第222話「影の履歴」
朝、カイルの部屋に入ると、昨夜からそのままだったらしい書類が床に広がっていた。
「寝たか」
「二時間だけ」
顔を上げずに、カイルは一枚を俺のほうへ滑らせた。薄い目の下に昨日と同じ影がある。寝たとしても、深くは眠れなかっただろう。
テーブルには連合の公式記録が積み上げられていた。一番上の書類の端に、「和解影響評価室」室長の名前が印字されていた。
レイラ・ヴェイツ。
昨夜、カイルが資金の流れを追い詰めた先にあった名前だ。
俺は椅子を引いて腰を下ろし、最初の一枚を手に取った。
連合設立六年目の記録だった。
「戦争孤児緊急保護令」。魔王軍との戦争で親を失った子供たちへの養育と教育を国が補償する、連合初の制度。立案者の欄には、レイラ・ヴェイツの名前が記されていた。
「一人で通したのか、これを」
「議会に二十七回、提案している。最初は一票しか賛成がなかった。三年かけて可決させた」
カイルが別の書類を引き寄せながら言った。声に力がなかった。
その下に積まれているのも似たような記録だった。
八年前、難民再定住支援法の改正。五年前、戦没者遺族の生活再建補助制度。三年前、戦傷者の医療費全額免除。どれも連合が長年放置してきた問題で、どれもレイラが議会に提案し、否決され、改稿し、また提案することを繰り返して通した。
失敗した案件も混じっていた。「迷宮溢出被害者への補償基金」は三度否決されている。それでも彼女は四度目の改正案を提出していた。
「遺族からの感謝の記録がある。書状だけで三百通以上が連合に保管されている。レイラへの個人宛だ。制度への感謝ではなく、彼女個人への感謝が多い」
「不正の形跡は」
「ない。私益を得た記録もない。口利きの痕跡もない。勤続十一年、一度も疑われていない」
カイルは書類の一枚に指を置いたまま、少し間を置いた。
「本物だ」
その言葉が、部屋の中に沈んだ。
外が明るくなり始めていた。査問会の開始まで、まだ三時間ある。
ガレスが来たのは、それからしばらくしてからだった。
扉を叩かず入ってきた。椅子を探さず、壁に背を預けて立ったまま腕を組んだ。
「十一年前の話だ。記録にはない部分が、俺の中にある」
「聞かせてくれ」
ガレスは少し間を置いた。何かを測るような沈黙だった。
「レイラ・ヴェイツは、ヴァーニャ村の出身だ。エルガ山脈の西麓にあった農村で、人口は百二十人ほどだった」
「だった、と言うと」
「今は廃村だ。十一年前の戦役で、補給ルートの確保に使われた。俺たちの部隊が通過し、敵軍が追ってきて戦闘になった。村に火が出た。どちらの陣営が先に火をつけたかは、今でも分からない」
ガレスの声に感情はなかった。ただ事実だけを並べていた。それがかえって重かった。
「村長だった父親が死んだ。農地も燃えた。残った村民は離散した。レイラは当時、十四歳だった」
「連合に補償を申請したか」
「三度。すべて却下された。「戦時下の不可抗力」という理由で。俺は当時、その決裁書類を見た記憶がある。上官の名前が入っていた」
窓の外で鳥が鳴いた。朝の気配だった。
「遺族補償制度を自分で作ったのは——そういうことだ。誰もやらないから、自分でやった。十年かけて、なかった仕組みを作った」
カイルが手元の書類をめくった。
「感謝の書状の中に、よく出てくる言い方がある。「レイラさんが話を聞いてくれた」。個人的に会いに来て、事情を聞いて、一人ずつの言葉を拾い集めていたと思われる記録がある。制度の草案に、数百人の証言が引用されている」
俺はその一文を、もう一度頭の中で繰り返した。
「話を聞いてくれた」。
「……そうか」と俺は言った。
「制度を作る前に、聞いていたんだ。一人ずつの話を」
ガレスが頷いた。
「だから信頼が厚い。書類上の数字ではなく、名前で呼ばれている。俺が当時会った遺族の中にも、レイラの名前を出す者がいた。「あの人が来てくれた」という言い方だった」
「善き人間だ」
ガレスがぽつりと言った。
その言葉の重さを、俺はしばらく受け取れなかった。
悪人ならもっと楽だった。悪意で動いている相手なら、その悪意に対して何かを言えた。嘘をついているなら、嘘を剥がせた。利益のために動いているなら、別の利益を見せることができた。
だがレイラはそのどれでもなかった。
十一年前に父を失い、補償を三度却下され、それでも立ち上がって十年間、誰も助けなかった人々を助け続けてきた人間が——今、俺の処分を煽っていた。
「あの戦争を、話し合いで終わらせた。その事実が、私の十年を否定した」
俺が言ったわけではない。だが、そういうことだと思う。カイルが昨日言った言葉がまだ頭に残っていた。「レイラは……誰にも聞いてもらえなかった側だ」。
誰にも聞いてもらえないまま、自分で制度を作った。誰にも補償されないまま、補償する仕組みを作った。誰にも手を差し伸べてもらえないまま、手を差し伸べる側に回った。
それが十年以上続いてきた。
そこに俺が来た。「話を聞く」ことで世界が変わったと言われている人間が、やってきた。
「俺のせいで、その十年が安っぽく見える」
カイルが静かに言った。俺の代わりに言ってくれたようだった。
「彼女の視点ではそうなる。誰も聞かなかった時代に、自分で道を開いてきた。それが正しかった。それが彼女のやり方だった。そこに——「話を聞けば解決した」という答えが来たら」
「十年分の苦労が、まるで要らなかったことになる」
「要らなかった、ではない。でも——」
言葉が上手く出てこなかった。
「でも、重なって見える。俺がいれば必要なかったものに、重なって見えるかもしれない。そう思う人間がいても、間違いとは言えない」
部屋の中が静かだった。
カイルは書類を見たまま、何も言わなかった。ガレスは壁に背を預けたまま、腕を組み直した。
部屋の外で誰かが廊下を歩いていく音がした。宿の朝が始まっていた。
「一つ、聞かせてくれ」
ガレスが低い声で言った。
「どうぞ」
「お前は——こういう相手の前に立つとき、どうしているんだ。怒れない相手に。責められない相手に。それでも向き合わなければならないとき」
俺は少し考えた。
「聞くしかない」
「聞くだけか」
「まず聞く。それしか俺にはできない。何も言えなくても、聞くことはできる。聞いてから、初めて次のことを考える」
ガレスはしばらく黙っていた。
窓の外で光が動いた。雲が切れたのかもしれない。部屋の中が少し明るくなった。
やがてガレスが口を開いた。
「俺が討伐隊長として来たとき——お前は茶を出した。魔物が給仕する部屋で、俺に「脅威に見えるか」と聞いた」
「覚えている」
「あのとき俺が感じた重さと、今感じている重さは同じ種類だと思う」
「どんな重さだ」
ガレスは一拍置いた。
「敵なら、楽だったのにな」
その言葉が、部屋の中に静かに落ちた。
カイルが書類を捲る手を止めた。
「敵なら分かりやすかった。斬るか守るか、判断が早かった。だがお前の前に来る連中は——いつも、敵じゃない。怖がっているか、傷ついているか、正しいことをしてきたのに間違った場所に立っているか。そういう相手ばかりだ」
「レイラも」
「そうだ。十年間、正しいことをしてきた人間が、今、別の道具として使われている。それに怒れない。責められない。できないから——重い」
ガレスは言い終えて、窓のほうに目を向けた。
俺は何も言わなかった。
言えることが、今はなかった。
「今朝、査問の集計が届いた」
カイルが静かに言って、一枚の紙を俺のほうへ向けた。
【査問集計:賛成70/反対28/保留29】
【共存協定 自動失効まで:あと50日】
数字は動いていなかった。昨日と同じだった。
「動かない」
「連合の締め付けが効いている。だが保留が増えている。大国の圧力に完全には従えない国がある。答えを出せていない国が二十九ある」
「まだ聞いている国が、二十九ある」
「そうだ。「賛成に戻れ」という圧力に、首を縦に振り切れていない。それは——まだ、迷っているということだ」
俺は数字を見ていた。
賛成70が、まだそこにある。過半数割れには遠い。だが二十九という数字が、何かを示していた。
「セルウィンに会いに行く」
「今日か」
「今日。査問が始まる前に。「来られるはずがない」という言葉が引っかかって離れない。「来ない」と「来られない」は違う。その違いを聞かないまま動くのは——まあ、損だ」
カイルが了解の代わりに頷いた。
「俺も行く」とガレスが言った。
「要らない」
「お前が一人で行けば、また「洗脳した証拠」を一つ増やすだけだ。第三者がいた方がいい。俺なら連合の人間も多少は話しやすい——まだ制服の記憶がある」
俺は少し考えた。
「……来てくれ」
ガレスが頷いた。
宿を出る前に、俺は一度だけテーブルを振り返った。
レイラ・ヴェイツの十年が、書類の束として広がっていた。
制度の名前と日付と、可決までにかかった年数と、感謝の書状の積み重ね。
悪人の記録ではなかった。むしろその逆だった。
「戦争孤児緊急保護令」の表紙に、立案者欄の名前があった。
その人間のことを、俺はまだよく知らない。
だから——まず、聞きに行く。セルウィンから聞いて、それから判断する。
廊下でガレスが先に歩き始めた。
「今日は俺が先に歩く。お前の手配書が出ているからな」
「助かる」
「助かるとも何とも。どうせ行くなら早く行こう」
歩きながら、ガレスが独り言のように言った。
「……この件に関わってから、余計なことを考えるようになった」
「余計なこと、とは」
「何かの前に、頭の中で言い聞かせるようになった。「まあ、聞いてから判断しよう」と。厄介だ」
「良い意味で言っているか」
ガレスは振り返らなかった。
「……まあ、そうだ」
それだけ言って、廊下の角を曲がった。
俺はカイルと目を合わせた。カイルは何も言わなかったが、口の端をわずかに動かした。
ヴァリスの朝が始まっていた。
「さて」とカイルが言った。「行くか。——セルウィンが朝食を取る場所、割り出してある」
「さすがだ」
「褒めるな。疲れる」
俺たちは廊下へ出た。
セルウィンに会いに行く。「来られるはずがない」という言葉の、「来られない」の中身を聞きに行く。
まあ——聞いてから判断しよう。
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