第212話「分断ではなく直視」
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セルウィンが演説を終えた瞬間、広場の空気が固まった。
音が消えたわけではない。鳥の声も、遠くの馬車の音も聞こえていた。でも人間が発する音だけが、ふっと途切れた。百人以上の代表たちが、一斉に息をひそめたような間だった。
俺は壇上のセルウィンを見た。
彼はまだそこに立っていた。演説を終えた後の余韻を大切にするように、顎をわずかに上げたまま、広場を見渡している。目が鋭い。昨日より、鋭い。
だが昨晩からずっと気になっていたことがある。あの目の不自然さだ。
鋭いのは確かだ。でも何かが、ずれている。
「レン」
隣でカイルが小声で言った。口を動かさずに、ほとんど息だけで。
「匿名文書の件、もう少し調べる。今夜中に出る」
「わかった」
俺も息だけで返した。
カイルの横顔が昨日より青白い。連日の集計転送と通信維持で、限界が近づいているのがわかる。ゴブが「今から行く」と言い出した理由も、それだ。
今日のところは、まず目の前のことだ。
セルウィンが壇を降りようとした瞬間、俺は手を挙げた。
「発言を求めます」
セルウィンが止まった。
広場がまた静まる。今度は別の種類の静寂だ。さっきは彼の言葉が空気を満たした後の余韻だったが、今は——何が起きるかわからない、という種類の緊張だった。
セルウィンがゆっくりと俺を見た。
「……被指定者に、発言の機会を」
声が平坦だった。感情を抜いた声だ。この人間は感情を声から切り離すのが上手い。どこで覚えたのかは知らないが、相当な訓練が必要な技術だ。
「ありがとうございます」
俺は壇の前に立った。
高い壇には上がらない。地面の上で立つ。それだけで高さの差が生まれるが、それでいい。俺が低い場所から話すと、聞く人間は少し前のめりになる。前のめりになると、少し聞く気になる。ずっとそれで来た。
「昨日から、いくつかの代表に個別で話を聞く機会をいただきました」
広場を見渡す。百を超える顔がある。馴染みになった顔も、まだ一度も話していない顔もある。
「その対話を、『分断工作』と呼んだ文書が昨夜配られたそうです」
ざわめきが起きた。
わずかだが、確かなざわめきだ。文書を受け取った側は知っている。受け取っていない側は、今初めて聞く。その差が、今ざわめきとして現れている。
俺は続けた。
「俺への質問を先にさせてください。分断したというなら、何を分断したんですか」
誰も答えない。
「ファビラは姉弟で意見が違う。そういう国だったということです。俺が来る前から、ファビラの姉弟は意見が違った。俺はそれを——聞いただけです」
「屁理屈だ」
セルウィンの声が飛んだ。
さっきの平坦な声ではなかった。感情が少し混じっていた。苛立ち、だろうか。あるいは——何か別のものか。
「個別に接触して、各国の弱みを引き出す。それを利用して票を切り崩す。それが分断でなければ、何です」
俺はセルウィンを見た。
「弱みを引き出した、という言い方をしたんですね」
「そう言った」
「ファビラ姉弟の話を、弱みだと思いますか」
セルウィンが少し黙った。一秒ほど。長くはない沈黙だが、俺には長く感じた。
「それが代表の個人的な事情であれば——」
「違います」
俺は静かに言った。
怒ったわけではない。ただ、ここは外せないと思った。
「ファビラの姉が二十二年前の加盟条件を今も義務として持っていること。弟が三年の共存実績を見てきたこと。それは弱みじゃない。それがファビラという国の、今の姿です。俺はその姿を聞いただけです」
広場がまた静まっている。
傍聴席のほうを横目で見た。昨日と比べて顔ぶれが少し変わっている。同じ場所に座っている人間も、座り方が違う。少し前のめりになっている人間が、増えている。
「分断してるのは俺じゃない」
俺は広場全体に向けて言った。
「最初から割れてた意見を、俺は隠さず見せてるだけです。それが——怖いというなら、わかります。俺もそれが怖い時期があった」
「いつですか」
声が飛んだ。
俺は音のした方向を見た。傍聴席の中段あたりから来た声だ。代表ではない。一般の傍聴人だろう。規則上、傍聴人の発言は認められていない。セルウィンが眉をひそめるのが見えた。
だが俺は答えることにした。
「最初にゴブリンが扉をノックした夜です」
広場がまた静かになった。
傍聴席のほうから、誰かが息を飲む音がした。
「俺はあの夜、正直言うと怖かった。扉の向こうに何がいるかわからなくて。でも——まあ、聞いてから判断しようと思った。扉を開ける前に結論を出したら、俺はそこで終わってた」
セルウィンが口を開いた。
「それは——」
止まった。
一瞬だった。俺は気づいた。セルウィンが何かを言いかけて、止めた。体で言葉を押し戻した、という感じだ。喉の奥で、言葉が鳴っていた。
セルウィンは咳払いをした。昨日も同じことをした。同じ場所で、同じように止まっていた。
「……それは個人の経験談だ」
声が、わずかに上ずっていた。
ほんのわずかだ。聞いていなければわからない程度だ。俺が聞いたのは、俺が聞きすぎるからかもしれない。でも確かに上ずっていた。
「個人の経験を普遍の道理に見せる。それもまた、操作ではありませんか」
「操作ではありません」
俺は答えた。
「俺の話は一つの例として聞いてください。参考にするかどうかは、聞いてから判断してもらえればいい」
セルウィンがまた止まった。
今度は長かった。三秒ほど。
広場が静かだった。百人以上の人間が、ほとんど呼吸を止めているような静けさだった。鳥の声が遠く聞こえた。
セルウィンが顔をそらした。
俺のほうを見ないようにしている、と思った。見ると何かが動く、とでも思っているのかもしれない。
「……次の国を、呼べ」
セルウィンは書記のほうに言った。声が落ち着きを取り戻そうとしていた。でも完全には戻っていなかった。
俺は一礼して、カイルの隣に戻った。
昼になって、代表たちが昼食のために広場を離れた。
俺とカイルは議事堂横の小さな中庭に移動した。石造りのベンチに並んで座って、カイルが紙の束を広げた。
「匿名文書の件」
カイルが言った。疲れた声だった。でも情報の精度は落ちていない。
「配布のタイミング、配布した者の動線、文書の語彙の癖——全部拾った。俺の見立てでは、文書を書いたのはセルウィンじゃない」
「そうだな」
俺も昨日からそう思っていた。
「あの人間は感情を出す前に止める訓練が染みついてる。文書の書き方と合わない。文書はもっと——感情が残ってる」
「俺も同じ見方だ」
カイルが紙の端を折った。考えるときの癖だ。
「動線を逆に辿ると、一人の人間に繋がる。直接配布したのは三名の随員だが、元の文書を持ち込んだのは——連合の情報管理部門の出入り業者だ」
「情報管理部門」
「そこを統括してるのが、レイラという名の女性官吏だ」
カイルが俺を見た。
昨日から引きずっている名前だ。
俺はその名前を頭の中で転がした。知らない名前だ。会ったことのない顔だ。でも彼女は俺を知っている。知っているだけでなく、俺を葬ろうとしている。
「なぜ」
俺が言うと、カイルが少し黙った。
「それがまだわからない。ガレスは「戦争で家族を失った」と言ったが——それだけで、ここまで動くか?」
「動く理由がある、ということだ」
俺は言った。
「聞かないと、わからない」
カイルが俺を見た。
「お前……この状況で、その女に会いに行くつもりか」
「いつかは会うことになる」
「今じゃなくていい」
「今でもいい」
カイルが額に手を当てた。
「……お前の「まあ、聞いてから判断しよう」は、俺の胃に悪い」
「慣れるよ」
「慣れたくない」
カイルが立ち上がった。紙の束を丸めて脇に挟む。
「今日の午後の国はもう決まってる。クラナドだ。昨日答えが出なかった代表が、もう一度話したいと申し出てきた」
「わかった」
「文書の件は引き続き調べる。ゴブがもうすぐ着くから、着いたら俺の仕事を一部渡す」
「体は大丈夫か」
カイルが少し止まった。
「大丈夫じゃない。だが、問題ない」
「それは別のことだ」
「俺はお前のセリフを言ってる場合じゃない」
カイルが歩いて行った。
俺はベンチに残って、中庭の石畳を見た。目地に草が生えていた。隙間に根を張っている。誰も植えたわけではないのに、そこに生えている。
午後の査問が始まった。
クラナドのセルダ代表は、昨日と同じ位置に座っていた。体格のいい男だ。傭兵斡旋の国らしく、軍人に近い雰囲気がある。でも目は昨日より穏やかだった。
「昨日は、答えが出なかった」
セルダが言った。前置きなしに、いきなり本題から入ってくる。俺はそういう話し始め方は嫌いではない。
「考えたんだが——お前の言う「別の道」というのが、どういうことか、もう少し聞かせてくれ」
「昨日の話の続きですね」
「そうだ。俺たちの国は傭兵の派遣で成り立っている。平和が続くと、買い手がいなくなる。お前は「剣を鋤に打ち直しても売れる」と言った。……それだけじゃ足りない」
「足りないというのは?」
「職人の話じゃない。クラナドの傭兵は、剣を振るうことに意味を見出している。命の危険を引き受けることに、誇りを持っている。それを「安全な仕事に変えろ」というのは——意味を取り上げることだ」
俺は少し考えた。
「迷宮の調査隊はどうですか」
セルダが眉を動かした。
「迷宮と外をつなぐ道が今は存在します。あの道の安全を維持する仕事がある。危険がないわけではない。むしろ、常に未知のものと向き合う仕事です」
「……それは」
「剣も要る。判断力も要る。命の危険もゼロじゃない。でも戦うのが目的じゃなくて、安全を守ることが目的です。クラナドの傭兵が今まで培ったものが、そのまま使える」
セルダが黙った。
長い沈黙だった。俺は待った。
広場の傍聴席が、静かにこちらを見ている。セルウィンも見ていた。表情は読めない。
「……考えさせてくれ」
セルダがようやく言った。
「今日も答えは出ないかもしれない。だが——昨日よりは、近い」
「それで十分です」
俺が言うと、セルダが少し目を細めた。怒ったわけではない。何かを確かめるような目だった。
「お前は、急かさないな」
「急かしたことがないんです」
「なぜ」
「急かすと、本音が出ない」
セルダが鼻で小さく笑った。声には出さない笑いだった。
「……また明日、話せるか」
「もちろんです」
セルダが立ち上がった。その背を見送りながら、俺は隣のカイルをちらりと見た。
カイルが集計板を取り出して、数字を確認している。
【査問集計:賛成94/反対21/保留12】
数字はまだ動いていない。クラナドは今日も保留のままだ。
でも昨日と今日では、何かが違う。セルダの目が違う。昨日は「なぜ諦めないのか」という目をしていた。今日は「諦めなかった理由が少し見えた気がする」という目をしていた。
数字には出ない。でも、確かに違う。
夕刻、広場の人がまばらになってから、俺は一人でベンチに残っていた。
今日一日を振り返る。
セルウィンの言いかけた言葉のことを考えた。
今日だけじゃない。昨日も、一昨日も。あの人間は何度か、途中で言葉を止めている。毎回、同じ場所で止まる。俺が特定の言い方をした直後に止まる。
止めているということは、言いそうになっているということだ。
言いそうになっているということは——その言葉が、彼の中で何かと共鳴しているということだ。
「屁理屈だ」とセルウィンは言った。
語気が、初日より弱い。
俺はそれを感じた。言葉の意味は変わっていない。だが言葉の重みが、少し変わっている。岩が少し削れているような変化だ。触っただけではわからない。でも毎日触っていると、わかる。
怖いんだろう、と俺は思った。
言葉が人を動かすことを、あの人間は誰より知っている。だから怖い。知識が恐怖になっている。それは珍しいことじゃない。よく知っているものほど、怖い。
でも——知っているということは、聞けるということでもある。
知識が恐怖になっているなら、その恐怖を聞く機会があれば、何かが変わるかもしれない。
まだその機会ではない。
でも、いつか来る。
「レン」
カイルが戻ってきた。手に紙を持っていた。疲れた目をしていたが、歩き方が朝よりしっかりしていた。ゴブが到着して、仕事の一部を引き渡したのかもしれない。
「ゴブは?」
「今、宿で寝てる。来るなり倒れた。元気よく倒れてたから、大丈夫だ」
「何でもない状況じゃないな」
「お前が言うな」
カイルが紙を俺に差し出した。
「追加の情報だ。レイラの件」
俺は受け取って読んだ。
短い文書だった。カイルの字は癖があって読みにくいが、内容は把握できた。
レイラ・セルウィン。
俺は顔を上げた。
「セルウィンという名前が……」
「そうだ。セルウィンの、姉だ」
カイルが静かに言った。
「……苗字が同じなのは偶然じゃない。セルウィン査問官は——処分を推進している側の妹の弟だ。身内に黒幕がいる」
広場に夕風が吹いた。石畳が橙色に染まっていた。
「だからあの人間は止まるんだ」
俺は小さく言った。
「自分が裁く側に立ちながら、その裁きを煽っているのが——姉だと知っている」
カイルが俺の隣に腰を下ろした。
「どうする」
俺は少し考えた。
外せない問いだ。セルウィンにとっても、俺にとっても。
「まあ、聞いてから判断しよう」
カイルが息をついた。半分呆れたような、半分納得したような息だった。
「……いつから聞く」
「チャンスが来たら」
「チャンスが来なかったら」
「作る」
カイルがまた息をついた。今度は短い息だった。
「——お前、今日もセルウィンの語気が変わってたの、気づいてたか」
「気づいてた」
「俺も気づいた」
二人しばらく黙った。
夕風が止んだ。石畳の橙色が少し薄れた。
「明日」
カイルが言った。
「セルウィンに、個別で話を聞かせてほしいと申し出ろ。今日じゃない。明日の朝に。——断られてもいい。申し出ること自体が、次の布石になる」
「わかった」
「あと、ゴブが起きたら呼べ。集計の確認を頼みたい」
「わかった」
カイルが立ち上がった。また紙の束を脇に挟んで、歩いて行く。
その背中が、入口の影に消えるのを見届けてから、俺は査問集計の紙をもう一度見た。
【査問集計:賛成94/反対21/保留12】
まだ過半数を大きく超えている。
でも一国ずつ、確かに動いている。
セルウィンが何を言いかけていたのかは、まだわからない。
でも——言いかけているということは、聞きかけているということだ。
それで十分だ、と俺は思った。
今日のところは。
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