第225話「遺族という壁」
---
朝、議事堂前の広場に足を踏み入れると、彼らはすでにそこにいた。
三十人ほど。
老いた女が数人、中年の男が十数人、それから——まだ子供に近い若者も数人混じっていた。横断幕はない。旗もない。昨夜のように「答えろ、レン・アシダ」の文字も見えなかった。ただ、静かに立っていた。
査問会の入口から向かいの噴水台まで、二列に並んでいる。
皆が同じ色の布を腕に巻いていた。草を染めたような、くすんだ緑。
喪の色か、と俺は思った。この国の。あるいは遺族として認められた者が腕に巻く、何かの印か。
どちらにせよ、声もなく立ち並ぶ三十人の前を通るのは、なかなかのものだった。
俺が前を歩くと、視線がついてきた。
刃のように鋭い、というのとも違う。熱くも冷たくもない。ただ重い。石のような、長い時間をかけて固まった目だった。
「……」
通り過ぎながら、俺は何も言えなかった。
おはようございます、と言えばいいのか。それとも黙って通り抜けるのが正しいのか。判断する間もなく、体が前へ進んでいた。
「アシダ殿」
背後でカイルが小声で言った。
「昨日の夕方からいるらしい。夜通し立ってたと衛兵が言ってた」
「……」
夜通し。
査問会が終わって、宿に戻って、俺が手紙を書いている間ずっと、外でこの人たちが立ち続けていたことになる。
「行くぞ」
カイルが先に歩き出した。
俺は踵を返す前に、もう一度だけ後ろを振り向いた。
列の端に立つ老女と、目が合った。
七十近いか。背が低く、腰が少し曲がっている。だが目は真っ直ぐだった。俺を正面から見ていた。
どちらも、目をそらさなかった。
それだけで、俺は何かを感じた。怒りではない。悲しみとも少し違う。もっと古いもの——長い時間をかけて積み重なってきた、諦めに似た何かだった。
議事堂の扉が、後ろで閉まった。
査問三十八日目が始まった。
「——バルナ代表、昨日のお話の続きをお聞かせいただけますか」
傍聴席は昨日より多い。二階の回廊まで人が詰めていた。広場の遺族のことが噂になったのか、あるいはバルナ代表の言いかけた話が広まったのか、判断はつかなかった。
バルナの代表、アシャ・コルは細い体を椅子の背もたれに預けたまま、少しだけ俺を見た。
それから傍聴席を見た。
最後に手元の書類を見た。
「続けていいですか」と彼女は言った。「先に確認させてください。連合の記録に残りますね」
「残ります」とセルウィンが答えた。「査問の発言はすべて議事録に記録されます」
「なら話します」
アシャ・コルは姿勢を正した。背筋が伸びた。細い体に、芯が通った。
「昨日申し上げかけたのですが、連合本部から書簡が届いています。バルナが保留票を維持した場合、来年度の農業補助金の交付を停止する、という通告でした」
傍聴席がざわめいた。
セルウィンが「それは——」と言いかけて、止まった。
俺は彼の顔を見た。止まった理由は、否定できないからだと思った。
「小国というのはそういうものです」とアシャ・コルは続けた。「大国の顔色ひとつで冬を越せなくなる村が出る。それは政治というより、ただの事実です。——アシダ殿、これについてどう答えますか」
俺はすぐには答えなかった。
答えを探していた、というより、正直に言えることを探していた。
「補助金を取り返す力は、今の俺には持っていません」と俺は言った。「それを約束することはできない」
「では——」
「ただ」と俺は続けた。「あなたが今、それを言った。ここで言った。傍聴席の全員と、各国の代表全員が聞きました。書記が記録しました。それはもう、なかったことにはできない」
アシャ・コルは少しの間だけ黙っていた。
それから、書記の方を向いた。
「記録してください」と彼女は言った。「バルナ代表アシャ・コルは、補助金停止の通告を受けた上で、本日をもって保留票を維持することを表明します。脅しに屈した記録を歴史に残したくない、というのがその理由です」
傍聴席が静まり返った。
セルウィンは何も言わなかった。
カイルが俺の横で、通信石を滑らせてきた。石の表面に文字が浮かんでいる。
【査問集計:賛成68/反対20/保留9】
失効まで、四十七日。
数字はひとつだけ動いていた。バルナは反対には回れなかった。でも保留を守った。小国が持てる限界を、彼女は正直に言葉にした。それで十分だと、俺は思う。
「次の方を」
セルウィンが声を出した。平静な声だったが、いつもより低かった。何かを押し殺しているように聞こえた。
俺は視線を前に戻した。でも窓の外に見える広場のことが、頭から消えなかった。
昼の休憩になった。
廊下の長椅子に座ると、石畳が冷たかった。議事堂の中は昼になっても薄暗い。外の光が窓から細く差し込んでいるだけだった。
「手紙の件」とカイルが言って、隣に座った。「配達ルートを見つけた。レイラの私邸に届く荷物を扱っている業者がいる。そこに頼めば明後日には届く」
「助かる」
「中身は決まったか」
「昨日書いた」
「何て書いた」
「「会いたくない理由を、聞かせてもらえませんか。返事はいつでもいい」。それだけ」
カイルは少し黙った。
「……短いな」
「上手いことを書こうとすると、計算が見える。計算が見えると、信用されない」と俺は言った。「上手さを捨てたら二行になった」
「それで届くと思うか」
「届かなくても書く。書いた、という事実は残る」
カイルはしばらく何も言わなかった。
窓の外では、広場がのぞいていた。
遺族たちはまだそこにいた。交代で座っているのか、人数は変わっていなかった。腕の緑の布が、風に揺れていた。
「——あの中に」と俺は言った。「話を聞かせてくれる人間がいるかもしれない」
カイルが俺の横顔を見た。
「行くつもりか」
「昼の間なら査問会はない」
「一人でか」
俺は立ち上がった。
「お前が一緒だと、査問側の人間を連れてきた、になる。一人の方がまだわからない」
カイルは何かを言いかけて、やめた。やめた、というより——俺がそう判断したなら止めない、という顔になった。
「気をつけろよ」
「まあ、聞いてから判断しよう」
俺は廊下を歩き出した。
広場の石畳は、昼の日差しで温まっていた。
俺が外に出ると、遺族たちの視線が一斉に集まった。
今度は、近い。
さっきは通り過ぎた。今は、向かって歩いていた。
十歩ほどの距離で立ち止まった。
「俺はレン・アシダです」と言った。「査問を受けている人間です。話を聞かせてもらえませんか」
沈黙。
風が吹いた。緑の布がはためいた。
誰も動かなかった。
誰も答えなかった。
ただ、見ていた。
一番手前にいた中年の男が、俺を真っ直ぐ見た。眉の間に深い皺が刻まれていた。怒りかと思ったが、違った。疲れだ。十年以上かけて積み重なった、骨の中まで染みた疲れだった。
「……聞いて、どうする」と男は言った。
「すぐにどうにかできないかもしれません。でも聞かないと、あなたたちのことが俺には分からない」
「分かって、どうする」
俺はすぐに答えなかった。
どうする、という問いに、正直に言えることがなかった。分かれば次の手が見えるかもしれない。でも「見える」とも言えない。
「すぐには答えられません」と俺は言った。「でも聞かないよりは、聞いた方がいいと思っています」
男は短く鼻を鳴らした。
馬鹿にした音ではなかった。どこか疲れた、悲しい音だった。
「お前が聞いたって、誰も戻らない」
「そうです」
「何も変わらない」
「すぐには変わらないかもしれない」
「すぐには——」と男は言った。声が少しだけ大きくなった。「すぐには、じゃない。永遠に変わらない。俺の息子は二十二だった。魔物に殺されて、もう七年だ。七年は、どこに行った。お前が平和を作ったって、七年は戻らない。息子は戻らない」
俺は動けなかった。
返す言葉を探した。
出てこなかった。
七年間、息子のいない暮らしを続けてきた。その七年に、俺は何も言えない。正しいことも、間違ったことも。「でも和解はよかった」とも言えない。「すみませんでした」とも言えない。どちらも嘘になる気がした。
俺はただ、男を見続けた。
男もまだ俺を見ていた。
その目に、刃はなかった。ただ、深かった。長い時間が沈んでいた。
どのくらいそうしていたか——足音が聞こえた。
列の端から、ゆっくり歩いてくる人間がいた。
老女だった。
朝、目が合った人間。背が低い。腰が曲がっている。でも歩き方だけは真っ直ぐだった。石畳の上をゆっくり、一歩ずつ確かめるように歩いてきた。
俺の正面で止まった。
距離は一メートルほど。
老女は俺を下から見上げた。しばらく、そのまま黙っていた。品定めの目ではなかった。何かを確かめようとしている目だった。俺の顔の、どこかを。
「レン・アシダさん」と彼女は言った。
「はい」
「あんたが交渉したんだね。魔物と」
「そうです」
「和解、させたんだね」
「させたというより——話を聞いてもらえる場所を、作った、と思っています」
老女は頷かなかった。
俺の言葉を、ゆっくりと消化しているようだった。
「うちの娘はね」と彼女は言った。声は震えていなかった。「十一年前に死にました。戦争で。溢出じゃない、戦争で。魔物に殺されました」
「……」
「兵隊でもなかった。農家の娘でした。二十歳でした」
二十歳、と俺は頭の中で繰り返した。
今の俺と、一つ違いだ。この査問が終わる頃、俺は二十一になる。
老女の娘は、そこで止まった。
「十一年間」と老女は続けた。「娘を亡くした理由が、魔物だった。魔物は怖いもので、悪いもので、だから娘が死んだ。そう思うことが、娘の死の意味だった。それだけが、意味だった」
風が吹いた。
老女の白い髪が揺れた。
「あんたが現れた。魔物と話した。魔物は悪くなかった、という話になった。じゃあうちの娘は——」
老女の声が、そこで一度止まった。
やっと、俺に向けていた視線が少し落ちた。石畳の上の何かを探すように動いた。
でも、すぐに戻ってきた。
俺を、また真っ直ぐ見た。
「娘の死は、何だったんだい」
俺は何も言えなかった。
答えがある問いではなかった。答えを出してはいけない問いでもあった。「意味があった」とも「意味はなかった」とも、どちらも俺が言う言葉ではない。
広場の遺族たちが、静かにこちらを見ていた。
誰も動かなかった。
「あんたは聞く人間なんだろう」と老女は言った。声は静かなままだった。「聞いてから判断する、そういう人間なんだろう」
彼女はもう一歩だけ、俺に近づいた。
目が、すぐそこにあった。深い皺の中に、十一年分のものが詰まっていた。
「あんたの平和は、うちの子を返してくれるのかい」
石畳の上に、俺の影だけが伸びていた。
遺族たちの緑の布が、また風に揺れた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
毎日昼・夜の2回更新中です。続きが気になったら、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。
もしこの話が面白かったら、☆評価をいただけると本当に助かります。
なろうの評価は日間・週間ランキングに直結するので、1クリックが「次の100話」を書く燃料になります。




