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門番、魔王軍と交渉する〜ハズレジョブでも、話を聞く奴が世界を動かす〜  作者: ハル
門番、世界と話す

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第216話「カイルの限界」

ドヴァンが「保留にする」と言ったのは、昨日の夕刻だった。


傭兵斡旋国クラナドの代表は、交渉の最中ずっと「でも」を重ねていた。「理屈はわかる、でも」「悪いとは思わない、でも」「可能性はある、でも」——「でも」の後に続く言葉がだんだん具体的でなくなっていって、最終的にドヴァンは「少し、考えさせてくれ」と言った。


論破はできなかった。でも揺らした。それで十分だった。


夜、その日の報告をカイルに石で送ったとき、返信は一言だった。


「わかった」


いつもは「了解した、明日の集計に反映する」か、「それならこの国が次に動くかもしれない」か、何かが添えてある。それが、なかった。俺は少し気になったが、体が疲れていた。寝た。


翌朝——査問二十四日目の夜明け前に確かめたとき、カイルからの集計が届いていなかった。


通常、夜明けと同時に転送されてくる。ドヴァンが保留に動いたのなら、賛成91になっているはずだ。その数字が、届いていなかった。


一刻待った。石は黙っていた。もう一刻。


まあ、聞いてから判断しよう。


広場へは向かわなかった。議事堂東側の宿屋区域へ足を向けた。通りはまだ眠っていた。石畳に朝露がついていた。足の裏に、ひんやりとした冷気が靴越しに伝わってきた。ヴァリスの夏は昼間だけ暑い。朝は冷える。


カイルが借りている宿の扉を叩いた。


間があった。


「……誰だ」


「レンだ」


また間があった。「待て」という声がして、十数秒。


扉が開いた。


カイルの顔を見た瞬間、俺は無意識に一歩引いた。


目の下が落ちていた。黒ではなく——青みがかった灰色の薄い影だ。肌の色が違う。顔の輪郭はいつも通りだったが、その内側の色が抜けていた。口元は引き締まっている。立ち姿はまっすぐだ。けれど右手が——扉の縁を、握っていた。


意識して握っているのではない。自然に手が伸びて、そこに置かれていた。


支えていた。


「中に入れ」


カイルが先に戻った。俺はついて入った。



 



部屋は整頓されていた。机の上に書類が並んでいた。小さな通信石が三つ。それと大きな石が一つ。大きい石だけが、うっすらと光っていた。点滅でなく一定の、揺らぎのない光だ。


「それがフォルとの接続石か」


「そうだ」とカイルが言った。椅子に腰を下ろす動作が、普段より慎重だった。一動作ずつ、確かめながら動いていた。「常時開けておかないといけない。閉じると再接続に半刻かかる。だから、眠るときも持ったままにしている」


俺は向かいに椅子を引いた。


「昨夜も接続したままだったか」


「当然だ」


「眠れたか」


カイルは答えなかった。少し間をあけてから、「短かった」と言った。


「どのくらい短かった」


「……必要量の半分以下だと思う」


「何日それが続いてる」


カイルはまた答えなかった。今度の間の方が、長かった。


「十五日目から、徐々にだ」


俺はそれを聞いた。


十五日目から。今日が二十四日目だ。九日間。


「なぜ言わなかった」


「言う必要がなかった」と、即答だった。「お前には今、査問会に集中してほしい。余計な荷を持たせる理由がない」


「余計じゃない」


「余計だ。俺の体調は俺の問題だ。管理できる」


「管理できてるか」と俺は言った。


カイルは黙った。


机の上の書類に視線を落としたが、視線が焦点を結んでいなかった。見ているのではなく、見ているふりをしていた。



 



それから、カイルは話した。


昨夜の話だ。


フォルとの接続が揺らいだのは、深夜だった。それまで安定していた石の光が弱まり始めた。カイルの感覚の中でフォルの気配が薄れていった。完全に切れてしまう前に繋ぎ直す必要があった。それに一時間かかった。終わったとき、カイルの体が動かなかった。机で座ったまま、気づいたら夜明けを過ぎていた。


「フォルとの接続は」とカイルが言った。「普通の通信石とは違う。言葉が来るんじゃなくて、気配が来る。フォルの感情の輪郭みたいなものが、ずっと流れてくる。それを受け止め続けるのは——体じゃなくて、精神を削る。二十三日分、それをやってきた」


「それが、夜中に揺らいだ」


「昨夜で三度目だ」


俺はその数字を頭の中に置いた。


カイルがやっていることは、フォルとの接続だけではない。各国代表の動向把握と集計の管理。夜間に方々から拾った情報を統合して、俺が使える形に整えて送ってくる作業がある。加えて査問会での公式補佐、記録の確認、根回しの手伝い。


それを全部、一人で。二十三日間。


「代わりがいない」と、俺が言う前にカイルが言った。「フォルとの接続ができるのは俺だけだ。集計の管理は俺の立場があるからできる。補佐も俺じゃないと意味がない。だから全部、俺だ」


正しかった。


第七迷宮での修行を経てフォルとの接続経験があり、二代目調停者として127国の動向を把握する立場で、かつ俺の目的を誰より理解している。その三つが揃うのはカイルだけだった。否定できなかった。


「立てるか」と俺は言った。


カイルがむっとした。「失礼なことを聞くな」


「答えていない」


「……立てる」


「なら立ってみろ」


カイルは俺を一度見た。それから椅子から立ち上がった。俺は黙って見ていた。


二歩歩いたところで、カイルの右膝が折れた。


机の端に手をついて、なんとか堪えた。一秒。二秒。その状態で動かなかった。俺は立ち上がらなかった。カイルが自分でどうするかを見た。


カイルは深く息を吸った。もう一度、体を起こした。目はまっすぐ前を向いていた。


「……一瞬だ」とカイルが言った。「朝の、立ち上がり直後だけだ。動けばなおる」


「そうか」


「嘘じゃない」


「嘘とは言っていない」と俺は返した。「聞いていただけだ」


カイルは俺を見た。何かを言いかけて、言わなかった。椅子に戻り、座り直した。その動作が、さっきより慎重だった。


「お前のことを聞くのは、俺の仕事だ」と俺は言った。「聞かなければ俺は判断を間違える。十五日目からのことを教えてくれなかったら、今日も間違えていた」


「……」


「それは余計な荷じゃない」


カイルは長い沈黙の後で、「……わかった」と言った。声が、わずかに小さかった。机の上を見ていた。指先が、微かに震えていた。


九日間、一人で受け続けていた。俺のために黙っていた。その重さが、ゆっくりと伝わってきた。



 



大きな通信石が光った。


一定の光ではなく——揺れていた。


カイルが素早く手を伸ばした。石を持った瞬間、目を閉じた。何かを受け止めている顔だった。


「……フォル」とカイルが言った。「俺は大丈夫だ」


返事は言葉ではなかった。石がわずかに揺れ、光の色が変わったような気がした。俺にはそれ以上のことはわからなかった。


「わかってる」とカイルが続けた。「わかってる、フォル。でもお前は——接続を弱めるな。今から俺が少し休む。細くしながら維持する。切らない」


また光が揺れた。


「俺のことは心配しなくていい。お前は、接続を安定させることだけ考えろ」


俺は黙って聞いていた。


カイルがフォルと話す様子を、こんなに近くで見たのは初めてだった。言葉が半分しか聞こえない。残り半分はカイルの沈黙の中にある。ただカイルの表情が変わるのを見ていると、フォルが何を伝えているのかが少しだけ伝わってきた。


フォルは心配している。


カイルを。


三百年の孤独を経て、ようやく接続できた存在と二十三日間繋がり続けた。その間に何が流れていたのか、俺には推し量れなかった。でも今のカイルの顔を見て、わかったことがある。


フォルはカイルを、知っている。


「ゴブには言わないでくれ」とカイルが石から目を離して言った。「ゴブはフォルとも通じてる。知られたら——」


「来る」と俺は言った。


「そうだ。第七迷宮の門番が——」


「来させよう」


カイルが俺を見た。


「ゴブが門を離れたら、お前の言っていた後ろ盾が——」


「ゴブが門番として三年間、溢出ゼロを守り続けた」と俺は言った。「それが俺の後ろ盾だ。でも——第七迷宮の門番が仲間の危機に駆けつけた、という話にも、別の重さがある」


カイルは口を開いたまま、止まった。


そこに、小さな通信石が光った。


カイルが「これは」と言って顔を向けた。「ゴブとの接続石だ」


光は揺れていた。フォルを通じて何かが伝わったのかもしれない。あるいはゴブが自分で感じ取ったのか。



 



カイルが石を手にした。


「……ゴブか」


「カイル様」


石から声が聞こえた。ゴブの声だった。低くて、硬かった。いつものゴブより声が低い。何かを決める前の、あの声だ。俺は聞いたことがある。ゴブが査問への同行を断られた夜も、こういう声だった。


「フォルから感じたことがある」とゴブが言った。「接続が細くなってる。フォルが絞ったのか、それとも——」


「俺が少し疲れているだけだ」とカイルが言った。


間があった。


長い間だった。


「……そうか」


また間。


石の光が揺れた。揺れ方が変わった。強くなっていた。


「カイル様」


「なんだ」


「……無理をするなと」とゴブが言った。「レンに、伝えてくれ」


カイルが俺を見た。俺は小さく頷いた。


「伝えた」とカイルが言った。「レンが今、ここにいる」


少しの沈黙。


「……そうか」


また沈黙。


朝の光が、窓から部屋に入り込んでいた。石が揺れていた。どこかで鳥が鳴いた。


「いや」


ゴブの声が言った。


静かだった。でも揺らがなかった。


「伝えなくていい」


間。


「俺が今から行く」



 



カイルが口を開きかけた。


止まった。


何か言おうとして、言葉が来なかったのか、あるいは来たけれど選べなかったのか。


石の光が落ち着いた。ゴブの声はもう来なかった。もう決めた後の、静かな沈黙だった。


俺はカイルを見た。カイルは石を机に置いた。ゆっくり、丁寧に置いた。


「……俺のせいで」とカイルが言った。


「ゴブが来たいから来る」と俺は言った。「それだけだ」


カイルは黙った。


窓の外で風が通り過ぎた。しばらくの後、「……いくつかのことが心配だ」と言った。


「後で話せ。今日は俺一人で出る。お前は眠れ」


「フォルとの接続は——」


「細くしながら維持すると言っただろう。フォルも無理はしない」


「それは信用する」とカイルが言った。少し間をあけて、「フォルは——賢い」と付け加えた。何でもない言い方だったが、二十三日間の中で積み上げたものが、その一言にあった。


俺は立ち上がった。


「集計は今日分は俺が拾う。夜にまとめて送る」


「お前が集計を」


「やれるかどうかは別として、やる」


カイルが少しだけ、何かを言いそうな顔をした。言わなかった。代わりに小さく「……まあ」と言いかけて、止まった。


「なんだ」


「……なんでもない」


俺はカイルを見た。カイルは横を向いていた。


まあ、なんだったのかは、後で聞こう。


部屋を出る前に、机の石の数字を確かめた。カイルが昨夜のうちに整理していた、最新の集計だった。


【査問集計:賛成91/反対22/保留14】


【共存協定 自動失効まで:あと74日】


74日。


ゴブがヴァリスまで来るのに、早くて十日かかる。その間に動かさないといけない票がある。でも今朝、ゴブは動いた。


「俺が今から行く」——あの声が、まだ石の光の中に残っているような気がした。


俺は廊下に出た。足の裏に、宿屋の板張りの冷たさが伝わってきた。

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