第210話「半分だけ聞いた話」
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「ファビラ、というのはどんな国ですか」
俺はカイルに聞いた。
議事広場の控室。石造りの壁に朝の光が斜めに差し込んでいる。カイルは手元の書類を繰りながら、少し眉を寄せた。
「小国だ。国土は王都の四分の一もない。ただ、絹の産地として有名で、連合への資金拠出は大国並みに多い。だから票の重みも馬鹿にはならない」
「代表は双子、だったっけ」
「正確には、共同代表制を取っている。姉のアリシャが政務、弟のファロが外交を担当。ただ今回の査問に関しては、二人の意見が割れている」
カイルがそこで言葉を止め、俺を見た。
「姉が賛成。弟が反対。そのまま連合に申告してあるが、どちらが本投票の票を持つかが決まっていない。法的には姉の政務権限が優越するから、結果は賛成で計上されている」
「二人から別々に話を聞けるか」
「一応、そういう段取りにはなっている」
カイルが短く確認する。その目に、僅かに疲れの色があった。昨日の交渉が終わった後、ゴブが「無理をするな」と連絡してきていたことを俺は知っている。カイルはそれに「大丈夫だ」と一言だけ返していた。
「お前、眠れたか」
「四時間は寝た」
「それは眠れてない」
「お前に言われたくない」
カイルが書類を畳む。「行くぞ」と言って先に立った。
午前の席には、まず弟のファロが来た。
二十代半ばだろう。姉と双子と聞いていたが、顔つきはずいぶん穏やかで、どこか迷いを常に抱えているような目をしていた。席に着く前に一度、大きく息を吐いた。
「アシダさん、ですよね」
「そうです」
「姉が、来る前に言っていました。あなたと話すのは時間の無駄だ、と」
俺は何も言わなかった。
ファロは少し困ったように続けた。「俺はそう思っていない、というのを最初に伝えておきたかっただけです。余計なことかもしれませんが」
「いえ。聞けてよかった」
「……そうですか」
ファロが少し驚いたような顔をした。それから、ゆっくりと話し始めた。
ファビラは小さな国だ。絹の産地という豊かさはあるが、人口が少なく、軍事力は皆無に等しい。「大国に従うことで生き延びてきた」という感覚が国民全体に染みついていて、連合がどちらを向けば自分たちもそちらを向く、というのがこれまでのやり方だった。
「姉は、そのやり方を守ることが国を守ることだと思っています」
「あなたは?」
ファロが少し考えてから答えた。
「俺は、三年間を見てきました。共存協定が結ばれてから、俺の友人の父親が迷宮の素材を扱う商人になった。小さいですが、生活が変わった。大国に従って戦争に加担した時代より、今のほうが俺の国は豊かです」
「だから反対票を」
「でも——」ファロが目を伏せた。「俺の票は意味をなさないかもしれない。姉が賛成を決めていれば、法的には姉の判断が優先されます。俺が何を言っても」
俺はそこで一度、間を置いた。
広場の外から、遠く人の声がしていた。次の交渉を待つ傍聴者たちの声だ。この三年で静かになった世界が、また騒がしくなっている。
「今日は、それを聞けてよかった」
ファロが顔を上げる。
「票の話は、午後に姉と話してから考えます。でも、あなたが見ている三年間は、俺が言えないことを代わりに言ってくれていた。それだけで十分です」
「……そうですか」
「まあ、聞いてから判断しよう——と思っているので。午後の話が終わってからにします」
ファロが何か言いかけて、止めた。それから一回だけ頷いて、席を立った。
午後。
今度はアリシャが来た。
同じ顔の作りのはずなのに、全然違う印象を受けた。背筋が真っ直ぐで、目の動きが速い。席に着く前に一度、俺を上から下まで見て、それから正面に座った。
「弟と、何を話しましたか」
「ファビラの三年間について」
「彼が"平和になった"という話ですね」
「そうです」
「感動的な話です」
アリシャが言った。声に感情はなかった。
「でも私は、政務を担当しています。美しい話と、国が生き残る話は、別です」
「そうですか。それを聞かせてもらえますか」
「聞いても変えません」
「俺が変えるかどうかじゃなくて、あなたが話すかどうかです」
アリシャが少し止まった。
それから、静かに話し始めた。
ファビラが連合に加盟したのは二十二年前。その時の条件に「軍事的中立を保つ代わりに大国の決議に従う」という項目があった。実質的に独立を維持するための盟約だった。
「私が賛成票を入れているのは、連合の決議に従う義務があるからです。個人の感情とは別です」
「義務、として」
「そうです」
俺は頷いた。「それは分かりました。では——義務以外に、あなた自身の意見はありますか」
「関係ない」
「あなた自身が、どう思っているかが聞きたいんです。票の話ではなく」
アリシャが俺を見た。
「なぜ」
「政務の人間が、義務と自分の意見を切り離したまま決めてきたものが、二十二年間積み重なっている。それが今のファビラだと思うから」
沈黙があった。
外から光が入ってくる。アリシャの表情が少し変わった——怒りではなく、何か別のもの。
「……弟が、言っていたことを信じているわけですか」
「弟さんの話と、あなたの話を、両方聞いた後で判断しようと思っています。今はまだ途中です」
「途中」
「あなたの義務の話は聞きました。でも、義務の話だけで終わるのは、俺は半分しか聞いていない気がします」
アリシャが、少し長い沈黙の後で、椅子の背に体重をかけた。
「……弟は、友人の父親の話をしましたか」
「しました」
「その商人は、私の幼なじみです」
俺は何も言わなかった。
「三年前、絹の需要が落ちた時期があって、彼は廃業寸前だった。迷宮素材の流通に乗り換えてから、今は息子を王都の学校に通わせるだけの余裕ができた。私はそれを知っています」
「知っていて、賛成票を」
「義務だから、と言いました」
「はい」
アリシャが目を伏せた。長い間だった。
「……私は、弟より正しいとは言えないかもしれません。ただ、国を守るという責任を負っている人間が、感情で動くと——どうなるかを、もう知っています」
「何があったんですか」
アリシャが顔を上げた。
「十四年前。父が代表だった時代に、感情で一度だけ大国に逆らったことがあります。小さな件でした。でも、翌年の絹の輸出に上乗せの関税をかけられた。父は三年かけてそれを取り戻したが、その間に国民の三割が貧困ラインを下回りました」
「だから義務で動く」
「感情は、人を守らない。少なくとも、私の国では」
俺はしばらく考えた。
窓の外に鳥が一羽、石の欄干に止まった。すぐに飛び去った。
「一つだけ聞かせてください」
「何ですか」
「今の連合の決議が、ファビラを守ると思いますか。義務として従う先に、あなたの国の幼なじみの息子が学校に通い続けられる未来はありますか」
アリシャが固まった。
「それは——」
「答えは今じゃなくていいです。まあ、聞いてから判断しよう、というのが俺のやり方なので、あなたもそれでいい」
沈黙。
アリシャが何か言おうとして、止めた。止めて、また何か考えた。
「……もう一度だけ、聞いてくれる?」
声が、午前とは少し違った。
「いつでも」
「明日——弟と一緒に来ていいですか」
俺は頷いた。「待っています」
交渉が終わって、控室に戻ると、カイルが集計を開いていた。
「どうだった」
「まだ保留。ただ、明日また来るらしい」
「姉が?」
「弟と一緒に」
カイルが少し眉を動かした。それから静かに端末を閉じた。
【査問集計:賛成95/反対20/保留12】
「変わってないな」
「今日は変わらなくていい日だった」
俺はそう言いながら、壁に背をもたせかけた。体が少し重い。石造りの床の冷たさが靴の底から伝わってくる。
「半分だけ聞いて、分かった気になるところだった」
「何が?」
「弟の話だけ聞いたら、姉は義務に縛られた感情のない人間だと思っていたかもしれない。そうじゃなかった」
カイルが少し考えてから言った。
「それは……最初から両方聞くつもりだっただろう」
「そうだけど、弟の話の後、俺は少し——姉に対して結論を出しかけていた。自覚が遅れた」
カイルが黙った。
「調停者でも、そういうことがあるのか」
「ある。あるから気をつけてる」
窓の外でまた鳥の声がした。今度は一羽ではなく、複数。遠くから近づいてきて、また遠ざかっていった。
カイルが口を開いた。
「ゴブが今日着く予定だ。顔を見たいと言っている」
「そうか」
「お前も」
「俺も」
それだけ言って、俺たちはしばらく黙った。
石の壁が夕方の光を受けて、少し赤みを帯びていた。長い一日だったが、明日もある。
夕刻。
宿に戻る道でカイルと別れた後、俺は一人で石畳を歩いた。
ヴァリスの街は夕暮れになると少し静かになる。昼間の喧騒が引いて、市場の店が片付け始めて、子供たちの声が路地の向こうに消えていく。俺が最初にここに来た時と、その点だけは変わっていない。
アリシャのことを考えていた。
「感情は人を守らない」と彼女は言った。十四年前に父親が感情で動いて、国民の三割が貧困ラインを下回った。だから義務で動く。感情を切り離した場所で判断を続けてきた。
それは——間違っていない。
俺は門番として、感情で動いたことは少ない。ゴブが最初に扉をノックした夜も、最初に来たのは「まず聞こう」という判断だった。感情より先に、聞くことを選んだ。
でも、その判断を俺が選べたのは、失うものが少なかったからかもしれない。
一国の政務を担っていたら、幼なじみの豊かさより国民三割の生活を優先することを、俺は選べていたか。
分からない。
石畳の先に宿の明かりが見えた。
明日、アリシャとファロは二人で来る。
何が出てくるかは、まあ——聞いてから判断しよう。
扉を開けた時、中からゴブの声がした。カイルを呼ぶ声。来ていた。
俺は少し足を速めた。
「レン!」
ゴブが入り口から飛び出してきた。
第七迷宮の門番は、三年前より少しだけ大きくなっていた。服も、王国で正式に仕立てた門番の制服を着ている。それでも、声と目は変わっていない。
「来たのか」
「来ました。カイル様が限界だと言うので」
「俺は限界じゃない」
カイルが宿の中から声を出した。「お前が一方的に来ると決めただけだ」
「同じことです」
ゴブが俺を見上げた。「食事、しましたか」
「まだ」
「では今から。カイル様の分も用意してあります」
ゴブが当然のように言って、扉を押さえた。
俺は笑っていた。自覚はなかったが、たぶんそうだった。ゴブが「レン、笑ってる」と言ったから。
「そうか」
「久しぶりですね、その顔」
「そんなに久しぶりか」
「旅の疲れが出ていましたから、ずっと」
食卓は狭かった。三人で座ると肘が当たりそうなくらいだった。でも、ゴブが「いいですね」と言ったので、俺もカイルも何も言わなかった。
夜は長かったが、明日も来る。
次の国を待ちながら、俺たちは三人で飯を食った。
カイルが夜中に一本だけ端末を開いて、集計を確認してから閉じた。
俺は眠る前にそれを横目で見た。
【査問集計:賛成95/反対20/保留12】
【共存協定 自動失効まで:あと48日】
数字は今日も動かなかった。
でも明日、アリシャとファロが二人で来る。
「……もう一度だけ、聞いてくれる?」
アリシャが言った言葉が、暗い天井に貼りついていた。
賛成票を入れ続けた女が、弟と一緒に来ると言った。義務と感情を切り離して二十二年生きてきた人間が、もう一度だけ聞いてほしいと言った。
その言葉の中に何があるか。
まあ——聞いてから判断しよう。
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