第223話「呼び出しの拒否」
ガレスが「怒れない相手に、どう向き合うか」と聞いたのは、査問会が始まる三時間前だった。
俺はその問いに、しばらく何も言えなかった。
憎める相手なら楽だ。悪意のある嘘をついている人間なら、事実で返せばいい。打算だけで動いている者なら、別の打算を見せればいい。だがレイラ・ヴェイツは、そのどちらでもなかった。
十一年前の戦で村を失った。父を失った。補償を三度、却下された。そうして自分で制度を作った。誰かに助けてもらうことを諦めて、自分の手で仕組みを変えてきた女だ。
「向き合うしかない、んだろうな」
俺はそう答えた。
「それは分かってる」とガレスが言った。「どうやって、と聞いてる」
「聞きに行く」
「拒否されたら?」
俺は少し考えた。「もう一回、聞きに行く」
ガレスが長い息を吐いた。呆れているのか、納得しているのか、俺には分からなかった。ただ彼は「お前は馬鹿だな」とだけ言って、窓の外に目を向けた。朝の光の中で、議事堂の屋根が薄青く霞んでいた。
「馬鹿で助かる」と俺は言った。
ガレスは返事をしなかった。だが口元が、わずかに動いた。
查問会の第三十六日目は、異様な静けさで始まった。
傍聴席には昨日より多くの顔が並んでいた。市民だけではない。連合所属の各国代表団の随員、記録係、それから名前も立場も俺には分からない人間たちが、壁際に立って議事の流れを見ていた。昨日の証拠提出がどこまで広まったのか、目に見えるようだった。
セルウィンが壇上に立ち、形式的な開幕宣言をした。
「本日の議題に入る前に、昨日の証拠提出に関する経緯確認を行う」
声は平静だった。だが昨日より固い。言葉の選び方が、どこか慎重に絞られていた。
「和解影響評価室の業務内容と、提出された文書との関連性について——」
説明は丁寧で、感情がなかった。まるで自分が無関係な事案を報告しているような喋り方だった。カイルが隣でこっそり耳打ちしてくる。
「顔色が悪い。昨日より」
俺も同じことを思っていた。
説明が終わると、傍聴席から声が上がった。小国連合の代表の一人だった。立ち上がり方に迷いがなかったから、あらかじめ考えていたのだと分かった。
「室長レイラ・ヴェイツを本査問会に召喚することを求める」
場が動いた。
賛同の声が、いくつかの席から上がった。珍しかった。これまで查問会は、俺を断罪するか無罪とするかの二択の空間だった。それが今日は、別の誰かへの視線が生まれていた。その変化が、俺には不思議な感触だった。
セルウィンが手を上げて場を静めた。
「召喚の要求は手続き上、査問委員会に持ち込まれる。本日中に委員会で審議し、結果を明日の冒頭に報告する」
それ以上は言わなかった。
俺は何も言わなかった。
今日、声を上げるべき場面じゃないと思ったからだ。いくつかの代表が意見を言いたそうにしていたが、セルウィンが議事を先へ進めた。俺は流れに乗って、その日の対話の相手——遠北の漁業国バルナの代表——と向き合った。
バルナの代表は年配の女性で、最初から俺を見ようとしなかった。視線をずっと膝の上の書類に落としたまま、短く答えるだけだった。外見には疲労が出ていた。遠い国から長旅をしてきたのだろうと思った。
「なぜ賛成されているんですか」と俺は聞いた。
「連合の方針に従っています」
「連合の方針は、賛成することだと?」
「……そう聞いています」
「直接、誰かにそう言われましたか」
長い間があった。窓から差し込む光が、テーブルの木目に細い筋を作っていた。
「書面が来ました」と彼女は言った。「和解影響評価室から」
俺はその名前を聞いて、少しだけ間を置いた。
「その書面には、なんと書いてありましたか」
「……各国代表は人類の安全保障の観点から慎重な判断を求められる、と」
婉曲な表現だ。命令ではなく、圧力の形をとっている。
「その書面が来る前は、どう思っていましたか」と俺は聞いた。
「……保留していました」
「なぜ保留に?」
彼女がようやく俺を見た。長い旅路を感じさせる目をしていた。疲れているが、観察する力が残っている目だ。
「あなたが、何者なのか分からなかったから」
「今は分かりますか」
「……まだ、分かりません」と彼女は言った。「でも——怪物ではないとは思っています」
「それで十分です」と俺は言った。「まあ、聞いてから判断しようという気持ちで、今日の話を聞いてもらえますか」
バルナの代表が、初めて小さく頷いた。
その頷きに、強がりはなかった。
その日の午後、書面が届いた。
查問委員会から連合の「和解影響評価室」へ送られた召喚状への、レイラ・ヴェイツ名義の返答だった。カイルが受け取って、俺に手渡した。彼の顔色を見れば、内容の大体は分かった。
俺は椅子に腰を下ろして、書面を広げた。
文字は整っていた。感情を感じさせない、公文書の形式で書かれていた。段落ごとに論点が整理され、反論を許さない構造になっていた。文書を書き慣れている人間の文章だと分かった。
最後の段落まで読んで、俺はそこだけ、もう一度読み返した。
「私は本査問会において、裁く側でも裁かれる側でもありません。私は連合直属の記録係として、事実に基づいた情報管理を行ってきたにすぎません。よって出頭の要求に応じる義務はなく、また応じることが適切であるとも判断しておりません」
俺は書面をテーブルに置いた。
「記録係、か」
「実質的な権限を持つ室長が「記録係」と言い張れるんだな」とカイルが言った。不満そうだったが、驚いてはいなかった。
「想定内だろ」
「お前はそうかもしれない」
ガレスが書面を覗き込んで、一言だけ言った。「賢い女だ」
俺も同じことを思った。
レイラ・ヴェイツは姿を見せない。名前はある。存在は知られている。だが「公式な立場での出頭義務なし」という論理で壁を作っている。出頭すれば、話を聞かれる立場になる。聞かれれば、内面を晒す場面が来るかもしれない。
彼女は、それを恐れている。
そう思ったとき、俺は少し立ち止まった。
恐れている。
つまり——まだ、何かある。
「続きがあるか?」とカイルが聞いた。
俺は書面の最後の一行を読み上げた。
「会って話すことに、意味があるとは思いません」
カイルが黙った。ガレスも何も言わなかった。
しばらくの間、部屋に静寂があった。外を鳥が一羽、横切っていく影が窓に映った。
「次の手は」とカイルが聞いた。
「考えてる」と俺は答えた。
夜になって、外の通りに変化が起きていた。
俺たちが借りている宿の窓から見ると、議事堂の前の広場に人が集まり始めていた。昨日より多い。夜の時間に人が集まる場所ではなかった。カイルが下に行って様子を見てきた。
戻ってきた彼の顔が、思ったより真剣だった。
「遺族の会だ」
「レイラが動員していた?」
「分からない。でも今日の書面の話を聞いて、自分たちで来たらしい。横断幕がある」
「何と書いてある」
カイルが答えた。「「答えろ、レン・アシダ」だ」
俺はしばらく、その言葉を口の中で繰り返した。
「答えろ、か」
「お前を責めてる」とカイルが言った。「あの人たちにとっては、処分を求めるのは当然の話だ。それをレイラが煽ったとしても、怒りそのものは本物だ」
俺は分かっていた。
広場に集まった人々の中に、戦争で誰かを失った人間がいる。その人たちにとって、俺は——魔王軍との交渉を「あの戦争を終わらせた」ことにした一連の出来事に関わった人間だ。家族の死を、終戦の文脈の中に置かれた人たちだ。そのことへの怒りは、論理で消せるものじゃない。
だからこそレイラは、彼女たちを動かせた。
怒れない、と朝にガレスに言った。
夜になっても、それは変わらなかった。
「今夜、出ていくか」と俺は言った。
「今夜じゃない」とカイルが即答した。「感情が高ぶってる場所に一人で出ていくのは、収拾がつかなくなる。レイラへの風当たりが強まってる今、あそこで何かあれば、また「脅威が人心を操った」に使われる」
「分かった」
俺は窓から外を見た。横断幕の文字は、夜の中ではよく読めなかった。ただ、多くの人間がそこにいることは分かった。立っているだけで、声を上げているわけでもない人間が多かった。
ガレスが俺の隣に来て、同じ窓を見た。
「十一年前も、こういう顔をした群衆がいた」と彼が言った。「ただし俺たちを英雄と呼んでいた。今はお前を呼んでいる。方向が違うだけで、声の出し方は同じだ」
「群衆の話じゃない」と俺は言った。「一人ひとりの話だ」
「……そうか」とガレスが言った。「お前にはそう見えるのか」
「そう見ないと、怒れない相手に向き合えない」
ガレスが長い間を置いてから、静かに頷いた。異論ではなく、何かを受け取るときの頷き方だった。
俺はテーブルの引き出しから、白紙を一枚取り出した。
「手紙を書く」
「レイラに?」とガレスが聞いた。
「ああ」
「受け取ってもらえると思うか」
「分からない」と俺は答えた。「届かなくても、書く」
ガレスが鼻で笑った。出会ったころより、少し柔らかくなっている笑い方だった。
「馬鹿だな、本当に」
「馬鹿で生きてきた」
俺は書面をもう一度手に取った。
「会って話すことに、意味があるとは思いません」
その一文を、三度目に読んだ。
一度目に読んだとき、俺は拒絶の言葉として受け取った。二度目に読んだとき、壁として受け取った。
だが三度目に読んで、俺は別のことに気づいた。
「意味があるとは思わない」——それは「意味がない」とは違う。
「思わない」と「ない」は、同じじゃない。
思わない。つまり、現時点のレイラの判断だ。確信ではなく、今そう思っているという言葉だ。
そしてもう一つ。書面の、署名のすぐ上の一文。
「以上を申し上げた上で」
七文字の定型句だ。公文書の結び言葉として使われることもある。だが——申し上げる、という言葉は、相手が聞いていることを前提にしている。届かないと思っている相手には、申し上げない。
もしかしたら俺の読み過ぎかもしれない。
でも、気になった。
「カイル」
「何だ」
「今の賛成票、いくつだ」
カイルが通信石を確認した。数字が俺の目に入ってくる。
【査問集計:賛成68/反対27/保留32】
【共存協定 自動失効まで:あと49日】
「六十八。今日のバルナが保留に変わった。二票動いた」
「失効まで四十九日」
「そうだ」
「一票ずつだな」と俺は言った。
「一票ずつだ」とカイルが返した。
俺はペンを持った。
何から書くか、一瞬考えた。
「まずは——聞かせてほしい、から始める」
カイルが何か言いかけて、止まった。
「……届くといいな」と彼は言った。声が、最初より少し低くなっていた。
「届かなくても、書く」
窓の外で、広場の声が少しずつ小さくなっていった。人が散り始めたのかもしれない。あるいは声が疲れたのかもしれない。どちらにしても、今夜ここで何かが解決するわけではなかった。
俺はペンを紙に当てた。
レイラ・ヴェイツへ。
最初の一文を書いた。
「あなたが書面に「意味があるとは思わない」と書いたとき、俺には一つ、気になることがありました」
そこで一度、ペンを止めた。
気になることを書く前に——まず聞かなければならない。俺が気になっていることを伝える前に、彼女の側に何があるかを、聞かなければならない。
俺は一行目を消して、書き直した。
「俺はあなたに会ったことがありません。でも、あなたの書面を読んで、聞きたいことが生まれました」
外の声は、もう聞こえなくなっていた。
ガレスが部屋の隅で椅子に深く座り、目を閉じていた。カイルは集計の書類を整理しながら、時折俺の手元を見ていた。
俺は書き続けた。
手紙が届くかどうかは、分からなかった。
ただ、書面の末尾に残っていたあの七文字が、頭を離れなかった。
「以上を申し上げた上で——」
申し上げた、ということは——まだ、こちらが聞いていると、どこかで思っている。
書面の最後の一行が、夜の中にそっと灯るように、俺の目の前にあった。
「会って話すことに、意味があるとは思いません」
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