第220話「決定の書き換え」
「百年後の記録に——何を残すべきかが、わからなくなっています」
ヴェスタの記録係リオンは、昨夜の面会室でそう言った。
背筋の伸びた小柄な女性だった。書記の仕事を二十年続けてきた人間の持つ、静かな正確さがある。その人間が「わからなくなっている」と言っている。
「もう少し聞かせてもらえますか」
俺は書類を脇に置いた。深夜の面会室には、俺とリオンの二人だけだ。
「三日前に」とリオンは言った。「連合の情報管理部門から、記録の雛形が届きました。この査問会の結末を、ある方向で書くよう指示されたものです」
「どんな結末ですか」
「——人類の脅威は適切に処分され、連合の秩序は保たれた、という一文で終わるものです」
俺は何も言わなかった。
雛形がある、ということは、結論が先にある、ということだ。査問会は演目で、俺たちはその演目に参加させられていた。
「提出期限は明日です」とリオンは続けた。「書けば、仕事は続きます。書かなければ——次の査問会で、私が対象になるかもしれません」
長い沈黙があった。
俺は、どちらかに決めろとは言えなかった。リオンの仕事と生活は、俺の交渉とは別の話だ。
「一つだけ聞かせてください」と俺は言った。「百年後に、あなたの名前で残る記録が——あなたが見ていない光景を書いたものだったとしたら、それはどんな感じがしますか」
リオンの指先が、膝の上の書類を静かに握った。
何かを言いかけた。
「考えさせてください」
それだけ言って、彼女は部屋を出た。
翌朝、三十四日目。
ガレスが廊下で待っていた。
「カイルから集計が来てる」と彼は言った。「夜間に二票動いた。賛成から反対への直接移動だ」
「どこから」
「不明だ。ただ今朝の集計は七十二のまま変わらない。夜間の転票分は別から補填されたらしい」
俺は接続石を確認した。カイルの文字が浮かびあがる。
【査問集計:賛成72/反対26/保留29】
七十二。六十四まで、まだ八票ある。
「ヴェスタが今日、追加発言の申請をしたらしい」とガレスが続けた。
「知っています」
「昨夜、何かしたか」
「話を聞いていました」
ガレスが短く頷いた。それ以上は聞かない。この男は昨日より顔色がいい。連合に反旗を翻した代償は小さくない。それでも毎朝ここに来る。理由を聞いたことはないが、聞かなくてもわかる気がした。
「行くか」とガレスが言った。
「行きます」
午前の議事はクラナドのドヴァン代表との続きから始まった。
昨日、「理屈はわかる。でも——」と言いかけたまま時間が来た。その「でも」の先を聞きに来た形だ。
ドヴァンは昨日と同じ席に座っていた。腕を組んだ姿勢も同じだ。ただ——目の奥に、昨日とは違う何かがある。昨日は壁があった。今日はその壁が少し、手前にあった。
「言いかけていた話の続きを聞かせてください」と俺は言った。
「理屈はわかると言った」とドヴァンは答えた。「鋤に持ち替える話もわかった。問題は金だと言った」
「はい」
「その金を、誰がいつ出すか。それを今日お前が答えられるか」
「答えられません」と俺は言った。「ただ——昨日、あなたは「理屈はわかる」と言いました。今日も来て、続きを話してくれた。それはなぜですか」
ドヴァンが顎を引いた。「……わかるか」
「まだ聞いています」
長い間があった。傍聴席も静かだった。
「お前が笑わなかったからだ」とドヴァンはやがて言った。「傭兵が鋤を持つという話に笑わなかった。可能性として聞いてくれた。そういう人間に、俺はあまり会ったことがない」
「笑う理由がないです」
「世間は笑う」
「世間は聞いていないからだと思います」
ドヴァンは少し黙った。「保留のままでいい。今日は答えを変えない。ただ——金の話が具体的になったとき、俺に声をかけてくれ。聞く」
「わかりました」
「……「まあ、聞いてから判断しよう」か」ドヴァンが初めて口の端を上げた。「お前の口癖は、案外、傭兵にも合う言葉だ」
乾いた、しかし悪くない笑い方だった。
票は動かなかった。だが、「聞く」と言った。それはドヴァンにとって、昨日からの距離だと思う。
午後。ヴェスタの代表が壇に上がった。
傍聴席が音を立ててざわめいた。建国最古の大国が三十四日目にして初めて自ら発言を求めた——それだけで場の空気が変わった。
代表の名はオーラン。白い顎鬚を持つ老人で、この査問会を最前列で聞き続けてきた人物だ。一度も発言せず、票も動かさなかった。ただ——聞いていた。それは俺も知っていた。
「申し上げたいことがあります」
老人の声は低く、落ち着いていた。揺れていない。
「昨夜、私の記録係リオンが私のところに来ました。個人の意見として、百年後に恥じない記録を残してほしいと言われました」
静かだった。
「私はこの三十四日間、この対話を聞いてきました。最初は敵意がありました。次に疑念があった。今は——わからなくなっています。ただ、わからないまま票を動かさないことは、何かを決めていることと同じだと気づきました」
俺は何も言わなかった。
老代表が一礼した。
「ヴェスタは、賛成から保留へ移ります」
言葉が広間に静かに広がった。
声ではなく、息が傍聴席から漏れた。七十七から始まって三十四日かけて切り崩してきた中で、ヴェスタという名前の重さは特別だった。建国最古の大国が動いた。それは数字以上の意味を持つ。
カイルからの集計が届いた。
【査問集計:賛成70/反対26/保留31】
七十。
六十四まで、六票。
だが、その直後だった。
セルウィンが壇の脇に立つ補佐官から書類を受け取り、目を通した。表情に変化はない。ただごくわずかに、書類を持つ指先が硬くなった。
「本日、連合議長府より通達が届きました」
声のトーンが、ほんの少し変わっていた。慎重に選んでいる声だ。
「共存協定の自動失効日について、手続きの公正性を確保するため、期日の改定を行います。失効日は現行の五十八日後から——五十二日後に変更されます」
傍聴席がざわめいた。
六日、縮まった。
理由は「手続きの公正性」だ。何の公正性が具体的に問題だったかは、書かれていない。
俺の隣でガレスが静かに息を吸った。接続石が揺れた。カイルの文字が届く。「どうする」
俺は少し考えた。
急いだのは、連合だ。七十という数字を今朝見て、六十四が視野に入った。それで動いた。完全に決まっている場所から急く必要はない。焦りは迷いの兄弟だ。
「急ぐのは、こっちが押してる証拠です」
俺はセルウィンに向かって言った。
セルウィンが俺を見た。何かを探している目だ。動揺か、怒りか、焦りか——探しているものが見つからないと、その目が微妙に動いた。
「——次の議事を進めます」
声が、初日より少し低かった。
鎚の音が響いた。
夕刻、外に出ると橙色の光がヴァリスの石畳に落ちていた。
「六日で六票か」とガレスが歩きながら言った。
「不可能じゃないです」と俺は答えた。
「根拠は」
「まだ聞いていない話が、いくつかある」
ガレスが鼻の奥で笑った。「お前は毎回そう言うな。「まだ聞いていない」と」
「毎回、聞いていないものがあるので」
「違いない」
ガレスはそれ以上何も言わなかった。隊長職を失い、年金も消えた男が、それでも毎朝ここに来る。その背中を見ながら、俺は思った。ガレスは「まあ、聞いてから判断した」と公言してここにいる。その選択の重さを、俺は軽くしてはいけない。
「一つだけ聞いていいか」とガレスが止まらずに言った。
「どうぞ」
「リオンは——あの雛形を、提出したと思うか」
俺は少し考えた。
「わかりません。でも、あの人は百年後のことを話していた。そういう人間が書く記録は、どちらであっても——本物だと思います」
ガレスが、一度だけ頷いた。
接続石がもう一度揺れた。カイルからの声だった。疲弊しているが、昨日より少し通りが良い。
「レン。今夜、聞いていいか」
「どうぞ」
「六日で六票。本当に不可能じゃないと思うか」
石畳の先、ヴァリスの城門が夕陽に赤く染まっていた。
俺は答えた。
「まだ聞いていない声がある。聞いてから判断します」
少しの間があった。
「——わかった」
接続が静かに閉じた。
六日で六票。
急いだ連合が前倒しにした六日は、こちらにとっても同じ六日だ。どちらが先に動くかではなく、どちらが先に「聞く」かの話だ。
あとは——まだ話していない声を、一つずつ聞くだけだ。
【賛成70/共存協定 自動失効まで:あと52日】
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