第218話「レイラとは誰か」
宿の部屋に朝の光が差し込んでいた。
カイルは窓際の椅子に腰を下ろし、昨日から広げっぱなしの書類を膝の上に置いていた。顔色は昨日よりいくらかましだ。それでもまだ、目の下に青黒い影がある。窓から差し込む光が直接顔に当たっていて、昨夜の疲れをそのまま写し取っている。
机の端に薄い茶が一杯あった。宿の主人が朝早くに差し入れてくれたものだが、カイルはまだ口をつけていない。とっくに冷めているはずだ。それでも置いたままにしているのは、飲む気がないわけじゃなくて、飲む余裕が今のところないからだと俺は見ている。
「三十七通、全部読んだか」
俺が問うと、カイルは顎を引いた。
「読んだ。読むだけなら、まだできる」
頑固な男だ。昨日は右膝が折れた。立ったまま扉を手で支えて、体を支えることに全部使っていた。倒れかけた翌朝にそれを言えるのは、強さじゃなくて意地だ。でも今は、その意地に助けられている部分がある。
「どれだけ確かな分析だ」
「かなり確かだ」
カイルが書類の一枚を俺の方に向けた。羊皮紙の端に、細かい文字が密に並んでいる。カイルの手書きで、昨夜から書き込んでいたものだろう。
「三十七通のうち三十五通が、同じ書き手だ。句読点の打ち方、段落の組み方、語順の選択——どれも一致する。でも一番確実なのは、これだ」
指先が止まった場所に、小さな記号のようなものがある。
文の末尾に、ほとんどの読み手は意識しないような、わずかな空白の歪みがあった。正確に言えば、一文が終わった後、次の文が始まる前の間隔が、一般的な文書規定より微妙に長い。それが全ての文書で、同じパターンで出ている。
「書き慣れた人間の癖だ。本人も気づいていない。職業的な文章を長年書いてきた者に出る傾向がある。特に——官吏に多い。毎日同じ形式で文書を書いていると、体が勝手に同じリズムを刻むようになる」
「連合の中枢に近い場所にいる人間、と昨日は言っていたな」
「そうだ。情報の流れ方を知っている。どこに送れば、どの代表の耳に届くかを計算している。三十七通の宛先を全部並べてみた。無差別じゃない。全部、開会直前に翻意する可能性のある国を狙っている。それも——一番揺れている国への文書が、一番厚い。情報量が多い。裏付けが多い。説得力の高い文書を、動かしやすい場所に集中して打った、ということだ」
「準備に、どれだけ時間をかけたと思う」
「少なくとも三ヶ月以上だ。査問会の開催が決まってから文書を作ったんじゃない。もっと前から、こうなることを想定していた」
俺は書類を手に取って、一枚ずつ眺めた。
確かに、丁寧だ。怒りで書いた文章には見えない。怒りは文を荒くする。これは違う。長い時間をかけて、冷えた状態で書かれている。それが逆に——何か重いものを感じさせた。
接続石が微かに光った。カイルが石に触れると、文字が浮かんだ。
【査問集計:賛成90/反対23/保留14】
【共存協定 自動失効まで:あと67日】
六十七日。
九十票の賛成。過半数を割るまで二十七票。今のペースでは足りない。数字を見るたびに、胸の中で何かが締まる。焦りとは少し違う。ただ——時間は確かに動いている。その重さが、数字になって現れている。
「レイラ」
俺は声に出した。
「レイラ・ヴェイツ。それが、カイルが出した名前か」
「そうだ。連合情報管理部門の古参官吏。公式の記録には名前が出ない部署だ。でも——その部署に長くいる人間を辿ると、この名前に行き着く」
「顔は? 年齢は?」
「わからない。写し絵も、公式な出頭記録も残っていない。情報管理は、目立たないことが仕事だ」
つまり、俺には何も見えていない。
名前だけがある。
「カイル、今日の査問は俺一人でやる。お前は休め」
「俺が欠けたら——」
「フォルとの接続は、一日落としても持つか」
カイルが少し考えた。目の焦点が、一瞬ずれるような動きがあった。接続石に集中する感覚らしい。
「落とせば、再接続に一時間かかる。その間は集計が止まる」
「それでいい。今日の集計は、俺が戻ってから確認する。今は横になれ」
「査問が——」
「一日止まったくらいでは、何も決まらない」
カイルが俺を見た。何か言いたいことがある顔だ。でも、言葉が出てくる前に息を吐いた。
「——わかった。ただし、夕方には起きる」
「昼まで寝ろ」
「それを決めるのはお前じゃない」
「よく言われる」
カイルが立ち上がりかけた。そのとき、扉の方で音がした。ノックではなく、誰かが枠に体を当てた音だ。
「——入るか?」
声は、ガレスのものだった。
ガレスは部屋に入ってきた。
いつもの重厚な足音だが、今日は少し違う。慎重な踏み込み方だ、と俺は感じた。椅子を引いて座ったが、背は壁についていない。何かを抱えたまま座っている、という印象がある。
「レイラ・ヴェイツ」
俺が繰り返す前に、ガレスが言った。
「知っている」
部屋が静かになった。
「知ってるのか」
「昔、一度だけ会ったことがある」
ガレスが床を見た。視線の先に何かがあるわけじゃない。ただ、どこかを見るよりも、見ない方がいい時がある。
「十一年前の話だ。東方の魔王軍との第三次討伐戦。俺はまだ副隊長だった。部隊が撤退路を誤って、山中の村に一時避難した。その村の名前が——ヴェイツ村だ」
カイルの手にあった書類が、かさりと動いた。
ガレスは続けた。
「小さかった。山の中腹にある、百人にも満たない集落だ。農地は薄くて、冬は厳しい。それでも人が住んでいた。木造の家が並んで、石造りの東屋があって——そういう村だ。俺たちが一晩避難したとき、村の女が水を持ってきた。若かった。二十代そこそこだったと思う。疲れていたのに、余分に食料まで出してくれた」
「それが——レイラ・ヴェイツか」
「家督の娘だ。村長の一人娘。水を持ってきたとき、俺たちに深く頭を下げた。礼儀正しい女だった」
ガレスが手を組んだ。指の関節が白くなる。
「俺たちが避難した翌々日の夜、魔王軍の一隊がその村を通った。俺たちはもういなかった。だから——何が起きたかは、後で聞いた話だ」
「村が、やられたのか」
「全焼だ。住民の大半は逃げ延びた。でも、留まった者が何人かいた。家を守ろうとした者と、逃げられない年寄りたちと——村長もその一人だった。レイラの父親が、燃えた家の前で見つかった」
部屋に沈黙が落ちた。
市場の音が遠くから聞こえている。誰かが大きな声で値を叫んでいる。普通の朝の音だ。ここだけが、別の時間に置かれているような感じがした。
「それから彼女はどうした」
「生き延びた。それから——しばらくして、俺の部隊に陳情に来た」
「補償の請願か」
「そうだ。書類を持ってきた。村の再建費用と、父への弔慰金だ。きちんと整った書類だった。法的な条文も、必要な署名も、全部揃っていた。あの若さで、これだけの書類を一人で整えたのかと、正直、驚いた」
ガレスが止まった。
首の後ろに手を当てて、天井を一度見上げた。それから元に戻した。
「その請願書は——三度、却下された」
「三度」
カイルが静かに繰り返した。
「連合の補償規定では、軍が直接関与した損害にしか適用されない。俺たちはその村を拠点にしたが、その後の被害には直接関与していない。魔王軍が村を焼いたのであって、我々ではない——そういう解釈で、三度とも同じ理由で却下された」
「でも」
俺は言った。
「それは、お前たちが避難したから、村の場所が知られたんじゃないのか」
「彼女も、そう主張した」
ガレスの声が、一段低くなった。
「主張した。でも——規定が、そうなっていた。軍の補佐官も、司令官も、最終的に同じ答えを返した。書いてないことは、認められない。規定に書いていないことは、規定に書いていないんだ、と」
胸の中に、何かが落ちた音がした。
静かな音だ。でも重い。
「彼女は——最後の却下通知を受け取った後、俺に一度だけ直接話しかけてきた。陳情の場ではなく、俺が廊下を歩いているときに声をかけてきた。何を言おうとしたのか、俺には今もわからない」
「なぜわからないんだ」
「俺が、顔を合わせずに通り過ぎたから」
部屋が静かになった。
市場の声が、また遠くから届いてくる。今度は笑い声も混じっている。明るい声だ。
カイルが書類を一枚、静かに裏返した。
「その後の彼女の行方は」
「知らない。翌月には俺も東部の戦線に回された。戦争が続いて、あの村のことを考える余裕がなかった。それから三年後に魔王軍との戦争が終わって——あの戦争は、最終的に対話で終わった」
ガレスが俺を見た。
「お前が動いた交渉のことは、後から聞いた。戦争の終わりが、刃でなく言葉で来たことを、俺は複雑な気持ちで聞いた。複雑だったことは認める。でも、受け入れた。戦争が終わるなら、方法は問わないと思った。それが本音だ。ただ——それが、全員の本音だとは思っていなかった」
「そうだな」
俺は静かに言った。
和解によって戦争が終わった。それは良いことだ。でも——その「良いこと」の裏に、それを「良い」と思えない人間がいる。家族を失った。村を失った。補償されなかった。そしてその後、戦争は「対話で終わった」。
「カイル」
「なんだ」
「匿名文書の中に、共通して書かれていた一節があったと言っていたな」
「ある。全ての文書に必ず入っていた」
「もう一度読んでくれ」
カイルが書類を一枚引いて、その中の一行を指でなぞった。
「《和解は、悲劇を消費する行為だ。失われたものは、和解によって上書きされる。それは、死者への冒涜だ》」
ガレスが、吸った息を止めた。
しばらく、動かなかった。
「……その言葉が、三十七通全部に」
「全部に入っている。他の内容は文書によって違う。でも、この一節だけは全部に」
ガレスが、ゆっくりと息を吐いた。
「理屈は、わかった」
「俺も、わかる」
ガレスが俺を見た。
「お前も?」
「論破できない、という意味でわかる」
「どういうことだ」
「彼女が正しい。少なくとも、彼女の側から見れば。村が焼けた。父が死んだ。補償されなかった。そして三年後に、戦争が対話で終わった。その和解の場に——彼女はいなかった」
「……」
「誰かが決めた平和の中に、彼女は入れてもらっていない。それが十一年続いた」
部屋がまた静かになった。
ガレスが両手を膝の上に置いた。考えている顔だ。何かを整理しようとして、整理しきれないまま、ただそこに座っている顔だ。
俺は窓の外を見た。ヴァリスの朝の景色が広がっている。石畳と、白い建物と、査問会場の旗が遠くに見える。今日もあそこに行かなければならない。一国ずつ、聞いていく。
でも今日の本当の仕事は、もう一つある。
「ガレス」
「なんだ」
「彼女が今、どこにいるか——わかるか」
「わからない。十一年前から消息を知らない」
「カイル。連合の文書管理部門、今の所在は調べられるか」
カイルが書類をまとめながら言った。
「公式の接触は難しい部署だ。でも——三十七通の発信点を逆に辿れば、大まかな場所には絞れる。今日の夕方には出せる」
「頼む」
「ただし、その前に一つ確認していいか」
「どうぞ」
「彼女に会って、何を聞くつもりだ」
俺はしばらく考えた。考えたと言っても、本当に短い時間だ。
「わからない。聞いてみないと」
カイルが、あきれたような顔で息を吐いた。
「——そうか。お前はそういう奴だったな」
「まあ、聞いてから判断しよう」
ガレスが、少しだけ表情を動かした。苦笑いとも、何かを噛み締める顔とも取れる、複雑な表情だ。
「お前に言われると、不思議と納得してしまう」
「褒めているわけじゃないんだが、と続くだろう」
「——そうだ。よくわかったな」
「そのパターン、もう何度か聞いた」
ガレスが腕を解いた。立ち上がって、窓の前まで歩いた。
ヴァリスの朝の景色をしばらく見て、それからゆっくりと振り返った。
「レン」
「なんだ」
「一つだけ確認させてくれ」
「どうぞ」
「十一年前に村に避難したとき——お前なら、彼女に何を聞いたと思うか」
俺は少し考えた。
「名前、だと思う」
「名前」
「最初に聞くのは、それだろう」
ガレスが止まった。
肩の線が、わずかに変わった。
しばらくの沈黙があった。廊下で誰かが歩く音がして、それが通り過ぎた。宿の朝は忙しい。そういう音が、この部屋だけ遠い。
「俺は」
ガレスの声は、静かだった。
「聞かなかった。水を持ってきた女だと——それだけだった。食料まで持ってきてくれた。丁寧に頭を下げていた。それだけは覚えている。でも、名前は」
「聞かなかった」
「聞かなかった。聞く必要があるとも、思わなかった」
俺はそれだけ聞いた。それ以上は言わなかった。ガレスが悪い、という話でも、仕方なかったという話でもない。ただ、聞かなかった。それだけだ。
「わかっている」
ガレスが言った。自分に言い聞かせるような声だった。
「だから——なぜその名が、今になって——」
ガレスの声が、そこで止まった。
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