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門番、魔王軍と交渉する〜ハズレジョブでも、話を聞く奴が世界を動かす〜  作者: ハル
門番、世界と話す

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第209話「島国リンの漁師たち」

---


昼を少し回った頃、今日の相手の名前を知った。


「リン、ですか」


カイルが集計の書類から目を上げ、俺を見た。


「絶海の孤島国だ。議事堂の席次で言えば後ろから三番目、発言回数は今まで一度もない。存在感が薄い」


「存在感が薄いのに、賛成票は入れてる」


「入れてる」


カイルが表を折りたたんで懐にしまう。朝から続いた外交のやりとりで、彼の目の下にはうっすらと疲労の色が溜まっていた。昨日の話でゴブが「今から行く」と言っていたが、まだ来ていない。ヴァリスまでの距離を考えれば、早くても明後日だろう。


「海棲の魔物、ってのがポイントだな」


廊下を歩きながら俺が言うと、カイルが頷いた。


「ああ。リンの周辺海域では十一年前に大規模な海棲魔物の溢出があった。漁師が七人、海に沈んだ。それからずっと、漁獲量は半分以下だ」


七人。数字が廊下の空気に重く沈んだ。


俺はしばらく黙って歩いた。


海棲の魔物と、迷宮の魔物。同じ言葉で括られているが、俺が三年間関わってきたのは迷宮側だけだ。海の話は別の話だと、頭ではわかっている。でも相手がそれをわかっているとは限らない。


「入口は狭そうだ」


「どうする」


「まあ、聞いてから判断しよう」


カイルが小さく息を吐く。それはもう呆れでも驚きでもない。ただの、呼吸だった。



 



議事広場に入ると、リンの代表はすでに席に着いていた。


年配の女性だった。六十代ほどだろうか。白髪を短く刈り込み、日焼けで黒々とした肌に深い皺を刻んでいる。服装は他国の代表たちのような礼装ではなく、厚手の航海用の外套を畳んだ上に置いていた。首に、小さな干した魚の形をした飾りを下げている。


名前はテラ・ウィン。リン国の国会議長を兼任している、と事前にカイルから聞いた。


俺が席に着くと、テラは正面を向いたまま動かなかった。視線が俺のどこかに当たっているのかどうかも、よくわからない。


査問官セルウィンが手続き上の言葉を述べ、「発言を許可する」と言ったが、テラはすぐには口を開かなかった。


沈黙が伸びた。


傍聴席がわずかにざわついた。セルウィンが書類に視線を落とし、咳払いをする前に、俺が先に口を開いた。


「漁師の方ですか」


テラが、初めて俺を見た。


目が鋭い。批判でも嫌悪でもなく、ただ何かを測っているような、長年海を見てきた人間の目だった。


「そうだ」と彼女は言った。「三十年は船に乗った。今は足を痛めて、陸の仕事をしている」


「三十年、海に出てたんですね」


「それが何だ」


咎めるような言い方ではなかった。ただ、問うている。


俺は少し考えた。


「俺は三年間、迷宮に関わってきました。海は、一度も行ったことがない」


「……そうだろうな」


「だから、リンの話を聞かせてほしいんです。俺の知らない話だと思う」


テラが眉の端をわずかに動かした。何かを測り続けている。


「聞いたうえで何をする」


「聞いてから判断します」


長い間があった。


傍聴席が静まっている。セルウィンが何か言いかけるような気配があったが、どこかでそれを飲み込んだ。


テラは外套の上に置いた手を動かし、指先で布地を一度なぞった。


「十一年前の話をする」



 



彼女の話は長くなかった。


淡々とした口調で、リンの周辺海域で起きた溢出のことを話した。大きな波が来たかと思ったら、海面から黒い影が複数上がってきた。漁船が二隻、転覆した。引き上げられたのは四人で、三人は海に沈んだままだ。その中に彼女の兄がいた。


言い方に感情がなかった。ないというよりも、十一年かけて乾き切ったという感じがした。


「それからリンはどうなりましたか」


「漁に出る者が減った。出ても遠浅の岸に近いところしか行かなくなった。深海に群れる魚は取れない。輸入に頼るようになって、豊かだった漁村が借金をするようになった」


「島国なのに、魚が買えない」


「そういうことだ」


俺は少し黙った。


テラは続けた。


「あんたが迷宮の魔物と和解したと聞いた。三年間、溢出がない、とも聞いた。それはわかる」


「でも、海は別の話だ」


俺が言うと、テラが微かに頷いた。


「そうだ。あんたが何をしようと、あの日の海は変わらない。兄は戻らない。リンの漁師たちが海を怖がるのも、すぐには変わらない」


「変えようとは思っていません」


テラが少し間を置いた。


「……何だと」


「海の話は、俺には手が届かない。リンの周辺海域の海棲魔物と、迷宮の知性体は、別の存在です。俺には海側の話をする資格がない」


傍聴席がざわついた。セルウィンが書類を持つ手を止めた。


テラは俺を見たまま、しばらく動かなかった。


「……あんたは、開き直っているのか」


「いいえ」


俺は真っ直ぐ彼女を見た。


「俺が言えるのは、迷宮の話だけです。三年前まで迷宮から溢出が起きていた。だから俺は迷宮の知性体と話をした。それだけで、それ以上のことは俺にはできない。でも——」


少し間を置いた。


「リンが賛成票を入れた理由は、海の魔物のことだと思う。それをちゃんと聞いておきたかった」


テラが動かない。


「変える気もないのに、なぜ聞く」


「変えられなくても、知っておくべきだと思うから」


長い沈黙だった。


テラは目を伏せ、首に下げた干した魚の飾りを指先で触った。一度、二度。それから顔を上げた。


「兄の名前はアーウィン・ウィンという。魚を見れば種類がわかる男だった。それを言いたかった」


俺は頷いた。


「覚えました」


「覚えてどうする」


「覚えておきます。それだけです」



 



テラが席を立つ前に、もう一度だけ俺は口を開いた。


「一つだけ聞かせてください。リンの漁師たちは、今も海に出ていますか」


「出ている。怖がりながらも、出ている」


「それは、なぜですか」


テラが少し考えた。長い沈黙ではなく、答えを取り出すための短い間だった。


「海しか知らないからだ。陸の仕事も覚えた。でも、海しかない。怖くても、海に出るしかない」


「そうですか」


俺はそれ以上何も言わなかった。


テラは外套を手に取り、立ち上がった。セルウィンが「本日の発言は以上か」と言いかけたとき、テラが振り返った。


「一つだけ言う」


傍聴席が静まった。


「海の話と迷宮の話を、同じだと俺たちは思っていた。そこを分けたのは初めてだった」


それだけ言って、テラは席を離れた。


議事広場から出ていく彼女の背中を、俺はしばらく見ていた。


外套が、潮風に当たり続けた布地の色をしていた。



 



夕方、カイルが集計を出してきた。


「リン、転票した」


カイルが書類をテーブルに置く。宿の一室、窓の外には夕暮れのヴァリスが広がっている。ガレスは部屋の隅の椅子に座ったまま目を閉じていた。眠っているのか、考えているのか、判然としない。


【査問集計:賛成95/反対20/保留12】


数字を見た。


95。


九十七から始まって、少しずつ削れている。一日一票というより、一話一話積み重なっていく感じがする。傍聴席の顔ぶれが変わり始めているのも、カイルから聞いていた。


「テラさんは、何で変えたんだろう」


独り言のつもりで言ったが、カイルが答えた。


「分けたから、じゃないか。海と迷宮を、別の話だと認めたから」


「そうかもしれない」


「普通は逆をやる。魔物全体をひとまとめにして「安全」を訴える。お前はそれをしなかった」


俺はコップの水を飲んだ。喉が渇いていた。午前中から話し続けて、気づいていなかった。


「できないんだよ、海の話は。知らないから」


「その正直さが、逆に効いたんだろうな」


ガレスが目を開けた。眠っていなかったらしい。


「アシダ」


「なんですか」


「テラ・ウィンは、お前に何かを求めていたわけじゃない。気づいたか」


俺は少し考えた。


「……話を、聞いてほしかった」


「ああ」


ガレスが立ち上がり、窓の外を見た。


「あの女は、十一年間誰にも聞かせなかったんだろう。兄の名前も、漁師たちの怖さも。連合の議場で言う話じゃない、と思っていたはずだ」


「それを今日、言えた」


「お前が聞いたからだ」


静かな夜が部屋に入ってきた。


俺はアーウィン・ウィンという名前を、頭の中でもう一度繰り返した。魚を見れば種類がわかる男。海に沈んで、戻らなかった人。


変えられないことがある。取り戻せないものがある。それでも聞くことに意味がある、と俺は信じているが、今日それが本当かどうかを試された気がした。


テラが転票した理由は、俺が何かを変えたからではない。変えられないことを、変えようとしなかったからかもしれない。



 



夜遅くに、カイルが通信石を置いた。


「ゴブから」


石の表面に、短い言葉が浮かんでいた。


「カイル様の顔色が心配です。私は明後日ヴァリスに着きます。レンには内緒にしてください——ゴブ」


俺はカイルを見た。


「内緒にしてくれ、と書いてあるのに、お前が見せてるじゃないか」


カイルが少しだけ目を細めた。


「ゴブが来るなら、俺がもう少し持ちこたえなきゃならない。それを伝えたかった」


「それは俺に言ったのか、自分に言ったのか」


「……両方だ」


ガレスが低い声で笑った。珍しい音だった。


俺も少し笑った。


明後日、ゴブが来る。門番の仕事は誰かに頼んだのだろうか。いや、三年間ゴブが育ててきた副門番がいるはずだ。その話はゴブの手紙に何度か出てきた。


窓の外、ヴァリスの夜景に灯りが点いている。


明日は誰の話を聞くことになるのか。まだわからない。


95という数字が、まだ遠い。


でも、今日テラが言った言葉が残っている。


「怖くても、海に出るしかない」


そうだな、と思った。


怖くても、聞き続けるしかない。


明日も、席に着く。


「明日の相手は?」


カイルが書類をめくった。


「ファビラ国——双子で代表を務めてる小国だ。姉は賛成派、弟は反対派で割れてるらしい」


俺は天井を見た。


「……両方から聞かないといけないな」


「そうなるな」


「半分だけ聞いて、わかった気になるところだったな」


カイルが書類を閉じた。


「まあ、聞いてから判断しろ」


俺は起き上がり、カイルの顔を見た。


カイルが少し不思議そうな顔をした。


「何を見てる」


「いや」


俺はただ頷いた。


カイルが口癖を言うようになって、もう何度目だろう。最初に聞いたときは驚いた。今は、驚かない。ただ、ちゃんと伝わっているんだなと思う。それだけだ。


それだけで、十分だった。



 



【査問集計:賛成95/反対20/保留12】


【共存協定 自動失効まで:あと49日】



 



翌朝、カイルが珍しく早く起きていた。


水を飲んでいる俺の隣に立って、窓の外を見ていた。


「双子の代表、姉と弟が別々の部屋に泊まってるらしい」


「一緒に来てるのに別々の部屋」


「仲が悪いというより、一緒にいると喧嘩になるから、らしい」


俺はコップを置いた。


「片方ずつ、話を聞いたほうがいいかもしれない」


「査問の形式上、それが認められるかどうか……」


「セルウィンに聞いてみよう」


カイルが一瞬止まった。


「セルウィンに頼むのか」


「だめか」


「……お前が頼むのは珍しいと思っただけだ」


俺は立ち上がった。


珍しい、か。俺はセルウィンのことを敵だと思ったことはない。立場が違う人間で、俺の処分を推進している側で、それは間違いないが——あの人は何かを守ろうとして、そこにいる。何を守ろうとしているのかは、まだ全部は聞けていない。


「まあ、聞いてから判断しよう」


俺が言うと、カイルが苦い顔で笑った。


「それ、俺に言ってるのか相手に言ってるのか」


「両方だ」


ガレスが寝台から起き上がりながら、低い声で「さっさと飯にしろ」と言った。


俺たちは三人で、朝の食堂に向かった。

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