第214話「呑み込んだ言葉」
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査問開始から二十二日目の朝は、霧が出ていた。
議事広場の石畳が白く煙って、傍聴席の遠い端まで見通せない。それでも席は埋まっていた。レンが到着したとき、一番乗りの観衆がすでに最前列に陣取って、売り子から温かい焼き菓子を買っている最中だった。
三週間前には想像もできなかった光景だ。
「今日は霧ね」
カイルが隣に並んで、空を見上げもせずに言った。集計板を脇に抱えていて、目の下に薄い影がある。昨夜もほとんど寝ていないのだろう。
「寝たか」
「三時間は寝た」
「少ない」
「五時間より多ければ文句を言う」
言い合っている間に、セルウィンが壇上に上がってくるのが見えた。今日も葡萄色のマントを肩にかけて、いつも通り背筋が真っすぐだ。ただ、目が合った瞬間にわずかに視線を外した。それがレンには少し気になった。
「今日の相手は」
「デルタ諸島のキロ・レインが昨日の続き。午後にティーラ王国のガストが来る」
「ガストはどんな人だ」
「壮年の武人。騎士道を重んじる国の代表。真正面からぶつかってくるタイプだと思う」
「それはわかりやすい」
「話を聞いてくれるかは、別の問題だがな」
カイルがそれだけ言って、先に壇上へ向かった。
午前は、昨日からの続きだった。
デルタ諸島連合のキロ・レインは、小柄な女性だ。三十代半ばで、漁師上がりらしく手が大きい。昨日の対話が途中で時間切れになっていたので、今朝は再開から始まった。
「昨日の続きを聞かせてもらえますか」
レンが正面に座って言うと、キロは少し面食らったような顔をした。
「……昨日、あなたが何を聞いたか、覚えていますか」
「個人としてどう思うか、でしたよね」
「そうです」
短い返答だった。
キロが机の上で両手を組んで、しばらく考えた。傍聴席がほとんど息をするのも遠慮しているような静けさになる。
「私は——漁師の出です。海から食べ物をもらって生きてきた。その海で、魔物に弟を失っている」
「それは、聞いていませんでした」
「昨日は言わなかった。代表として話すと決めていたから」
「今日は」
キロが顔を上げた。
「今日は、個人として答える。弟を失った怒りは、今でもある。消えていない。でも——」
一拍あった。
「あなたが言う「迷宮の知性体」と「海の魔物」が、本当に別物なら。私の怒りは、違う方向を向いていたことになる」
「そうかもしれない、という話ですが」
「そうかもしれない、で十分です。私は漁師の娘で、海のことしかわからない。でも「わからない」のに賛成票を入れ続けるのは——弟も喜ばないと思う」
静かな告白だった。
感情的でも、説得でもない。ただ一人の人間が「わからない」と口にするのに、三週間かかったというだけの話だ。
「キロさん、聞かせてくれてありがとうございます」
「礼を言うのはこちらです」
キロが立ち上がって、軽く頭を下げた。そのまま席に戻りながら、カイルに転票の意思を伝える。
カイルが集計板を更新して、レンに向けた。
【査問集計:賛成93/反対22/保留12】
一票が動いた。
大きいと言えば大きいし、小さいと言えばとても小さい。
レンは数字を見ながら、キロが「弟も喜ばないと思う」と言ったことを、しばらく頭の中に置いていた。
午後になっても霧は晴れなかった。
むしろ濃くなって、傍聴席の遠端がぼんやり溶けて見える。そんな中でティーラ王国のガスト代表が壇上に上がってきた。
体格のいい男だ。五十代で、白髪交じりの顎髭がある。歩き方が軍人のそれで、座っても背もたれに体重を預けない。
「レン・アシダ殿、とお呼びすればよいか」
「レンで構いません」
「では、レン殿」
ガストが机の上で両手を組んだ。大きな手だ。指の節が固い。
「私はあなたに対して、個人的な怒りはない。ただ、わからないことがある」
「聞かせてください」
「あなたは——怖くないのか」
予想していない問いではなかった。けれど、この問いをこれほど率直に投げてくる人間は少なかった。
「何が、ですか」
「この場が。百を超える国が、あなたを断じようとしている。普通の人間なら怯えて当然だ。なのにあなたは、一国ずつ話を聞いて回っている。それが——理解できない」
「怖くないわけじゃないですよ」
「では、なぜ聞ける」
「聞かないと損だと思ってるから、です」
ガストが眉を上げた。
「損、か」
「聞かないまま結論が出たとして、その結論は正しいと思えるかどうか。そっちの方が怖いので」
「……騎士道にも、似た言葉がある」
ガストが少し遠くを見るような目をした。
「「戦う前に、敵の話を聞け」。ただし、この場でそれを実践する者はほとんどいなかった」
「なぜですか」
「聞いてしまうと、斬れなくなるから、だ。感情が邪魔をする」
「それは、正直な言葉だと思います」
ガストが短く息を吐いた。
「あなたは——私の国を説き伏せに来たか」
「来ていない、と言ったら嘘になりますが。でも今は、あなたが何を怖れているかを聞きたいと思っています」
「聞いてどうする」
「聞いてから判断します」
それがレンの素直な答えだった。
まあ、聞いてから判断しよう。
口癖が自然に出た。ガストがそれを聞いて、少し不思議そうな顔をした。
「……そういう習慣か」
「ずっとそうしてきました」
「怖くないのか、と聞いた。あなたは怖くないわけじゃないと言った。それは本当か」
「本当です」
「なら——今も怖いか」
「今も怖いですよ。毎日少しずつ怖いです」
ガストがまた押し黙った。
長い沈黙だった。傍聴席が完全に静まり返っている。遠くで売り子が何か声を上げていたが、それもいつの間にか止んでいた。
「……保留にしておく」
ガストが最終的にそう言った。
転票ではなかった。賛成から保留だ。それでもレンは「ありがとうございます」とだけ言った。
ガストが席に戻る間際に、一度振り返った。
「あなたは——変な奴だな」
「よく言われます」
「それが最大の武器だ」
そう言って、ガストは席に戻った。
カイルが集計を更新する。
【査問集計:賛成92/反対22/保留13】
休憩が入って、レンは水を飲んでいた。
今日だけで二票動いた。悪くない。そう思う一方で、まだ九十二票が賛成側にいる事実は変わらない。過半数の六十四を下回るまでの距離を考えると、まだ遠い。
「今日はここまでか」
カイルが横に座りながら言った。
「セルウィンが締めに何か言いそうだな」
「毎日言ってる」
「今日は何を言う気だ」
「さあ。でも——少し様子がおかしい」
カイルが水筒を傾けながら、ちらと壇上の方を見た。
「朝から落ち着きがない。いつもは完璧に整ってるのに、今日は二回、書類を持ち直した」
「気づいてた」
「気づいてたなら言えよ」
「言ったところで変わらないし」
カイルが低い声で「悪い癖だ」と言った。レンは否定しなかった。
休憩が終わって、セルウィンが壇上に戻ってきた。
今日の締めくくりの講評、という名目の時間だ。最初の頃はレンへの批判が大部分だったが、最近は少し変化している。批判は続けているけれど、言葉の選び方が微妙に変わってきた。
「今日の査問を振り返ります」
セルウィンが正面を向いて、落ち着いた声で始めた。
「デルタ諸島・キロ代表は、個人の事情を述べて転票した。ティーラ王国・ガスト代表は、保留を選んだ。——どちらも、感情的判断と言える」
それは批判だ。
だがレンには、セルウィンの声がどこか硬い、という印象があった。
「この査問は、国家としての利益と安全保障に基づいて判断されるべきものです。個人の体験談や、感情的な共鳴で票が変わるべきではない」
傍聴席がざわついた。ざわめきの内側に、反発の色があった。
「しかし——」
セルウィンが、そこで一瞬、止まった。
わずかな間だった。コンマ一秒ほどの、息を整えるような止まり方だ。
「しかし、この手続きが公正に行われているかどうかは、別の問題として——」
また止まった。
今度は長かった。
レンがそれを見ていた。
セルウィンの顔が、ほんのわずかに動いた。口元だけが、何かを形作りかけて、やめた。
「——まあ、聞いて——」
その言葉が、空気に溶けかけた。
確かに聞こえた。
レンには確かに聞こえた。
その瞬間、セルウィンが自分の口を止めた。咳払いが一つ出た。わざとらしいほど唐突な咳だった。書類を手に取って、視線を下げた。
「……各国は、明日の査問に向けて準備を整えてください」
締めくくりの言葉が、それだけだった。
いつもより短かった。
傍聴席が「あれだけか」という雰囲気になったが、セルウィンはもう書類を持って背を向けていた。
「……次の国を、呼べ」
壇の端の補佐に向かって、セルウィンがそれだけ言った。
声が、ほんの少し上ずっていた。
レンはそれを聞いていた。ただ、聞いていた。
夜になって、宿の部屋でカイルが集計を確認していた。
「今日の分まで入れると、【賛成92/反対22/保留13】だ」
「わかった」
「ガストが保留に動いたのは大きい。ティーラは軍事同盟の要だ。連鎖する可能性がある」
「かもな」
「——何かあったか」
カイルが顔を上げた。レンが珍しく考え込んでいる顔をしていたのを、気づいたのだろう。
「セルウィンが、今日、何かを言いかけた」
「何を」
「聞いてから——まで言った」
カイルが黙った。
しばらく黙っていた。
「……本当に」
「俺の聞き間違いかもしれない。でも、聞こえた」
「聞き間違いじゃないだろ」
カイルが水筒を置いて、壁に背をもたせかけた。
「あいつは、頭のいい人間だ。俺より頭がいい。ずっとこっちの手を見てて、次の手を先に読もうとしてる。そのセルウィンが——お前の口癖を言いかけた、ということは」
「染みてるんだろう」
「染みてる、か」
カイルが小さく笑った。笑いの中に、疲労がある。
「お前は三年前から変わらないな」
「何も変わってないよ」
「変わってないのに、周りが変わってく」
「そういうもんじゃないか」
カイルがまた黙った。今度は少し長かった。
「——明日はどこの国だ」
「カイル、お前寝ろ」
「寝る。でも、答えろ」
「クラナドと、あと二国」
「クラナドは傭兵斡旋国だ。平和が続いて商売あがったりだと言ってたやつか」
「昨日、「考えさせてくれ」と言ってた。今日の続きが来る」
「それは難しい部類だな」
「そうだな。でも——来る、ということはまだ話す気があるということだ」
「まあ、聞いてから判断しよう、か」
カイルが口癖をそのままの形で言った。からかいでもなく、真似でもなく、ただそのまま言った。
その言葉がこの三年で何度も何度も、いろんな人間の口から出てきたのをレンは知っている。ゴブが言ったとき。カーラが別れ際に笑いながら言ったとき。外から来るものが初めて言ったとき。
それぞれに、少しずつ重みが違った。
カイルのそれは、今は当たり前の呼吸に近い。もうこの言葉はカイルのものでもある。
「寝ろ。明日早い」
「わかってる」
カイルが立ち上がった。部屋を出る手前で、一度止まった。
「——セルウィンが、もし最後まで言ったら」
「そのときはそのときだ」
「それはそれで、どういう意味だ」
「言えた人間は、もう俺の敵じゃない、ってことだよ」
カイルが少し考えるような顔をした。それから「そういうもんか」と言って、部屋を出た。
扉が閉まって、一人になった。
レンは机の上の集計板を見た。
【査問集計:賛成92/反対22/保留13】
【共存協定 自動失効まで:あと66日】
九十二という数字を見ながら、セルウィンの口元を思い出した。言いかけて、止めた。咳払いで塗りつぶした。視線を書類に落とした。
言えなかった。
それでいい。今日は言えなかった。
言いかけたという事実は、もうどこかに残った。次に同じ言葉が来たとき、セルウィンは今日のことを思い出す。
急かすことでもないし、待つことでもない。
まあ、聞いてから判断しよう。
レンはそう思いながら、外の霧が窓の向こうで白く光っているのを見ていた。
明日もこの問いは続く。
セルウィンは明日、また壇上に立つ。
その口が次に何を言うか——それは、まだ誰も知らない。
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