第221話「レイラの椅子」
三十五日目の朝、カイルが来た。
顔色はまだ戻っていない。それでも目の下の翳が薄くなり、足取りはゆっくりでも自分のものになっていた。
「昨日、三時間は眠れたか」
「……四時間だ。文句を言うな」
俺はそれ以上聞かなかった。四時間眠れたなら、カイルにしては上出来だ。
部屋に通すと、カイルは手元の革袋から分厚い紙の束を取り出した。白紙と細かい文字が交互に並んだ帳面で、端が煤けている。夜通し燭台の前で作業した跡だった。
「資金の出所が、追えた」
俺は黙って続きを待った。
「匿名で査問を煽っていた文書群——三十七通のうち三十五通は同一の書き手だと以前に話した。文体だけじゃない。今回は資金の流れも追った。どこに届いていたか、いつ送られたか。最終的に行き着いたのは連合の内部だ。公式に」
「公職者が動かしていた、ということか」
「ああ。連合直属——『和解影響評価室』という部署がある。設立は七年前。表向きは魔物との接触事例を記録・評価する研究部門だが、実態は……」
カイルが一度言葉を切った。息を整えているのか、それとも事実の重さを確かめているのか、どちらかわからなかった。
「実態は、世論を管理する部門だ。そこの室長が、レイラ・ヴェイツ」
ガレスが昨日、その名前を出した。
十一年前の討伐戦。避難した村の村長の娘。補償請願を三度、却下されていた女。
俺はその話を黙って聞いていた。今もまだ、聞いている最中だという感覚があった。
「証拠は揃っているか」
「揃っている。査問会に提出できる水準で」
「わかった」
俺は立ち上がった。外は白い冬の空で、窓の向こうに査問会場の塔が見えた。
「今日の議事に入れてもらう」
「……受け付けるかわからないぞ」
「まあ、聞いてから判断しよう」
カイルが小さく鼻から息を吐いた。怒っているのか呆れているのか、もう見分けがつかない。長い付き合いになった。
査問会場に入ると、傍聴席は既に埋まっていた。
三十五日目ともなると、市民の顔ぶれが変わり始めていた。最初の頃は「脅威を見に来た」という顔の者が多かったが、今は違う。毎朝顔を出すようになった老人がいる。子を連れた母親が、三列目に同じ席を取るようになった。何かを聞きに来ている人間の顔だ。
セルウィンは議長席にいた。
今日の議事として「資料提出の申し出」を告げると、セルウィンの眉が僅かに動いた。感情を見せない男だったが、三十五日通えば、その微妙な変化が読めるようになってくる。これは「想定外」の反応だ。
「被査問者側から資料提出の申し立てがあります。採否を——」
「聞きます」
周囲の視線が集まった。発言したのはガレスだった。
ガレスは今、ここに座る正式な立場を持っていない。連合に背いた時点で隊長職を失い、傍聴席の端に個人として通い続けている。それでも彼が声を出すと、場が動く。三十年の戦場で鍛えた声の重さは、肩書きがなくなっても消えなかった。
「採否を決める前に、資料の概要を聞かせてもらうのが筋でしょう」
セルウィンが一拍置いた。
「……では、概要を」
カイルが立った。
帳面の束を台の上に広げ、一枚目から順を追って説明し始めた。匿名文書の数と発送時期。七ヶ国の代表に届いた共通の骨格。資金の流れと、辿り着いた先。
傍聴席が、静かになっていった。
最後に、カイルが短く言った。
「資金の出所は、人類連合直属の研究部門——和解影響評価室。そこの室長レイラ・ヴェイツ名義の口座から、計十三回にわたって支出されています」
沈黙が落ちた。
外から聞こえていた市場の音が、一瞬止まったように思えた。実際には止まっていなかっただろうが、俺の耳にはそう聞こえた。
傍聴席の誰かが息を吐いた。それが合図になったように、低いざわめきが広がり始めた。
——公職者が、匿名で処分を煽っていた。
その事実の重さを、全員が測ろうとしていた。
セルウィンは表情を変えなかった。動揺は見えない。だが指先が一度だけ、机の端に触れた。
「資料は受理します。精査の上——」
「その前に」
俺が言った。
「はい」とセルウィンが短く答える。彼が俺の発言を遮らなくなったのは、いつ頃からだろう。最初の頃は、何を言っても「それは本題ではありません」と被せてきた。
「その人を、ここに呼べますか」
傍聴席が、また静かになった。
「レイラ・ヴェイツ室長を。直接、話を聞かせてもらいたい」
セルウィンが少し考えた。
本当にわずかな間だった。一秒か二秒か。だがその沈黙が、この場で最も雄弁だった。
「……彼女は、来ません」
「来ない、ということですか」
「来られるはずがない、ということです」
俺はその一言を、ゆっくり飲み込んだ。
来られるはずがない。
「来ない」ではなく、「来られるはずがない」。
その言葉の選び方が、引っかかった。
昼の休憩に、カイルと石畳の路地で話した。
「聞いたか。『来られるはずがない』と言った」
「聞いた」
カイルは壁に背を預けて目を閉じた。疲れているのか、考えているのか、俺には判断がつかなかった。彼がこういう顔をするとき、大抵は両方だ。
「来たくない人間には『来ない』と言う。来れない事情がある人間には『来られない』と言う。セルウィンはその中間を言った」
「……来ることはできるが、来たら何かが壊れる、ということか」
「そうかもしれない。あるいは——」
「来たら、彼女が終わる」
ガレスだった。
いつの間にか、路地の入り口に立っていた。大柄な体が日陰を作り、石畳に影が落ちていた。
「十一年前の話を続けようか」
俺は「どうぞ」と答えた。
ガレスが壁に寄りかかり、腕を組んだ。
「レイラは父を失ってから連合に仕えた。なぜ敵のような組織に入ったのか、俺には最初わからなかった。だが——あの女は、補償制度を自分で作った。戦争で身内を失った遺族を、組織の中から救おうとした」
「遺族からの信頼が厚い、とカイルに聞いた」
「ああ。善き官吏だ。本当に」
ガレスが一度、口を閉じた。
「だから彼女がここに現れたら、連合はそれを裏切りと見なす。十年以上かけて作った信用が、一日で剥がれる。来られるはずがない——というのは、セルウィンなりの……情けかもしれん」
俺はそれを聞いて、少しの間黙っていた。
セルウィンが情けをかけているとしたら。「来るな」と言いたいのに「来られない」と言い換えたとしたら。
それは——面白い。
「つまりセルウィンは、今日の資料提出を予測していた可能性がある」
「予測していなくても、気づいていたかもしれない。レイラが何をしているか」
カイルが目を開けた。
「証拠を提出した瞬間、セルウィンの指が動いた。俺は見た。驚いた顔じゃなかった。確認した顔だ」
俺は路地の奥を見た。白い空が細長く切り取られていた。
カイルの観察は正確だ。証拠の提出を、セルウィンは「驚かずに受け取った」。
「セルウィンに、聞いてみる」
「……査問官に、か?」
「公式の場じゃなくていい。ただ、話を聞きたい」
ガレスが低く笑った。笑うような状況でもないのに、不思議と重くなかった。
「お前は本当に、誰でも聞きに行くんだな」
「損だと思ったことがない」
「……そうか」
ガレスが空を見上げた。
「俺も最初は、お前が怖かった。魔物と話す人間が、怖かった。でも今は——」
彼は続けなかった。言葉を選び直しているのか、それとも言葉にしないことを選んだのか。
俺は待った。
「また、明日も聞きに行くんだろ」
「ああ」
「なら——俺も行く。何ができるかわからんが」
ガレスは路地を出て行った。大きな背中が日向に溶けていった。
カイルが静かに言った。
「あの人、正式な席もないのに毎日来てるな」
「ああ」
「……なんで、来るんだろ」
「聞けばいい」
カイルが一瞬止まって、それからため息をついた。
「……最近、お前に言い返せなくなってる気がする」
「それはカイルが正しくなってきたからだ」
「褒めてる場合じゃないだろ」
俺たちはその日の午後、また査問会場に戻った。
夕方の議事が終わり、人々が散り始める中、俺は一人で残った。
カイルは「先に帰る、倒れる前に」と言って宿に戻った。珍しく素直だった。
石の長椅子に座って、天井を見上げた。丸い屋根の内側に、古い壁画があった。七つの国が手を取り合う図で、誰もが同じ大きさで描かれていた。現実とは違う。でも誰かがかつて、こうあってほしいと思って描いたのだろう。
レイラ・ヴェイツ。
名前を頭の中で転がした。
善き官吏。遺族を救おうとした人間。十年以上かけて制度を作り、その一方で俺を処分するための文書を匿名で送り続けた人間。
俺のことが、本当に憎いのだろう。
憎い理由が、ある。
あの戦争——魔物との戦争が「対話で終わった」こと。それが彼女の家族の死を「無意味なもの」にした。そう思っているのだとしたら、俺に怒りを向けることは間違っていない。
俺は反論できる場所を持っていない。
死んだ人間は戻らない。戻らないことに意味があったかどうかは、生き残った人間が決める話ではない。
だから俺は——聞くしかない。
「まだいたのか」
声がした。
振り返ると、セルウィンが議場の戸口に立っていた。書類を脇に抱え、外套を羽織っている。今日の業務が終わった顔だった。
「少し考えていた」
「……帰れ。ここは君の宿じゃない」
「セルウィン様に、一つだけ聞いていいですか」
セルウィンが足を止めた。
拒否するかと思った。しかし彼は戸口から動かなかった。帰らなかった。
「……何を」
「レイラ・ヴェイツ室長のことを、いつから知っていましたか」
長い沈黙があった。
窓の外で鳥の声がした。遠くで誰かが笑う声がして、また静かになった。
「……なぜそれを、私に聞く」
「セルウィン様が今日、『来られるはずがない』と言ったから」
セルウィンの目が、わずかに細くなった。
「……答える義務はない」
「ありません」
俺はそれだけ言って、立ち上がった。長椅子の冷たさが、まだ背中に残っていた。
「ただ——聞かせてもらえるなら、聞きたかった。それだけです」
出口に向かうと、セルウィンが俺の横に並んだ。
一緒に歩いている形になった。どちらからともなく、そうなった。
しばらく石の廊下を歩いた。足音が響いた。
セルウィンが、小さな声で言った。
「……三年前だ」
俺は歩き続けた。止まらなかった。
「三年前から、彼女の動きは把握していた。だが——止めなかった」
「なぜ」
「彼女の怒りは、正当だと思っていたからだ」
廊下の突き当たりで、道が分かれた。セルウィンは左へ、俺は右へ行く。
セルウィンが立ち止まった。
「君が来るまでは——私も、処分は妥当だと思っていた」
俺は振り返った。
セルウィンは正面を向いたまま、石の壁を見ていた。
「今は」
「……今は」
セルウィンが一度、口を閉じた。
言葉を探しているのか。それとも、言葉があることに気づいて戸惑っているのか。
「今は——わからない」
それだけ言って、セルウィンは左の廊下を歩いていった。
足音が遠ざかり、消えた。
俺は一人で右の廊下に残った。
——「わからない」。
三十五日目で、セルウィンが初めてそう言った。
「妥当だと思っていた」が過去形に変わり、「わからない」が残った。それは動いている。
俺は外套の前を合わせた。夜の空気が冷たかった。
明日、また来る。
レイラに手紙を書く。セルウィンにもう一度、話を聞く。ガレスが傍聴席に来るなら、昼に声をかける。そのどれかが、一票に繋がるかもしれない。繋がらないかもしれない。
まあ——聞いてから判断しよう。
【査問集計:賛成70/反対32/保留25】
【共存協定 自動失効まで:あと52日】
宿に戻ると、扉の隙間に紙が挟まっていた。
便箋一枚。書き手の名前はなかった。
「あなたの手紙が届いた。読んだ。返事はしない。ただ——あなたが本当に私の痛みを聞けるのか、試してみたいとは思っている」
文字は丁寧で、癖があった。
読み終えて、俺はその紙を折りたたんだ。
レイラからだ。
「返事はしない」と書いて、返事を書いた。「試してみたいとは思っている」と書いた。
それは——来るかもしれない、ということだ。
セルウィンが「来られるはずがない」と言った。
レイラは「試してみたいと思っている」と書いた。
二つの言葉が、頭の中で並んだ。
ふと、窓の外を見た。ヴァリスの夜は明るい。街灯の数が多く、宿の部屋まで光が届く。第七迷宮の門番小屋にいた頃は、夜になると本当に何も見えなかった。ゴブが時々、外の灯りを窓に置いておいてくれた。
ゴブは今、あの門の前に立っているだろう。
俺はいつか帰る。でも今はまだ、ここで聞き続ける。
窓を閉めた。
外の光が、薄くなった。
——セルウィン「……彼女は、来ない。来られるはずがない」
その言葉の意味が、明日にはわかる。
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