第208話「兵士だったころ」
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宿の裏手、石畳が途切れる場所に古い水場がある。
ガレスはそこで毎朝、柄杓を三度使う。顔を洗い、首の後ろを流し、最後に手を洗う。騎士の習慣というより、兵舎で叩き込まれた癖だった。二十年続けてきた。
今日も同じように三度、水を掬った。
「——やはりここにいたか」
振り返らなかった。足音でわかる。
カイル・ベルグ。二代目調停者。剣士上がりなのに、足の運び方が変わった。ここに来てから一週間で、かなり静かになっている。
「何の用だ」
「飯の話がしたい」
「朝飯はまだ食っていない」
「だから誘いに来た」
ガレスは手を拭きながら振り返った。カイルが石畳の上に立っている。右手に包みを持っていた。布越しでも焼いたパンの匂いがする。
「……それを買う金は、どこから出た」
カイルは少し間を置いた。
「調停者の活動費だ」
「俺への支援は、その活動費から出ていたのか」
「……うるさいな」
ガレスはパンを受け取った。受け取りながら、何も言わなかった。言葉の代わりに水場の縁に腰を下ろして、包みを開ける。中には粗挽きのライ麦パンが二つと、乾燥した果物が少し入っていた。質素だが、今の二人には十分だった。
カイルが隣に座る。
しばらく二人とも黙ってパンをちぎっていた。遠くから議事堂の鐘の音が聞こえた。今日の査問は昼過ぎに始まる。それまでにはまだ時間がある。
「一つ聞いていいか」
ガレスが先に口を開いた。カイルはパンを持ったまま「ああ」と答える。
「お前は、連合に背いた俺に金を出している。それは——俺への投資か、施しか」
「どっちだと思う」
「わからん。だから聞いた」
カイルはしばらく考えてから、果物を一粒口に入れた。酸っぱかったのか、わずかに眉が寄る。
「投資でも施しでもない。——俺が、そうしたかったからだ」
「理由がない」
「理由はある。お前があの日、剣を収めた。それだけだ」
ガレスは少し黙った。
「……それだけで、か」
「それだけで十分だ」
あの日、というのは——第七迷宮の前で討伐隊を率いてきた朝のことだろう。ガレスは門の前に立ち、剣を抜く寸前で止まった。止まったのは理屈ではなかった。部下の一人が、ゴブリンの門番から水を受け取っているのを見たからだった。
「あの場面を、お前はどこで見ていた」
「俺はその日、宿にいた。報告で聞いた」
「じゃあお前は、俺の顔も知らずに支援していたのか」
「レンから聞いていた。ガレスという人間がいて、剣を収めたと」
ガレスはパンの端をちぎった。
「……あの男は、俺のことを何と言った」
「"怖いままで来た人間だ"と言っていた」
返す言葉がなかった。
正確だった、と思う。あの朝、怖くなかったわけではない。魔物が出てきて剣を出さずに済んだのは、怖さが消えたからではない。——もっと正確に言えば、剣を抜いても何も解決しないと、ただそれだけを感じたからだった。
「俺は二十三人、部下を失った」
ガレスが言うと、カイルは何も言わずに聞いていた。
「溢出の夜だ。第三迷宮の境界が崩れた。当時、魔物との協定など存在しなかった。ただ殺して、殺されて、それが世界の仕組みだった」
「……ああ」
「二十三人は皆、俺の命令で前に出た。逃げられたかもしれない者もいた。でも俺が出せと言った。それが正しいと思っていたから」
水場の水が、ゆっくりと石に落ちている音がする。
「あの三年で世界が変わった。魔物と話ができる。脅威だと思っていたものと、水を共有できる。——でも俺の部下は、三年前に死んでいる」
カイルは黙って聞いていた。パンを持ったまま、食べるのを止めていた。
「俺は、連合がレンを処分しようとしていると聞いたとき、最初は——正直、清々したと思った」
「そうか」
「あいつのせいで世界が変わった。あいつのせいで、俺たちの戦った意味が宙に浮いた。部下の死が、"必要のなかった戦い"に変わりかけている。それが、腹立たしかった」
ガレスは果物を一粒、口に入れた。
「だが実際に会ったら、腹が立てられなかった」
「……なぜだ」
「ゴブリンが、茶を出した。魔物が、俺に茶を出した」
カイルがわずかに表情を緩める。
「あいつは、茶を出すのが好きだからな」
「茶を出すゴブリンを、俺は殺しに来ていたのか——という話だ。腹が立つより先に、意味がわからなくなった」
二人はしばらく黙ってパンを食べた。
ガレスにとって、この十日ほどの記憶は奇妙な感触がある。隊長職も年金も失った。連合からの信用は地に落ちた。ヴァリスに滞在する費用も、もとを辿れば調停者の懐から出ている。どこからどう見ても、転落している。
なのに、眠れる。
二十年のあいだで最も深く眠れている気がする。
「一つ聞いていいか」
今度はカイルが言った。
「なんだ」
「お前は後悔しているか」
ガレスはすぐに答えなかった。水場の音を聞いていた。
「……後悔はしていない」
「そうか」
「だが、辛くないとは言っていない」
「そうだな」
カイルはパンの残りを包みに戻した。食べ切れないというより、話しながら食う気分ではなくなったように見える。
「俺も、似たようなことがあった」
「お前がか」
「レンと同期だ。あいつが門番に飛ばされたとき——俺は何も言わなかった。言えたかもしれないのに」
「……言えば良かったと思っているか」
「ずっとそう思ってた。今は少し違う」
「どう違う」
カイルは少し考えてから答えた。
「あのとき言っていたら、今の俺じゃなかったかもしれない。後悔したからこそ、今ここにいる。——後悔は、役に立つ。消えなくていいものだ」
ガレスはその言葉を、しばらく口の中で転がすように考えた。
役に立つ。
二十三人の死が、役に立つとは思わない。だが——それを抱えたまま、剣を収めることはできた。後悔を持ちながら、査問の場で立ち上がることはできた。
「……難しいな」
「難しい」
「お前は、清々しそうに言う」
「清々しくはない。毎日、集計を見るたびに胃が痛い」
「集計とは——あの票の数字か」
「ああ。昨日の時点で賛成は九十四。俺とレンで削っているが、速くない」
ガレスは空を見た。ヴァリスの朝は霧が薄く残る。今日も曇っている。
「俺が証言したせいで、一度増えた」
「賛成九十八になった話か」
「俺がいなければ、そうはならなかった」
「……そうかもしれない」
カイルは正直に言った。ごまかさないところが、この男の厄介なところだ。
「だが、お前がいなければ——ガレスという人間の声が、この査問に入らなかった。戦争で部下を失った人間が、それでも聞いてみようと言った事実が、記録に残らなかった」
「記録に残っても、票は増えた」
「増えた先で、また削れる。それだけだ」
ガレスは立ち上がった。石畳に埃が薄くついている。靴の底でそれを払った。
「——お前は、頭を下げるのが上手いな」
「頭は下げてない」
「だが俺に金を出して、飯を持ってきて、話を聞いた。それは、頭を下げている者のやることだ」
カイルは立ち上がりながら「そうじゃない」と言った。
「頭を下げるのは、俺の役目じゃない。お前の役目でもない」
ガレスは少し、目を細めた。
「じゃあ誰の役目だ」
「——聞いてもらえなかった側の人間が、いつかそうする。それだけでいい」
査問会の始まる前、ガレスはカイルと並んで回廊を歩いた。
三年前の自分に言えば、笑われるだろうと思う。討伐隊長が、調停者と飯を食って並んで歩いている。剣はまだ腰にある——が、今は飾りに近い。
「一つだけ聞いていいか」
「さっきから何度聞くんだ」
「最後だ」
カイルが「ああ」と答える。
「レンという男は——本当に、ただ話を聞くだけで世界を動かしてきたのか」
カイルはしばらく黙った。回廊の石が足の下で規則正しく続いている。
「……ただ、ではないかもしれない」
「どういう意味だ」
「聞くのには、時間がいる。体力がいる。怖くなくなるまで待つ忍耐がいる。——まあ、そういう話を、レンは一度もしないがな」
「あいつ自身は、怖くないのか」
「怖いと言ってた。ゴブが初めてノックしてきた夜、ずっと怖かったと。それでも扉を開けたと」
ガレスは少し考えた。
怖くても、扉を開ける。
それは——兵士の仕事とどこが違うのだろう。兵士も怖い。それでも前に出る。違うのは、剣を持つか、茶を持つか、それだけかもしれなかった。
「……なるほどな」
回廊の先に、査問会場の入り口が見えてきた。
扉の前に衛兵が二人立っている。今日も長い一日になる。
「カイル」
「何だ」
「俺は、今日も来る。明日も来る。——それだけは、はっきり言っておく」
カイルは少し間を置いてから、「ああ」と言った。「わかった」
それだけだった。礼も言わない。当然のように受け取った。
ガレスはその当然さが、なぜか一番、こたえた。
礼を言われるより、当然だと思われるほうが——よほど深く刺さる。
自分がここにいることを、当たり前のように織り込んでいる。そのことが。
扉が開かれた。
今日の査問が、始まる。
夕刻、議事堂を出たところでカイルは通信石を取り出した。
日課になっていた集計の確認と転送だ。
数字を確認して、一度止まった。
ガレスが隣を歩いている。
「どうした」
「……見るか」
「見せろ」
カイルが転送した数字が、宙に薄く浮かんだ。
【査問集計:賛成94/反対20/保留13】
反対が一つ増えていた。保留も一つ増えている。——カレドが保留に動き、どこかの国が反対に回ったのだろう。細かい動きが積み重なっている。
ガレスはその数字を見ながら言った。
「まだ九十四か」
「ああ。過半数は六十四だ。まだ遠い」
「遠いな」
遠い。ただ、遠くはなっていない——三日前は九十六だった。じわじわと削れている。
「レンは今日、何の話をしていた」
「ファビラという双子の国が来た。姉弟で意見が割れていた」
「それで?」
「両方の話を聞いて、自戒したと言っていた。"半分だけ聞いて、わかった気になるところだった"と」
ガレスは少し黙った。
「自戒か。あの男でも、半分になるか」
「なるらしい」
夕霧が出始めていた。ヴァリスの夕方は早い。石畳が少し白く見える。
「カイル」
「なんだ」
「今日、俺が査問の中で立ったとき——セルウィンの顔を見たか」
「見た。なぜだ」
「苛立ちながら、何かを言いかけていた。あいつが、俺の証言を"操作の証拠"と言ったとき——口元が動いていたが、言葉になっていなかった」
カイルは少し考えてから「……ああ」と言った。「俺も気になっていた」
「言いかけた言葉を、呑んだように見えた」
「そうだな」
「あの男も、何かが揺れているんじゃないか」
カイルは通信石を仕舞いながら、ゆっくり答えた。
「揺れているなら——レンは必ず気づく。あいつはそういうものを見逃さない」
「……そうか」
ガレスは空を見た。
霧の奥に星はまだない。
まあ——明日も来れば、見えてくるものがあるかもしれない。
そう思うくらいには、今の自分は変わっていた。
「行くか」
カイルが言う。
「ああ」
二人は石畳の上を歩き始めた。今日の宿はまだ遠い。だがガレスの足は、昨日より少し軽かった。
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