第219話「前倒しの気配」
三十二日目の朝、俺は窓の外を眺めながらカイルの集計を待っていた。
ヴァリスの議事広場に朝霧がかかっている。それでも傍聴席の列はすでに長い。一ヶ月前は処刑を見に来たという顔が多かったが、今は違う。昨日話した国の随員の姿がある。子どもを連れた夫婦がいる。手に書き付けを持った者まで現れ始めた。
あの書き付けに何が書かれているのか、俺にはわからない。
備忘録か。明日の代表への報告か。あるいは——自分自身のための、何かか。
扉がノックされた。
「入れ」
カイルが紙を持って入ってきた。目の下に疲弊の痕が残っているが、足取りは戻ってきた。倒れかけていたあの夜から十日が経つ。人間は案外、立ち直る生き物だ。
受け取った紙に目を落とした。
【査問集計:賛成77/反対25/保留25】
「また動いたな」
「昨日一日で四票。一週間のトータルで十三票だ」カイルは椅子を引いて座った。「過半数まで十三の差。失効まで五十八日だ」
俺はしばらく数字を見た。三十二日が過ぎた。公開大査問会が始まった日から、もう一ヶ月以上になる。
「転票の速度は?」
「加速している。三週目に比べて一・三倍のペースだ」
「連合側はどう動いてる」
「昨日の夕方、評議会の補佐官が大国代表と個別に接触した記録がある」カイルが少し声を落とした。「内容はわかっていない。でも——いい動きじゃない気がする」
「何かを固めようとしているか」
「おそらく。でも、今わからないことを考えても仕方がない」
まあ、聞いてから判断しよう。
「今日はどこだ」
「午前にクロス連邦。午後にアリャン王国。それと——」カイルが一拍間を置いた。「ヴェスタの若い随員から、個人的な面会申し込みが来ている。代表としてではなく、個人として、と」
「個人として、か」
「そう言ってきた」
個人という言葉を自分から使う時、人は何かを手放している。立場でも利益でもなく、自分の言葉だけで来る。それは小さいように見えて、重い。
「時間を作る」
午前のクロス連邦代表との対話は、俺の予想と違う始まり方をした。
五十代の小柄な男、ゼムが席に着くなり言ったのは「あなたと話す前に、他の代表から話を聞きました」だった。
「どんなことを聞きましたか」
「皆、同じことを言っていた。話を聞いてもらった、と」ゼムは机の上で両手を組んだ。「責められたとは誰も言わなかった。論破されたとも言わなかった。ただ——聞かれた、と言っていた」
「それで?」
「私も聞いてほしいことがある。なぜ賛成票を投じているか、をあなたに知ってほしい」
その言葉が出た瞬間、俺は息を整えた。「聞いてほしい」と先に言う人間は、すでに何かが動いている。
「聞きます」
ゼムは話し始めた。
クロス連邦は長年、迷宮の溢出によって国境の村を失い続けてきた。記録に残る範囲だけで、五十七の村が一部または全壊。農民の死者は合計で千人を超える。王都の公文書には「辺境事象」と記載されるだけで、補償も記念碑もなかった。
「和解が成立した後も、連邦の国境では半年間で三件の溢出がありました。七人が亡くなった」
「知っています」
ゼムが目を上げた。「知っている」と繰り返した。
「はい。第七迷宮の全層との協定が整うまで、半年かかりました。その半年に出た被害については——俺は申し訳なかったと思っています。取り戻せませんが、申し訳なかった」
広間に静寂が落ちた。
外から石畳を踏む足音が聞こえた。誰かが急いで歩いている。その音だけが、しばらく響いた。
「申し訳なかった、と言い切れるか」ゼムは言った。怒りではなく、確かめるような声で。
「言い切ります」
「取り返せないと?」
「取り返せません」
ゼムは長い時間をかけて息を吐いた。机の上に置かれた両手が、わずかに動いた。それだけだった。
「私の故郷に、名前のない石がある」と彼は言った。「墓地に。名前を刻む金がなかった家族が残したものです。あなたはその石を知らない。知ることもできない」
「そうです」
「それを知った上で、あなたは話を聞かせてほしいと言った」
俺は何も言わなかった。
言えることが何もなかった。謝罪では届かない場所に、その石はある。補償も言葉も届かない場所に。それでも俺は今日ここに来て、ゼムが扉を開けるのを待っていた。
「……保留にする」
転票ではなかった。それでも俺は頭を下げた。
保留は「まだ聞いている」ということだ。話を続ける意思が、そこにある。ゼムが立ち上がって出て行く時、俺は彼の背中を見ていた。名前のない石のそばで何十年も暮らしてきた男の背中は、それだけで一冊の本の重さがある。
俺にできることは、ただ聞くことだった。それ以上はない。
午後のアリャン王国代表サロは、席に着く前に一枚の書類を机に置いた。
「これを最初に見せます」
書類には数字が並んでいた。和解成立以降、アリャン王国の迷宮産素材輸入量が十五倍になったこと。農業収量が三割以上増加したこと。溢出による死者がゼロになったこと。
「我が国は魔物との和解で最も利益を得た国の一つです」とサロは言った。四十代の、凛とした立ち姿の女性だ。「それでも賛成票を投じた」
「なぜですか」
「大国が怖かったから」
迷わず言った。その言葉に、恥じる色はなかった。
「連合の中心にある国々の顔色が——利益より怖かった。恥ずかしいことですが、それが本当のことです」
「今も怖いですか」
「今も怖い」サロが俺を見た。「でも、あなたと話して一つ気づいた。あなたは私の言葉を聞いた。責めなかった。論破しようとしなかった。それだけで——なぜか、大国より、ここで黙っていることの方がもっと怖くなってきた」
転票の言葉は、俺が求める前に彼女から出た。
「反対に変えます」
「ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない」とサロは言った。書類を手元に収めながら。「ただ正直に答えただけです」
正直に答えること、がどれほど難しいか。
ここで大国の顔色を見て黙っていた方が、今この瞬間は楽だったはずだ。サロはそれをわかっていて、それでも言った。俺には礼を言うことしかできなかった。
ヴェスタの若い随員がやって来たのは、夕暮れが近い頃だった。
俺は喉が乾いていることに気づいたが、水を取りに立つ間もなかった。ノックの音が先に来た。
名乗り方が静かだった。「リオンと申します。ヴェスタ代表団の記録係です」
「記録係」
「はい。この査問会で起きたことを全て記録しています。百年後に誰かが読む書類として」
椅子を勧めると、リオンは座った。手には何も持っていなかった。書類もメモ帳も。記録係のはずなのに。
「代表の指示で来たわけではありません」と彼は言った。
「わかります」
「では、なぜ私が来たかは——察しがつきますか」
「わかりません。聞かせてください」
リオンは少しの間、床の一点を見ていた。
「百年後の誰かがこの記録を読んだとき、それは何を伝えるべきか、と考えてきました」と彼は言い始めた。「この査問会で何が起きたか。私が書けるのは事実だけです。あの男は一日一国、名前を呼んで話を聞いた。三十日以上、一度も怒らず、一度も相手を責めず、ただ聞いた——それだけを書きます」
「それで充分です」
「ヴェスタの票は動かないかもしれない」リオンは続けた。「代表は変わらないかもしれない。でも記録は残ります。百年後に誰かが読んで——何かを考えるかもしれない。それだけです」
立ち上がって、扉へ歩いた。振り返らずに出て行った。
足音が石畳の向こうへ遠ざかった。
ヴェスタの票は動かなかった。それでも、何かが動いた気がした。記録係が、書く、と言った。百年後に向けて。今日起きたことを。票は動かなくても、言葉は残る。
それで充分だ、と俺は思った。
今は充分じゃなくても、百年後には何かになるかもしれない。そういう積み重ねの上に、今日の俺も立っている気がした。
夜、カイルが更新後の集計を持ってきた。
「今日の分だ」
紙を受け取った。
【査問集計:賛成72/反対27/保留28】
一日で五票動いた。
「クロスとアリャン以外はどこだ」
「俺が別口で動いた」とカイルが言った。「午後の空いた時間に、三国の随員と個別に話した」
「お前が交渉したのか」
「交渉というほどじゃない」カイルは少し視線を落とした。「ただ話を聞いた。相手の言ってることを聞いて、別の見方があるかもしれないと言っただけだ。まあ——聞いてから判断した、ということだな」
俺はカイルを見た。
その言葉が彼の口から自然に出るようになったのはいつからだろう。三年前、この男は「扉を開けなかった側」だった。今は自分で扉を叩いている。
「過半数まで八だ」とカイルが続けた。「でも、連合の動きが気になる。評議会の補佐官が今日、複数の有力国と接触した記録がある。内容は不明だが——何かが来るかもしれない」
「来てから考えよう」
「そのつもりだ」
窓の外の夜が静かだった。傍聴席の列はもう消えていて、石畳に月明かりだけが残っている。明日も、また一国から聞く。それだけだ。
俺はようやく水を一杯飲んだ。冷たかった。一日中話し続けた喉が、それでようやく落ち着いた。
同じ夜の、別の場所で。
連合議長オルディーンの執務室に明かりが灯ったのは、夜半を過ぎてからだった。
入ってきたのは筆頭補佐官のドレン。三十年、この男に仕えてきた官僚だ。革命を二度、大規模な溢出を四度、数字で見送ってきた人間だ。感情ではなく計算で動く。だから今夜の数字が、彼の足を動かした。
「議長」
オルディーンは窓の外を向いたまま、振り返らなかった。
「集計です」ドレンは紙を机に置いた。「賛成七十二。先週比で十四票が動きました。一日当たりの転票速度が一・七倍に加速しています」
「見た」
「このペースが続けば——」ドレンは声を整えた。「結審日の九十日目を待たずに、過半数が崩れます。失効まで五十八日。数学的には、あと三十日以内に過半数が割れます」
沈黙。
「結審前に、査問の意味が事実上失われます」とドレンは続けた。「このままでは協定が崩れる前に結論が出てしまう。連合が望んでいた形での結審が——成立しなくなります」
「わかっている」とオルディーンは言った。
「では」
「わかっている、と言った」
ドレンは口を閉じた。
オルディーンはまだ窓の外を見ていた。夜のヴァリスの灯りが、議事広場の向こうに散らばっている。石畳は暗い。月明かりだけが落ちている。その光の下を、今日も傍聴者が歩いた。記録係が歩いた。随員たちが歩いた。
「あの男は」とオルディーンは静かに言った。「明日も聞くのか」
「はい。三十三日目の対話が入っています」
「一人でか」
「今日から、ベルグ調停者も個別交渉に動き始めています」
「二人か」
「はい」
また沈黙が落ちた。
ドレンはその沈黙を待った。三十年で学んだことがある——オルディーンが動かない時、何かを計算している。あの沈黙の長さは、覚悟を固める時間に似ている。
今夜の沈黙が、少し違って聞こえた。
「……レイラはどう動いている」
「引き続き、賛成票の固定に当たっています。ただ現時点では票の流出を止めきれていません」
「そうか」
「議長」ドレンは言った。「決断を」
オルディーンは、答えなかった。
ただ夜の街を、静かに見続けていた。
【査問集計:賛成72/共存協定 自動失効まで:あと58日】
側近「議長、決断を」
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