票は」
「動いてない」とカイルが通信石を確認した。
【査問集計:賛成68/反対21/保留10】
「明日の査問で、セルウィンが今日の広場のことを使ってくる」
「わかってる」と俺は言った。「来るなら来ればいい」
「準備はあるか」
「ない」
カイルが低く息を吐いた。「……正直だな」と言った。
「正直なだけじゃ駄目だっていうのは、わかってる」
「さっきも同じことを言ってた」
「同じことしか言えない場面が続いている」
カイルが腕を組み直した。しばらく考えるような間があった。
「一つだけ確認していいか」
「何を」
カイルが俺を見た。
「お前は——今日、何かを得たか」
さっきと似た問いだったが、少し違った。
俺は考えた。
「返せないものが、返せないと体でわかった」
「頭じゃなく」
「ああ」
「……それが今日の収穫か」
「そうだ」
カイルが黙った。
「明日も行くのか。広場に」
「ああ」
「断られた」
「それでも行く」
カイルが小さく何かを言った。聞き取れなかった。「呆れた」というようなことだったかもしれない。それから「まあ」と言いかけて、止まった。
「……お前が行くなら、俺は票の集計をまた確認しておく。使えるものがあれば渡す」
「ありがとう」
「礼はいい。ただ——」
カイルが、珍しく言葉を探すような間を置いた。
「無駄にするなよ。あそこに立っていた人たちの話を」
俺は頷いた。
「する気はない」
夜、宿に戻ってから机に向かった。
レイラへの手紙ではなかった。
今日広場で聞いたことを、書き留めるためだった。
男の言葉を書いた。老女の言葉を書いた。緑布のことを書いた。列が揺れたことを書いた。揺れが止まって、空気が変わったことを書いた。男が石畳を一度見てから顔を上げたことを書いた。
書きながら、「返せない」という言葉の重さを、もう一度測った。
返せないものは、返せない。
それは三年前から知っていた。知っている、と思っていた。
でも今日初めて、体が覚えた。
頭で知っていることと、体で知っていることは違う。
もしかしたら、あの遺族たちは、そのことを毎日体で知っていたのかもしれない。頭でわかっていながら、体で知り続けることの重さを、毎朝起きるたびに更新し続けていたのかもしれない。
俺はペンを置いた。
まあ、聞いてから判断しよう。
でも聞くためには、まず聞ける場所にいなければいけない。あの男は、投げやりながらも「じゃあ聞いてやろう」と言った。老女は「勝手にしなさい」と言いながら、「来るな」という言葉を最後まで断言しなかった。
それだけで、今日はいいとした。
窓の外、広場の方角に篝火の明かりが見えた。遺族たちはまだそこにいた。
【査問集計:賛成68/反対21/保留10】
共存協定 自動失効まで:あと38日。
俺は窓を閉めずに、机に戻った。
翌朝、議事堂の廊下でセルウィンとすれ違った。
「昨日の広場のことは報告を受けた」
立ち止まらずに彼は言った。俺も足を止めなかった。
「謝罪を遺族に拒否された。今日の査問で取り上げる」
「どうぞ」
「取り上げられて困らないのか」
「困ります」
「困るのに、構わないのか」
俺は一歩だけ足を遅らせた。セルウィンが同じように足を遅らせた。並んで歩く形になった。
「あの人たちの言っていることは正しいから、困ることに文句は言えない」
「それで、査問では何を返すつもりだ」
「返せるものがあれば返したい。ないものは返せない。それだけです」
セルウィンが足を止めた。
俺も止まった。
廊下の真ん中で、向き合った。
セルウィンの目が、いつもと少し違う表情をしていた。分析しているのではなく、何かを確認しているような目だった。
「君は——昨日の広場で、何かが変わったか」
「返せないことが、体でわかった」
「……頭ではわかっていたのか」
「わかっているつもりでいた」
セルウィンが短く、ほとんど音のない息を吐いた。
「君のような人間は、久しぶりに見た」
何を指しているのか、聞かなかった。
聞かなくてもよかった。
「行きましょう」と俺は言った。
セルウィンは何も言わずに、同じ方向へ歩き始めた。
廊下の向こうから、査問会の開場を告げる鐘の音が聞こえてきた。
男の声がまだ耳に残っていた。
「謝って済むなら、戦争なんか起きてない」
そうだ。
そして俺は今日も、その先に向かって立つ。
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