第213話「二十番目の椅子」
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傍聴席の空気が変わったのは、いつ頃からだろう。
俺には正確な日付がわからない。ただ気がつけば、最前列に座る顔ぶれが入れ替わっていた。
最初の頃は、各国の書記官や補佐官が義務で詰めていた。メモを取るための人間、記録するための目。そういう席だった。それが最近、そうではない顔が増えてきた。商人風の男、武器を持たない若い女性、子供を連れた市民と思しき人物。
昨日は、後ろのほうで屋台のチーズパンを頬張りながら聞いている老人がいた。
今日、俺がそれに気づいたのは、開会前の静かな時間だった。議事堂の扉がまだ完全には開いていない時間。傍聴席への入り口に列ができていて、その最後尾に十二、三歳くらいの少年が一人で立っていた。
大人たちの背中の隙間から俺を見ていた。目が合った。
少年は逃げなかった。
「……」
俺も逃げなかった。ただ小さく頭を下げると、少年は驚いたように目を見開いて、それからぎこちなく会釈を返した。
それだけの話だ。だが、それがその日の一番最初の出来事で、なぜか頭に残った。
査問開始から数えて、二十日目だった。
「本日の対話相手は——」
セルウィンが議事台の前で書類を広げながら言った。声の質が変わっている。最初の日と比べると、ほんの少しだが——そう、ほんの少しだが、どこか軽くなっていた。それを本人が自覚しているかどうかは別として。
「ロイム連邦の代表、エスタ・ドーン卿。それから、昨日から「名乗り出たい」と申し入れが来ているデルタ諸島連合。二国との対話を予定している」
カイルが隣から紙を差し込んできた。
【査問集計:賛成94/反対21/保留12】
昨日から動いていない。変化のない数字を見るのも、もう日課になった。
「ロイム連邦から始める」と俺は言った。「異議はあるか」
セルウィンが俺を見た。異議を申し立てる顔でも、認める顔でもなかった。ただ見ていた。
「……進めろ」
ロイム連邦の代表、エスタ・ドーン卿は背が高かった。
六十代と思われる、白髪交じりの短い顎鬚の男。立っているだけで場所を取る印象がある。連邦は三つの中規模国家が合併した形をとっていて、代表はその中で最大の国の出身だと事前にカイルから聞いていた。
賛成票の出どころは最大国にある。それは確からしい。
「エスタ卿」と俺は言った。「今日は聞きに来ました」
「知っている」とエスタは言った。「その前置きは毎回なのか」
「毎回じゃないです。でも、あなたには言っておきたかった」
エスタは少し間を置いた。
「……なぜ私に」
「卿は三か国の合意を取りまとめるポジションにいる。一人で決められる人間ではないということを、俺は知っています。だから今日の話はあなたの"答え"を求めるつもりがない。ただ聞きたいんです。あなたが三か国の間でどういう話をしてきたか」
エスタが眉を動かした。
「……答えを求めないのか」
「求めても出ないでしょう。あなたには出せない。今は」
長い沈黙があった。傍聴席が静まり返る。
「……正直な男だ」とエスタはようやく言った。「おかしな正直さだが」
「よく言われます」
「連邦内の最小国、ソルテは反対に回りたいと言っている。最大国はこれまでの関係上、連合の意向に従うべきだと言う。真ん中のアハネは、どちらでもいいが最大国に合わせると言う」
「それは、最大国の意向次第ということですか」
「そうなる」
「では最大国は、なぜ連合の意向に従いたいんですか」
沈黙が戻った。今度は少し種類が違う沈黙だった。
エスタはゆっくりと息を吐いた。
「……三十年前の大戦で、最大国は連合に助けられた。負債がある。感情的な負債だが、政治の場に感情は出せない。だから論理に変換される。連合が言うことには従う、という形に」
「その負債は、連合に対してですか。それとも、あなたを助けた人たちに対してですか」
エスタが俺を見た。
「……違いがあるか」
「あると思います。連合という組織への感謝と、助けてくれた具体的な誰かへの感謝は、別物のはずです。その人たちは今、あなたにどっちへ投票してほしいと思うでしょうか」
エスタはしばらく何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
焦らない。これは答えを出させる時間じゃない。ただ聞かせた上で、考えてもらう時間だ。
「……わからん」
エスタはそう言った。「三十年前に死んだ者には聞けない」
「そうですね」と俺は言った。「でも、聞けない相手の気持ちを考えるのは、あなたにしかできません」
その言葉でエスタは視線を下げた。
結果として、ロイム連邦は保留に動いた。賛成から保留へ。数字上は小さい変化だが、三か国の合意で賛成を入れていた連邦が動いたという事実は小さくない。
【査問集計:賛成93/反対21/保留13】
カイルがすぐに紙を回してきた。数字を見る。エスタが戻っていく後ろ姿を見る。
高い背中が、少しだけ——ほんの少しだけ、軽そうに見えた。
午後の対話相手、デルタ諸島連合の代表は若かった。
三十代前半と思われる女性で、名前はキロ・レイン。見た目の印象は「急いでいる人間」だった。常に何かを処理している気配がある。
「昨日から名乗り出ていましたね」と俺は言った。「最初からそのつもりでいたんですか」
「ずっと考えていました」とキロは言った。「名乗り出るべきかどうか」
「何が決め手になりましたか」
キロは少し考えた。考えてから言葉を選んだ。
「……傍聴席に、うちの島の出身者がいました。観光で来ていた商人です。昨日、その商人が「話を聞くくらいならしてもいいんじゃないか」と私に言ったんです」
「自分の国民に」
「ええ。観光で来た商人に、です」
俺は少し考えた。観光で来た商人が、自分の国の代表に「話を聞いてみろ」と言う。それはどういう場面だったのだろう。
「面白い」と俺は言った。
「どこがですか」
「代表が商人に説得された、というのが面白い。本来、逆の力学になりそうなのに」
キロは苦笑した。「私も同感です。でも、そういう人間ですから、私は。話を聞いてから動く」
「——まあ、聞いてから判断しよう、ですね」
自分の口癖が出た。キロはそれを聞いて、少し目を細めた。
「それ、何度か聞きました。いろんな人の口から。あなたが言い始めたと聞きましたが」
「俺が最初かは知らないですが、よく言ってます」
「デルタ諸島では、漁師がよく言うんです。「まず潮を見てから」という言葉で。似ているかもしれない」
俺はそれを聞いて、なるほど、と思った。同じことを別の言葉で言っている人間は、どこにでもいる。「話を聞く」は珍しい能力じゃない。俺がそれを口癖にしているだけで、形の違う言葉として、あちこちに最初からあったのだ。
「デルタ諸島は、なぜ賛成票を」とキロに聞いた。
「最初に入会した時の加盟条件に、連合主導の安全保障決議には従う、という項目がありました。今回はその発動です」
「条件を理由に」
「はい。義務です」
「あなた個人はどう思いますか」
キロは少し黙った。
「……個人的には、処分に反対です。正直に言えば。三年間の共存協定は、うちの島でも機能していました。交易ルートが一本増えて、漁師の収入が上がった。子供たちが腹を減らす日が減りました」
「それなのに、条件だから賛成票を入れていた」
「義務だから。それだけです」
「ファビラのアリシャ卿と、似ているかもしれない」と俺は言った。
キロは驚いた顔をした。
「……アリシャと話したんですか」
「昨日、話しました」
「彼女も同じだと」
「詳しくは言えませんが、義務と感情の間で揺れているという意味では、似ていると思いました」
キロはしばらく考えた。傍聴席が静まり返っていた。隣でカイルが新しい紙を用意しているのがわかった。
「……アリシャが動いたら」とキロは言った。「私も動けます。条件の解釈は、連邦内の合意次第です。似た状況の国が動いたという前例があれば、解釈の幅が出る」
「それは、名乗り出てくれた理由の一つでしたか」
キロは少し笑った。「賢いですね」
「そういうつもりじゃないですが」
「でも、そういうことです。ファビラがどう動いたか、私は気にしていました。だから昨日から名乗り出た」
デルタ諸島連合はその日のうちに保留に移った。賛成から保留へ。
【査問集計:賛成92/反対21/保留14】
二国が動いた一日だった。数字の推移としては悪くない。だが、俺はその数字よりも別のことを考えていた。
ファビラが動いたからデルタが動いた。デルタが動いたという事実は、明日以降に別の誰かを動かすかもしれない。石が水に落ちると、波紋が広がる。それは俺が計算して起こしているわけじゃない。ただ一つずつ聞いているだけで、いつの間にか繋がりができていく。
これが、二十日間の積み重ねだ。
夕方、議事堂の外に出た。
秋の日暮れは早い。建物の影が長く伸びて、広場の石畳を斜めに横切っていた。冷たい空気の中に、どこかの屋台から漂う焼き魚の匂いがあった。カイルは集計の最終確認のために中に残っている。ガレスも今日は別件で動いていた。
俺は一人で広場を歩いた。
「——あの」
声をかけられた。振り向くと、朝に目が合った少年が立っていた。
一人だった。保護者は見当たらない。
「俺に話しかけてるか」と俺は言った。
少年はうなずいた。耳のあたりまで伸びた髪が風に揺れていた。
「あなたが……脅威の人ですか」
「そう言われてるな」と俺は言った。「掲示を見たか」
「見ました。でも、絵と全然違う」
「そうだな。俺も驚いた」
少年は少し笑った。緊張していたが、笑うと少し年相応に見えた。
「何か聞きたいことでもあるか」と俺は聞いた。
「……次は、うちの国になりますか」
「うちの国?」
「エイラ。小さい国です。知らないかもしれない」
「聞いたことがある」と俺は言った。「確認するが——エイラは今、賛成票を入れているか、保留か」
少年は少し考えた。「賛成、だと思います。代表の人がそう言ってたのを聞きました」
「そうか」
「でも」と少年は言った。「うちのお父さんは、魔物に助けてもらったことがある。だから、処分が正しいとは思えないって言ってました」
俺は少年を見た。
小さい肩。汚れた靴。一人で来たということは、誰かに言われてきたのではなく、自分で来たのだ。
「お父さんは代表に話したか」と俺は聞いた。
「……わからない」
「話してみるといいと思う。俺に言っても、俺はエイラの代表と話す機会がないかもしれない。でも、お父さんなら話せる」
少年は首を傾けた。
「話を聞いてもらえますか。代表に」
「わからない」と俺は言った。「聞いてもらえないかもしれない。でも——まあ、聞いてから判断しよう。聞いてみるだけは、ただだ」
少年はそれを聞いて、しばらく黙っていた。
風が一度強く吹いた。少年の髪が乱れた。
「……そうですね」と少年は言った。「聞くだけなら、ただですね」
「そうだ」
少年は何秒か俺を見てから、また小さく会釈をして、広場の向こうへ歩いていった。
俺はその背中を見送った。
人類連合の査問会。百二十七の国の代表。それが舞台で、俺は毎日そこで話をしている。だが今、広場で一番真剣に聞いていたのは、傍聴席に来た名前も知らない少年だったかもしれない。
石は落ちる。波紋は広がる。どこまで届くかは、石にも知らせない。
宿に戻ると、カイルが集計を終えて待っていた。
「今日の分」と言って、紙を渡してくる。
【査問集計:賛成92/反対21/保留14】
「二つ動いたな」とカイルは言った。椅子に深く腰掛けて、目の下に影が出ていた。「ロイム連邦が賛成から保留へ。デルタ諸島連合も同じく」
「疲れてるか」
「問題ない」とカイルは即答した。
「噓つくな」
カイルは少し黙ってから「……問題はある。ただし致命的ではない」と言い直した。
「ゴブが来るか」
「来ると言ってる。あと三日か四日」
「それまで倒れるなよ」
カイルは鼻で笑った。それ以上は何も言わなかった。
俺も黙って、紙に目を落とした。
九十二。
最初の九十七から、二十日で五つ動かした。数字の推移だけ見れば、遅い。失効まで五十二日。このペースで間に合うか、計算は難しい。
だが——
傍聴席の顔ぶれは変わっている。最初は義務で座っていた人間が、今日は「見たい」と来ている。少年が一人でやってきた。デルタの代表は観光商人に背中を押された。
数字には出ない部分が動いている。そのことは間違いない。
問題は、その動きが票に変わる前に、時間が尽きることだ。
「レン」
カイルが言った。
「なんだ」
「今日、傍聴席で変わったことがあったか」
俺は少し考えてから、「少年がいた」と言った。「一人で来ていた」
「少年?」
「エイラの国の子供、らしかった。お父さんが魔物に助けてもらったと言っていた」
カイルが眉を寄せた。
「エイラか。賛成票だな、今は」
「そうらしい。その子が言っていた」
「……何か話したのか」
「お父さんに代表へ話してみるといいと言った。それだけだ」
カイルはしばらく考えた。それから、少し声のトーンを落として言った。
「……傍聴席が変わってきたのは、俺も気づいてる。だがレン、その変化をセルウィンも見ているはずだ」
「わかってる」
「明日以降、何かを仕掛けてくる可能性がある。ゴブが来る前に」
「そうだな」
「備えはあるか」
俺は少し考えてから言った。
「備えって何だ。俺にできることは、明日も一国ずつ聞くことだけだ」
カイルは何も言わなかった。
部屋の外で風が鳴っていた。秋の夜の、少し硬い風。窓の向こうに街の灯りが小さく見えた。その明かりの一つ一つに、誰かが住んでいる。
明日の傍聴席に、また誰かが来るかもしれない。
まあ、聞いてから判断しよう。
それだけだ。
翌朝、開会前の議事堂に入ると、カイルが珍しく俺より先に来ていた。
顔を見た瞬間、何かが違うとわかった。
「どうした」
カイルが紙を差し出した。普段の集計転送の形ではなく、直接手渡しだった。
受け取る。
そこには数字があった。
【査問集計:賛成92/反対21/保留14】
変化はない。だが、その下に別の文字があった。
カイルの字で書かれた一行。
「——今朝、セルウィンが傍聴席を閉鎖する動議を連合執行部に出した。理由:「査問手続きの中立性を担保するため、一般市民の傍聴は不適切」」
俺は紙を持ったまま、少し静止した。
傍聴席を、閉める。
二十日間で変わってきた、あの顔ぶれを。観光商人を。昨日の少年を。
セルウィンには見えていた。俺と同じように、あの変化が見えていた。だから動いた。
「議長オルディーンは」と俺は言った。
「まだ決定していない」とカイルは言った。「だが、今日中に判断が出る」
俺は議事堂の扉を見た。
まだ閉まっている。開会まで、あと少しある。
傍聴席の入り口の列。今日も誰かが並んでいるはずだ。もしかしたら、あの少年がまた来ているかもしれない。
俺にできることは、今日もただ聞くことだけだ。
だが——もし傍聴席が閉じられたなら、その積み重ねが断ち切られる。
「カイル」
「わかってる」とカイルは言った。俺が何を言いかけたかを、先に読んでいた。「策を考える。ただし——」
カイルはそこで一度止まった。
「傍聴席を守るために、動議に対して俺たちが抗議するのは逆効果だ。連合の手続きに横から口を出したと見られる」
「そうだな」
「動かすとしたら——閉鎖に反対してくれる国が要る。それも、俺たちの仲間からではなく、今まで賛成票を入れていた国から」
俺は少し考えた。
賛成票の中から、傍聴席の閉鎖に反対してくれる国。
昨日、保留に動いたロイム連邦のエスタ。デルタのキロ。どちらもギリギリ動いたばかりで、次の一手を出す余裕はまだないかもしれない。
では、誰が。
「エイラ」と俺は言った。
カイルが俺を見た。
「昨日の少年の話か」
「代表に話を聞いてみろと言った。もし少年がお父さんに伝えていたら——そしてお父さんが代表に伝えていたなら」
「一晩で動くか」
「わからない。でも、まあ——」
俺は言いかけて、止まった。
カイルが小さく笑った。珍しい表情だった。
「聞いてから判断しよう、だろ」
「そうだ」
「では、開会前にエイラの代表に話を聞きに行けるか」
「行ってみる」
カイルが頷いて、別の紙を取り出した。エイラの代表の控え室の番号が書いてある。準備が早い。
俺は紙を受け取りながら、廊下を見た。
議事堂の壁の向こうで、傍聴席の入り口に列ができているはずだった。その列の中に、昨日の少年がいるかどうか。
俺には見えない。
ただ——
「次は、うちの国かな」と少年は言っていた。
そう言った少年は、お父さんに話を伝えたかもしれない。お父さんはエイラの代表に話を届けたかもしれない。
あるいは、届けていないかもしれない。
まあ、聞いてから判断しよう。
廊下を歩き始めた。傍聴席の閉鎖動議と、残り五十二日と、九十二という数字を抱えながら、今日も一つずつ、歩いていく。
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