第217話「影の名前」
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朝、俺はカイルの部屋の扉を叩いた。
返事が来るまで、いつもより長かった。
「……入れ」
くぐもった声だった。昨日と同じ声だ、とすぐにわかった。休めていない声の質がある。人が本当に眠れていないとき、声というのはある種の平板さを帯びる。感情を乗せる余裕が、声帯の手前で潰れている。
扉を開けると、カイルは寝台の上で半身を起こしていた。毛布は腰のあたりにまとめて押しやられていて、枕元の小さな卓に書類が積み上がっていた。眠れていたとしても途中で起き出したらしい。
「横になっていろと言った」
「言った」とカイルは認めた。「でも目が覚めたら、気になることがあって」
俺は部屋に入り、椅子を引き寄せて座った。カイルの顔色は昨日よりわずかにましに見えたが、それはたぶん気のせいだった。顔の下に疲労の層が積み重なっていて、一晩の休息では届かない深さまで沈んでいる。
「気になること、というのは」
「書類だ」
カイルが枕元の積み重ねを示した。
「三つの国から同じ内容の意見書が出た。表現が微妙に違うが、骨格が同一だ。意見が似ることはある。でも骨格が同一ということは——誰かが草稿を書いて配った」
俺はその書類の束を手に取った。
カレド、ヴェスタ、クラナド。
三日置きに、それぞれの国から出された「アシダ・レンの言動に関する再評価申請」。内容は異なる角度から書かれていたが、カイルの言う通り、構造は同じだった。主張の順序、根拠の挙げ方、反論の封じ方。書いた人間が同じなら生まれる整合性だった。
「これを書いた人間がいる、か」
「書いて、配った」カイルが言い直した。「手間がかかる。情報を持っている。各国の担当者に直接渡せるだけの足場がある。連合の内側にいる人間だ」
俺はもう一度書類を見た。
紙の上に並んだ言葉は静かだった。でも静かな言葉が、静かに何かを動かしていた。
「今日は宿にいろ。続きを調べてくれ」
「……わかった」
カイルは珍しく素直に答えた。昨日、右膝が折れたことを、まだ覚えているのだろう。
その日の查問は、滞った。
カイルは宿で書類を精査するために残った。俺は一人でヴァリスの議事広場へ出て、二十五日目の対話に臨んだ。
ガレスが離れた場所で壁に背をつけて立っていた。連合に背いてから隊長職を失い、公式な立ち位置をなくした彼は、それでもここに来ていた。言葉は交わさなかったが、目が合うと顎をわずかに上げた。それだけで十分だった。
セルウィンが出てきた。
昨日と同じ灰色の外套。昨日と同じ冷静な表情。だが俺はこの三週間で、彼の顔の読み方を少し覚えた。唇の端に力が入っているとき、彼は何かを準備している。
「本日は個別対話の申請が二件ある」
セルウィンが告げた。「オルリ公国と、ナフェ連邦だ」
初めて聞く名前だった。
「どちらも三日前までは賛成票だったはずだ」と俺は言った。
「そうだ」セルウィンが認めた。「申し出た理由は各国に聞くがいい」
俺はその二国の代表と対話した。どちらも話してみると、迷いというよりは「情報を確認したい」という態度だった。こういうことを言う人間だという話を聞いていたが、直接聞いてみると違った、という言い方をしたのがオルリ公国の代表だった。
「どんなことを言う人間だと聞いていましたか」
「……魔物の言葉を代弁して、人間の秩序を壊そうとする扇動者だと」
「誰からそう聞きましたか」
代表は少し間を置いた。
「匿名の文書だ。一月ほど前、国に届いた」
一月ほど前。
俺がここに来る前から、誰かが動いていた。
昼の休憩中にカイルから集計が転送されてきた。
【査問集計:賛成90/反対23/保留14】
昨日より二票下がっていた。
だが俺の頭の中にあったのは数字より、オルリ代表が言った「一月前」という言葉だった。一月前というのは、査問会が始まる直前だ。つまり誰かが、この査問が始まることを見越して、各国に情報を流していた。
見越していたのではなく——仕組んでいた、という言い方の方が正確かもしれなかった。
宿に戻ったのは日が傾き始めた頃だった。
カイルの部屋の扉を叩くと、今度はすぐに返事が来た。
「入れ」
朝より声に張りがあった。眠れたわけではないだろう。でも何かを見つけたときの声というのがある。疲労と興奮が混ざって、普段とは別の方向に焦点が合っている。
部屋の中は書類で埋まっていた。
朝見たときより多かった。壁際に積み上げられた冊子、卓に広げられた連合の公式記録、その上に走り書きのメモが何枚も重なっていた。カイルは床に座り込んで、三枚の書類を並べて見比べていた。
「何を見つけた」
「流れだ」
カイルが床の書類を指で示した。
「意見書の草稿が配られた時期。それを受け取ったと思われる国の動きの変化。查問が始まってから匿名の情報が国内の広報文書に流れた件数。全部、時系列で並べると——同じリズムになる」
俺はカイルの隣に腰を下ろして、指さされた書類を見た。
数字と日付の羅列だった。素直に読むと意味がわからない。でもカイルが線で結んでいた。連合查問の開始を起点として、一週間おきに匿名情報が流出し、その三日後に特定の国が行動を変えている。
「一人じゃ動かせない量じゃないか、これ」
「一人ではない」カイルが言った。「ただ、指示を出している人間は一人だ」
「なぜそう言える」
「文体だ」
カイルが一枚の書類を取り出した。匿名の意見書の写しだった。
「連合内を流通した三十七通の匿名文書を入手した。ウラン、ロイム、ナフェに届いたものも含む。全部、違う内容が書いてある。でも——」
彼は別の写しを横に並べた。
「句読点の打ち方が同じだ。段落の長さの平均が一致する。特定の言い回しが繰り返される。書き手が意識していない癖というのは、なかなか消えない」
俺はその二枚を見比べた。
確かに、似ていた。違う内容を装っているが、骨格が同じというより——同じ人間の呼吸で書かれている。
「連合の情報管理部門の記録を遡った」とカイルが続けた。「三年前から、内部文書の配布履歴に規則性がある。特定の担当者が絡んでいる案件だけ、情報の広がり方が均一になる。まるで均質に設計されているように」
「その担当者が、草稿を書いた人間だ」
「おそらく」
カイルが立ち上がった。
窓の外、日が沈みかけていた。ヴァリスの街は夕暮れに染まって、遠くで鐘の音がした。
「名前を調べた」
カイルが短く言った。
俺は振り返った。
「連合の情報管理部門に長く勤めている人間で、今の担当者層に大きな影響力を持つ官吏。過去十年の内部記録に名前が頻繁に出る。三年前から五年前にかけての大規模な世論調整プロジェクトに必ず関与している」
「その人間の名前は」
カイルが一枚の紙を俺に渡した。
書かれていたのは、ひとつの名前だった。
「レイラ」
俺はその名前を声に出してみた。
聞き覚えがなかった。まったく、どこにも引っかかりがなかった。迷宮の知性体から聞いたことはない。王国側の人間から出た名前でもない。ゴブも、カーラも、フォルも、セルディンも、この名前を口にしたことがなかった。
「俺は知らない」
「俺も知らなかった」カイルが言った。「だから調べた」
「続きはわかったか」
「今日調べた分だけでは、まだ足りない」カイルが率直に言った。「ただ——一つだけ確かなことがある」
「なんだ」
「この人間は、俺たちがここに来るずっと前から動いていた。査問会が始まる前から。おそらく、連合が決議を立ち上げる前から」
俺は書類を見た。
カイルの言う通りなら、処分を最初に設計した人間と、裏で扇動し続けている人間は、同一かもしれなかった。
「つまり、始めから仕組まれていた、ということか」
「可能性がある」
「まあ」と俺は言った。「聞いてから判断しよう」
カイルが俺を見た。
「……今は、その言葉が素直に入ってこない」
「俺もだ」
俺は正直に言った。
聞いてから判断しよう、と言ったのは、動揺を抑えるためでもあった。こういうとき、言葉に引っ張ってもらわないと、思考が焦りの方へ流れる。それはわかっていた。ただ今夜は、言葉が自分でも少し空回りしているのが感じられた。
「レイラという人間に、会いに行けるか」
「会うだけなら、連合に在籍しているなら可能なはずだ」カイルが答えた。「ただし——向こうが会う理由があるかどうか」
「向こうが拒否するなら、それはそれで動きが見える」
カイルが少し間を置いてから、「そういう考え方をするんだな、お前は」と言った。
「そういうものだろう」
「普通は腹が立つ」
「腹は立ってる」と俺は言った。「ただ、腹が立ったままで話しにいくと損だ」
カイルは何も言わなかった。
俺もそれ以上は言わなかった。
夜が来た。
カイルは書類の整理を続けていた。俺は宿の廊下に出て、外を見た。ヴァリスは夜でも明るい。大きな都市は暗くなりきれない。どこかに人の動きがあって、それが光を作る。
三年前、ゴブが第七迷宮の扉をノックした夜、俺は何を考えていたんだろう、とふと思った。
怖かったのは覚えている。でもまず、聞いた。聞いてから怖がることにした。それがいつの間にか習慣になっていた。
廊下の奥からカイルの声がした。
「レン」
振り返ると、カイルが書類を一枚手に持って立っていた。
さっきより顔色が固くなっていた。何かを見つけた顔ではなく——何かを確かめて、予想していたより大きかった、という顔だった。
「何か出た」
「レイラという人間の、過去を調べていた」
「わかったのか」
「少しだけ」
カイルが俺の隣に来た。
二人で並んで、廊下の窓から夜のヴァリスを見た。
「連合の古い記録に、この名前が一度だけ出てくる」カイルがゆっくり言った。「溢出の被害者台帳に近い記録だ。魔王軍との戦争があった頃の」
俺は黙っていた。
魔王軍との戦争。俺が第七迷宮の門番になるより前のことだ。その時代に、何があったのか。誰が傷ついたのか。俺は詳しく知らない。知る機会もなかった。
「何があったんだ」
「詳しくはまだわからない」とカイルが言った。「ただ——台帳には、家族を失ったと記録されている。村が、戦争の中で」
長い沈黙があった。
夜風が廊下に入ってきた。
俺はその名前をもう一度、頭の中で繰り返した。
レイラ。
俺が知らない名前。でも俺が作った平和の、影の中にいた名前。
「レン」
カイルが言った。声が、かすかに低かった。
「……この名前、知ってるか」
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