第224話「届かなくても、書く」
「答えろ、レン・アシダ」
宿の三階から見下ろすと、広場に篝火が揺れていた。
横断幕を持つ人の数は、夜半を過ぎても減らない。怒鳴り声はない。叫び声もない。ただ静かに立っている。その静かさが、かえって重く胸に刺さった。
篝火は三つ。遺族の数は、ざっと二十人ほど。老いた男の人が一人、横断幕の支柱を地面に立てて両手で支えている。風は止んでいる。横断幕は動かない。重力だけに従って、まっすぐ垂れていた。
「寝ないのか」
背後でガレスが言った。鎧を脱いだ姿で、壁にもたれかかっている。隊長職を解任されてからも、この男は俺から離れない。意地なのか義務感なのか、俺には分からないが、そういうことは聞かないと決めていた——今はまだ。
「眠れないんじゃなくて、眠る気がしない」
「同じことだ」
「違う」俺は言った。「眠れないのは、どうしようもないことだ。眠る気がしないのは、まだ何かできると思ってる証拠だ」
ガレスが少し黙った。それから「俺にはわからん、その理屈が」と言う。
「俺もよく分からない」
俺は認めた。窓の外に視線を戻す。
篝火の一つが風もないのに揺れた。炎がしぼんで、また戻る。遺族の中に老いた女性がいた。腰を曲げて、でも真っすぐ立っている。その腰の具合が、長く立ち続けてきた時間を見せていた。昼間、査問会の外でこちらを見ていた女性と同じかもしれない。この距離では確認できない。
「あの人たちに、何が言えるんだ」とガレスが聞く。
「今夜は、何も言えない」
ガレスが少し息を吐いた。
「……珍しく正直だな」
「いつも正直だ」
「そうは思わないが」
俺は窓に額を押しつけた。ガラスが冷たかった。夏の終わり、夜風は止んでいるのに、首都ヴァリスの夜はどこか底冷えする。
「ガレス」
「何だ」
「あなたが失った部下は、何人でしたか」
長い沈黙が来た。
「……二十三人だ」
「名前を、全員覚えていますか」
「ああ」
「それだけでいい、今夜は」
ガレスが何も言わなかった。俺も何も言わなかった。篝火が揺れる。広場に立つ人たちの影が、石畳に長く伸びている。
あの人たちも一人ずつ、失った人の名前を持っている。俺が今夜できることは、それを確認しておくことだけだ。
翌朝、カイルが差し入れた羊皮紙の束を前にして、俺は考えた。
正直に言うと、手紙を書いたことがほとんどない。前世の記憶は薄いが、電子的な何かで文字を打っていたような気がする。ペンを持って、誰かに手紙を書くということが、こんなに難しいとは思わなかった。
何を書けばいい。
怒っているか。怒っていない。
会いたいか。会いたい。
何を伝えたいか——それが分からない。
出来事を書いても仕方がない。レイラはすでに知っている。俺の立場を説明しても意味がない。彼女はすでに評価を決めている。「あなたの言葉は上手い。上手いから、信用できません」と書いてきた。
じゃあ、上手くない言葉を書けばいい。
でも「上手くない言葉を書こう」と考えた時点で、それはもう計算だ。
どうすれば上手くなくなるか——を考えている俺は、すでに上手くあろうとしている。
この堂々巡りに昨夜から入っていた。
カイルが部屋に入ってきた。俺が白紙の羊皮紙を見ているのを確認して、一瞬だけ複雑な顔をした。
「何通目だ」
「一通も書いてない」
「……昨夜から考えてたんじゃないのか」
「考えてた。でも何を書けばいいか分からなかった」
カイルが椅子を引いて、向かいに座った。羽根ペンが一本、テーブルに転がっている。カイルがそれを立てて、俺の方へ押した。
「届かないぞ、どうせ。連合のルートは全部押さえてある」
「届かなくても、書く」
俺は自然にそう言った。言ってから、あ、そういうことか、と思った。
届かなくていいという話ではない。届かないかもしれないが、それでも書く。書いた言葉は、書かれた事実として存在する。読まれなかったとしても、書かれなければその可能性ごと消えていた。
俺がここに来た理由も、最初は似たようなものだった。変わるかどうか分からない。でも聞かなければ、何も変わらない。
「……お前、正気か」
カイルが言う。呆れている。
「そうは思わない」と俺は笑った。「でも、やれることをやるしかない」
「やれることが他にないのか」
「今は、これしかない」
カイルが少しの間黙った。窓の外で、広場の片付けをしている音が聞こえる。遺族の人たちは朝になって引き上げたようだった。夜通し立っていたのだろうか。石畳に篝火の跡が黒く残っているのが、ここから見える。
「票は今どんな状況だ」と俺は聞いた。
カイルが端末を確認する。
「昨日から一票動いた。バルナが保留に移った。でも連合側が昨夜、バルナの宿に使者を出した形跡がある」
「入れ知恵、か」
「多分。気をつけろとは言うが——」
「まあ、聞いてから判断しよう」
カイルが苦い顔をした。
「お前は本当に懲りないな」
「懲りる必要がない。俺の方が得してる」
「どこが」
「一回多く聞いた分だけ、分かることが増える」
カイルが何か言いかけて、やめた。俺はペンを持った。羊皮紙を引き寄せる。
技巧は要らない。装飾も要らない。上手くなろうとするのをやめる。それだけだ。
「レイラ・ヴェイツ様へ」
最初の一行を書いた。
手が止まる。
次の行を、何度か書きかけて消した。説明から始めようとすると、すぐに上手くなろうとする自分が出てくる。弁明は要らない。経緯も要らない。ただ一つだけ、書きたいことがある。
「あなたが会いたくない理由を、聞かせてもらえませんか」
それだけ書いて、ペンを置いた。
カイルが覗き込んで、二行だけの手紙を見た。
「……それだけか」
「今日はそれだけだ」
「何を伝えたいんだ」
「まだ分からない。でも、聞きたいということは伝えられる」
「……わかった」カイルが立ち上がった。「届ける方法を考える。伝手を探してみる」
「ありがとう」
カイルが扉に向かった。途中で振り返る。
「レン」
「何だ」
「お前……手紙を書いたことがないだろ。字が、下手だぞ」
俺は少しの間返事をしなかった。
「届けばいいんだ」
査問会三十七日目は、午前から空気が重かった。
傍聴席の端に、昨夜広場に立っていた遺族の何人かが座っていた。横断幕はない。腕を組んで、黙って見ている。その視線が、俺の首の後ろにずっとある感じがした。抗議でも糾弾でもなく、ただ見ている。その方が、怒鳴られるより重い。
バルナ代表のアシャ・コルが向かいに座った。
四十代の後半で、外交歴は二十年以上ある。昨日の査問会でバルナは「保留を維持」のまま終わった。「もう少し考えさせてほしい」という言葉の裏に、何かが残っている気がした。
「昨日の続きを、聞かせてください」
俺は言った。
アシャ・コルは少し黙ってから言った。
「私が保留にしているのは、判断できないからではありません」
「では、なぜですか」
「賛成も反対も、今の連合の状況では何かに使われる。どちらに投票しても、誰かの道具になる感じがして、腹が立っています」
道具、という言葉が、妙にリアルだった。
「バルナは、今どうしたいんですか」俺は聞いた。「連合に関係なく、あなた自身が」
アシャ・コルが眉を動かした。
「……珍しい聞き方ですね。代表としてではなく、個人に聞くんですか」
「代表としてのあなたは、連合の空気に縛られている。でも、個人としてのあなたは何かを感じているはずです」
少しの間、静かだった。
セルウィンが横から「これは査問会の手続きに則った——」と口を挟もうとした。カイルが事前に確保した「非公式対話の時間」というフォーマットで押さえてあったので、セルウィンは半歩引いた。不満そうな顔をしている。
「……個人として言えば」アシャ・コルが静かに続けた。「あなたが脅威かどうかより、あなたが今ここでやっていることの方が、ずっと面白い」
俺は返事をしなかった。
「一国ずつ、一人ずつ話を聞いていく。そんな方法で、世界が変わると信じているんですか」
「変わるかどうかは分からない」と俺は言った。「でも、変わったことは何度かあった」
「それは、偶然ではないですか」
「かもしれない。でも偶然でも、聞かなければ起きなかった」
アシャ・コルが少しの間、俺を見た。
それから「保留を維持します」と言った。
「……反対にはしないのですか」
「まだ、決めかねています」
「それでいいです」俺は言った。「決めかねているのは、まだ聞いている途中だということです」
アシャ・コルが小さく笑った。傍聴席から、遺族の誰かが息を飲む気配がした。笑いが場違いに聞こえたのかもしれない。でも笑いではなく、何かが緩んだ音だと俺は思った。
「……あなたは、面白い人ですね、レン・アシダ」
「そういう評価は珍しいです」
「怖いと言われることの方が多いでしょう。でも私には、面白く見えています」
俺が返事を探しているうちに、アシャ・コルは椅子を引いて立ち上がった。
「明日、もう一度来ます」
それだけ言って、去った。
セルウィンが俺の近くに来た。
「保留のままでは意味がない。あなたの手法は人を揺さぶるが、決断させない」
「揺さぶられた人間は、自分で決断する。その方が長持ちする」
「長持ち」とセルウィンが繰り返した。「査問には期日がある。長持ちより速度が要る」
「あなたも焦っているんですか」
セルウィンが一瞬だけ表情を変えた。それから「私の仕事は、査問の公正性を担保することだ」と言った。
「それは知っています」と俺は言った。「あなたが公正でいようとしていることも」
「……私を買いかぶらないでほしい」
セルウィンが低く言って、席に戻った。
その背中を少しの間、俺は見た。
レイラの件について、「来られるはずがない」と言ったとき——驚きではなく、確認の顔をしていた。カイルがそう読んだ。俺も同じ印象を受けた。
知っていて、黙っていた。それはなぜか。
まだ分からない。でも聞かないと、分からないままだ。
夕刻、カイルが宿に戻ってきた。顔が疲れている。目の下がわずかに暗い。昨夜あまり眠れなかったのだろう。それでも端末を手放していない。
「どうだった」
俺が聞くと、カイルは椅子に腰を落として言った。
「連合の内部に、レイラに繋がるルートは三つあった。全部、今日の午後に遮断されていた」
「遮断された、というのは」
「情報が漏れていた。あるいは、連合側がこちらの動きを把握して先手を打った。どちらにしても、連合を経由した正規ルートはもう使えない」
「……速いな」
「向こうも、必死だ」
ガレスが腕を組んで言った。
「一つある。俺のルートだ」
俺とカイルが振り向く。
「遺族の補償制度を作ったのはレイラだ。あの制度で、俺の部下の遺族の何人かが助かった。直接の繋がりはないが、制度で救われた人間に伝手がある。連合のルートを使わなければ、届くかもしれない」
「動いてくれるか」
「連合には頭を下げたくないが」ガレスが立ち上がった。「この手紙なら動ける」
手紙を受け取ったガレスが、封を確認してから言った。
「……二行しかないのか」
「今日はそれだけだ」
「これで、届くか」
「届かなくても、届けることに意味がある」
ガレスが少しの間黙った。
「……お前が言うと、妙に説得力がある」
「気のせいだ」
「そうは思わないが」
ガレスが部屋を出た。足音が廊下に消えて、遠くなる。
静かになった部屋で、俺は窓の外を見た。夕陽が連合議事堂の尖塔に当たって赤くなっている。その赤が少しずつ、暗くなっていく。あの建物の中のどこかに、レイラ・ヴェイツはいる。いるはずだ。
カイルが端末を取り出して、集計を転送した。
静かな通知音。
俺はその画面を見た。
【査問集計:賛成68/反対32/保留27】
【共存協定 自動失効まで:あと49日】
賛成68。
64を割るまで、まだ四票いる。
四票が、今の俺には大きい。
「……手紙が届けば、何かが変わるか」カイルが聞いた。
「分からない」
「分からないのに、書いたのか」
俺は羊皮紙の束を見た。テーブルの上には、まだ白紙が残っている。
「聞かないと損だから、書く」
「……それ、聞くの話じゃないか」
「書くのも、聞くための準備だ」
カイルが少しの間考えた。
「明日も書くのか」
「書く」
「返事が来なくても」
「返事が来なくても」
夕陽がさらに落ちていく。議事堂の尖塔の赤が、もうほとんど残っていない。
「カイル」
「何だ」
「レイラは、手紙を読むと思うか」
カイルが少しの間考えた。本当に考えている顔だった。
「……捨てると思う」
「だろうな」
「でも、読まないとは言ってない」
俺は少し顔を上げた。
カイルの顔を見た。疲れている。目の下が暗い。それでも、目は動いている。
「お前、たまにいいことを言うな」
「たまに、は余計だ」
新しい羊皮紙を引き寄せた。ペンを持つ。明日の分を、今夜書く。
届かないかもしれない。読まれないかもしれない。捨てられるかもしれない。
それでも書く。書かれた言葉は存在する。書かれなければ、その可能性ごと消える。
「読まないとは言ってない」か。
この男は、意外とよく聞いている。俺がここで続けている理由を、多分一番近くで見ている。そのくせ、ぶっきらぼうにしか言えない。それがカイル・ベルグという人間だ。
ペンが羊皮紙に触れた。
昨日より少し、長い手紙になる。
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