第211話「賛成派の中の孤独」
ファビラ姉弟との話が終わったのは、日が西に傾き始めた頃だった。
アリシャが「もう一度だけ、聞いてくれる?」と言ったとき、俺はその言葉の重さをしばらくの間、胸の中で転がした。
もう一度、聞く。
それは彼女が「変わりたい」と言っているのと同じだった。ただし、変わる理由をまだ自分でうまく説明できていない。義務と感情の間で宙吊りになったまま、言葉の形にならない何かを抱えている。そういう人間の「もう一度」は、急かしてはいけない。
俺は「明日の朝、話しましょう」と答えて、その日を終えた。
翌朝、議事堂の回廊でカイルが待っていた。
いつもの場所。いつもの石の椅子。でも顔色が昨日より悪い。目の下に薄い影があって、宿に戻っても眠れなかったんだろうと察しはついた。
「アリシャは来るか」
「来る、と伝言があった」と俺は答えた。「ただ、少し遅れるそうだ」
「そうか」
カイルはそれ以上何も言わなかった。指先で膝の上の羊皮紙を叩いている。集計の更新前の緊張した手つきだ。
「ゴブはまだ来てないのか」とカイルが聞いた。
「連絡は来ている。あと二日か三日で着く、と」
「そうか」
二回目の「そうか」だった。気になっていることがあるのに、それを言い出せていない。そういうときのカイルの間合いは、この三年で少しわかるようになってきた。
「言いたいことがあるなら聞く」
「……別に」
「まあ、聞いてから判断しよう」
カイルが羊皮紙を叩く指を止めた。
「昨日の集計だ」と彼は言って、羊皮紙を俺に差し出した。
【査問集計:賛成94/反対21/保留12】
「変わってない」と俺は言った。「ファビラはまだ保留だな」
「ああ。問題はそっちじゃない」
カイルが立ち上がって、回廊の石柱に手をついた。議事堂の広場が見下ろせる位置だ。早朝の光の中で、傍聴席の人々がすでに集まり始めている。
「見ろ」
俺は隣に並んで、広場を見下ろした。
変化はすぐにわかった。傍聴席の雰囲気が、昨日と違う。固まり方が違う、と言えばいいか。ばらばらだった観衆が、昨日から今朝にかけて、何かの話し合いの後みたいにまとまっている。特に賛成派の各国代表の席。あそこに、昨日よりも明らかに人が多い。
「賛成派が動いた」とカイルが言った。
「何があった」
「夜の間に会合があったらしい。非公式の。セルウィンが音頭を取ったかどうかは確認できていないが、出席者の顔ぶれを見れば……」
言わなくてもわかった。
票が削れていくことへの危機感が、賛成派内部を動かした。このまま一国ずつ話を聞き続ければ、いずれ過半数を割る。それを止めるために、賛成派は昨夜のうちに団結を確認し合ったということだ。
「非難が来るな」と俺は言った。
「もう来ている」
カイルが別の羊皮紙を出した。今朝早く各国代表に配布された文書だという。内容はひと目でわかった。
《被指定者の手法は対話にあらず——賛成派各国代表を個別に切り崩す分断工作である》。
落ち着いた文体で、丁寧に書かれていた。感情的ではない。だからこそ質が悪い。感情的な非難は反論しやすい。でもこれは、論理の形を借りている。
「どこが出した文書だ」
「正式な発行元はない。各国代表の机に置かれていた」
俺は文書を一度たたんで、カイルに返した。
「わかった」
「わかった、じゃないだろ」とカイルが言った。声に珍しく棘がある。「これが広まれば、保留の国まで引き戻される可能性がある。今朝の会合に保留の国が何カ国か呼ばれた形跡もある」
「聞いてないのか、それを」
「……聞いてる。だから言ってる」
カイルが石柱から手を離して、俺を見た。眠れていない目で、でもまっすぐ見てくる。
「レン、お前は今日どうするつもりだ」
アリシャが来たのは、その三十分後だった。
昨日とは少し様子が違った。昨日は義務と誇りを鎧のように着込んでいたが、今日のアリシャはその鎧が一枚薄くなっているような印象があった。疲れているのか、あるいは何かを決めかけているのか。
俺たちは議事堂の外の、小さな中庭に席を取った。広場の喧騒から少し離れた場所だ。
「昨日は失礼しました」とアリシャが言った。
「いいえ」
「あれから、考えました」
「聞かせてください」
アリシャは両手を膝の上に置いて、しばらく視線を落としていた。
「私が怖いのは」と彼女はゆっくり言った。「判断を、感情で動かすことです」
「義務で動かすことと、感情で動かすことの、どちらが怖いですか」
アリシャが顔を上げた。
「どちらも怖い」
「正直なところを言ってくれてありがとう」と俺は言った。「義務は感情を隠すための言葉として使われることがある。あなたの場合はどちらでしたか」
長い沈黙があった。中庭の石畳に、朝の光が斜めに差し込んでいる。どこかで小鳥が鳴いた。
「両方、でした」とアリシャはついに言った。「大国への義務は本物です。でも……私が幼なじみのことを思ったとき、それを義務で押しつぶそうとしていた。感情が怖かったから」
「感情が怖いのは、なぜですか」
「父がそれで国を傷つけたから」
「父上は、話を聞いていましたか。大国に逆らうとき」
アリシャがまた黙った。今度はもっと長く。
「……聞いていなかったと思います。怒りだけで動いた」とようやく言った。
「あなたは今、聞いています」と俺は言った。「弟さんの話も聞いた。俺の話も聞いた。自分の中の義務と感情を、どちらも黙らせずに持っている。それはお父上とは違う」
その話が終わって、俺が広場に戻ったとき、事態はすでに動いていた。
セルウィンが先に壇上にいた。いつもの位置ではなく、傍聴席の方を向いて立っている。その声が広場に響いていた。
「本日、私が申し上げたいのは手続きの話です」
俺はカイルの隣に立って、その言葉を聞いた。
「被指定者が行っている個別対話は、査問の本来の目的から逸脱しています。査問とは証拠と証言に基づく公正な審問であり、被指定者が各国代表を個別に説得する場ではない。昨日配布された文書にも示されているとおり、この手法は——」
セルウィンが一瞬、止まった。
ほんの一秒か二秒の、小さな間。
「——この手法は、対話の形を借りた分断工作と見なすことができます」
傍聴席がざわめいた。賛成派の各国代表の席から拍手が起きた。
俺はセルウィンの顔を見ていた。あの一瞬の間が気になった。何かを言いかけて、止めた。語気はいつもより鋭いが、目が若干——違う。鋭くしようとしている目だ。自然に鋭い目じゃない。
「カイル」と俺は小声で言った。「文書の配布に関して、発行元は本当にわからないか」
「わかっていない。ただ、文面の書き方が——」
「セルウィンに似ているか」
カイルが一拍置いた。
「……俺はそう思っている」
広場では、セルウィンの演説に対して保留国の何カ国かが頷いている様子が見えた。昨夜の会合の効果が出ている。このまま空気が固まれば、保留から賛成に戻る国が出てくる。
俺は壇上に歩み出た。
セルウィンが俺を見た。演説を途中で止めるわけにもいかず、最後まで言い切ってから「被指定者、発言の機会を与えます」と言った。
「ありがとうございます」
俺は広場全体を見渡した。傍聴席の顔、代表たちの顔、その奥にいる普通の市民の顔。全員を一度見てから、俺は口を開いた。
「一つ確認させてください。この査問が始まる前、俺は全127国の代表に向けて一度に話すのではなく、一国ずつ話を聞かせてもらう形式を提案しました。それをセルウィン殿は認めてくださった。その記憶は合っていますか」
セルウィンが小さく頷いた。
「その形式が分断工作だという非難が、今朝配布された文書に書いてありました。俺はそれを読みました」
広場が静かになった。
「分断してるのは俺じゃない、と言いたいところですが」と俺は続けた。「それより先に、一つだけ聞いていいですか」
誰も返事をしなかった。でも誰も遮りもしなかった。
「昨夜の会合に呼ばれた代表の方々は、俺と話す前と後、どちらが怖かったですか」
沈黙が伸びた。
「話す前、という方は手を挙げてくれなくていいです。手を挙げたら目立つし、挙げにくい空気になってる。でも、心の中だけで確認してみてください」
俺は少し間を置いた。
「もし話す前の方が怖かったなら、それは俺が何かを仕掛けたからじゃない。話を聞く前から怖い、ということは——相手が実際に危険だからじゃなくて、知らないから怖い、ということです」
賛成派の席から、誰かが「詭弁だ」と言った。
「そうかもしれません」と俺はすぐに答えた。「でも一つだけ聞かせてください。ファビラの弟、ファロ殿はここにいますか」
後ろの方から、ファロが立ち上がった。
「昨日、あなたと話したとき、あなたは何が一番困ると言っていましたか」
ファロが少し迷ってから答えた。「姉と意見が違っても、姉の判断が優先される。自分の意見が届かない、と言いました」
「その気持ちは、俺が操作して作ったものですか」
「……違います。三年前からそう思っていました」
「ありがとうございます」と俺は言って、ファロに頭を下げた。それからセルウィンの方を向いた。「分断しているのは俺じゃない。最初から割れていた意見が、俺と話したことで表に出てきた。それを分断と呼ぶかどうかは、聞いている皆さんがそれぞれ判断してください」
傍聴席がどよめいた。賛成派の代表の一部が顔を見合わせている。
セルウィンが進み出た。
「……屁理屈だ」
声に力がある。でも最初の日よりは——何か、薄い。力を込めようとしている声だ。言葉そのものの重さで押せていない。
「屁理屈かどうか、まあ聞いてから判断してください」と俺は言った。
昼を過ぎたところでアリシャが申し出た。
「保留に変えます」と彼女は査問の場で言った。
賛成派の席から小さな声が上がった。分断工作だという空気が一層強まった。そういう反応が来ることはわかっていた。
カイルが集計を更新する。
【査問集計:賛成94/反対21/保留14】
「アリシャ代表、理由を聞かせてください」とセルウィンが静かに言った。形式上、転票した代表への理由確認は義務がある。
「昨日まで義務で投票していました。今日も義務は変わっていません。でも」とアリシャは言った。「義務のために感情を黙らせることが、本当に義務なのかどうか、まだわかっていません。わかってから決めようと思います」
その言葉の後、広場がしばらく静かだった。
傍聴席の一角、市民の区画で、誰かがごくりと飲み込む音がした気がした。聞こえるはずがないのに、そう感じた。
賛成派の席から今度は声が出なかった。
代わりにセルウィンが口を開いた。
「これは、対話ではなく分断だ」
声に感情がある。怒りでも苛立ちでもなく——もっと別の何かが。俺はその声を聞きながら、昨日の間を思い出した。あの一秒の間。言いかけて止めた何か。
セルウィンはこの三年間、言葉が人を動かす場面を一番近くで見てきた人間だ、とカイルが言っていた。だから誰より、その力を恐れている。
恐れているものが、自分の中にも入り込んできていることに、彼は気づいているんだろうか。
【査問集計:賛成94/保留14】
その数字を見ながら、俺は明日のことを考えた。保留が増えた。ただし賛成は減っていない。ファビラの件が「分断工作の証拠」として使われれば、保留の何カ国かが再び賛成に戻る可能性もある。
昨日より一歩進んで、半歩戻る。そういう日だった。
カイルが隣に来て、小声で言った。
「セルウィンが、今日で二度「分断」という言葉を使った。昨日は一度も使わなかった言葉だ」
「気づいてた」
「あの男、焦ってるな」
「焦ってる、というより」と俺は言った。「怖いんだと思う。何かが変わり始めてることが」
カイルが少し考えてから言った。「変わって欲しくない人間が、一番よく変化に気づく。そういうことか」
「たぶんな」
広場の空気はまだ落ち着いていない。賛成派の代表たちが集まって小声で話し合っている。明日の朝、また何かが配布されるかもしれない。
俺は石畳を踏みしめて、立ったまましばらく広場を眺めた。足の裏がじわりと冷たい。夕方になって気温が落ちていた。
「明日は誰と話す」とカイルが聞いた。
「まだ決めていない」
「向こうから申し出て来る国があれば、そこからか」
「そうなる」と俺は言った。「あとは——セルウィンとそろそろ、ちゃんと話したほうがいいかもしれない」
カイルが俺を見た。
「セルウィンと? あの男は査問官だぞ。お前を処分しようとしている側だ」
「だから聞きたい」
「……何を」
「なぜそんなに怖いのか」
カイルがため息をついた。呆れたようなため息だったが、否定はしなかった。この三年で、それがどういう意味かはわかっているから。
「お前が言うなら止めない」とカイルは言った。「ただ一つだけ——今夜は食ってから考えろ。昨日から何も食ってないだろ」
そういえばそうだった。
朝の茶だけで一日が過ぎていた。胃が静かに主張を始めていて、でも今の今まで気づいていなかった。
「そうするか」と俺は答えた。
傍聴席の人々が帰り始めている。今日の査問は終わった。広場に残っているのは各国の代表たちと、その補佐役と、あとは石畳の上に伸びる夕暮れの影だけだ。
そのとき、賛成派の代表たちの輪から、一人が抜け出して俺の方に歩いてきた。
中年の男性だった。どこの国の代表か、まだ俺は覚えられていなかった。
男は俺の前で止まって、少し間を置いてから、低い声で言った。
「明日、話を聞いてもらえますか。ただ——他の人間には、今日のうちは内緒にしておいてほしい」
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