第207話「動かない理由」
「ヴェスタ代表エスヴァルトが下がります。本日の査問はここまで」
セルウィンの声が広場に響き、石畳の上に集まっていた各国代表たちがそれぞれの席へ戻り始める。広い議事広場の空気がほんのわずかだけ弛緩した——午後の陽が傾き始め、観覧席にも人の動きが出てきた。
俺はヴェスタ代表のエスヴァルトが席を立つのを見送った。
あの老人の背中は、まっすぐだった。
老いていても、百年の遺産を背負う者の背筋は曲がらない。敬意に値する。問題はその誇りが、今は閂になっているということだ。
カイルが横に来て、声を落とした。
「どうだった」
「動かなかった」
「そうだな。俺も見ていた」
カイルが羊皮紙を手元で折り畳む。集計のための書きつけだ。
「ヴェスタは今日、票を動かさなかった。ただ——」
「ただ?」
「最後にエスヴァルト老が席を立つ前、一瞬止まった。見なかったか」
俺は思い返した。老代表が立ち上がろうとして、かすかに間を置いた。あの一秒くらいの、沈黙。
「見た」
「あそこに何かある。俺の読みでは」
カイルが珍しく断言する。
三年前、この男は人の話を聞くのが嫌いだった。今は人の沈黙まで読もうとしている。
まあ、悪くない変化だ。
「今日は終わりか」とカイルに確認しようとしたとき、後ろから声をかけられた。
振り返ると、そこには若い男が立っていた。
二十代の前半、といったところだろうか。服装はヴェスタの随員を示す紺の縁取りが入っているが、代表団の中では目立たない立ち位置にいた人物だ。査問の間中、ずっとエスヴァルト代表の後ろに控えていた。
男は周囲をちらりと確認してから、俺の近くに歩み寄った。
「少しだけ、よろしいですか」
低く、しかし急いている声だった。
俺は特に警戒もせず、カイルと視線を交わした。カイルがわずかに頷く。
「どうぞ」と俺は言った。
男は一度だけ深く息を吸って、言った。
「代表は、本当は変わりたいと思っています」
広場の喧騒から少し離れた柱の陰だったが、それでも俺は思わず声量を下げて返した。
「そうですか」
「五百二十年の秩序が、とおっしゃっていましたが——あれは、建前です。本音は別のところにある」
男の目が、不安と覚悟のあいだを揺れていた。それでもここに来た。声をかけた。それだけで十分だ。
「聞かせてもらえますか」と俺は言った。
男がまた周囲を確認する。今度はもっと丁寧に。
それから、口を開いた。
「……代表は三ヶ月後に引退を控えています。ヴェスタでは次期代表の選定がもう始まっていて、保守派が圧倒的に優勢です。今ここで票を変えれば——」
男が続ける。
「帰国した後、三ヶ月の間に「魔物に心を乱された老人が判断を誤った」という記録を残されて終わります。最終的な政治的な評価が、その三ヶ月で決まる」
俺は黙って聞いた。
「エスヴァルト代表は五十年、ヴェスタに仕えてきた方です。最後の瞬間に、五十年の信頼を自分で崩したくない。それだけです」
男の言葉が止まった。
喧騒が遠い。風が柱の間を通り抜ける音だけが、しばらく続いた。
俺の中で、何かが静かに整理されていった。
「名前を聞いてもいいですか」と俺は言った。
男が少し驚いた顔をした。質問の内容に、ではなく、質問そのものに。
「……クレン、です。ヴェスタ代表団の第三随員」
「クレンさん。なぜ、俺に話しに来たんですか」
男——クレンが、一瞬だけ目を伏せた。
「代表の評価のためか、それとも別の理由があるか、聞きたかっただけです」
「代表の評価は、守れますか」
「守れません。俺には権限がない」
「それでも来た」
クレンが少し黙った。それから、静かに言った。
「代表が、今朝こうおっしゃっていたんです。「あの男の言葉は間違っていない。しかし間違っていない言葉を受け入れることが、正しいとは限らない」と」
俺は黙って聞いた。
「間違っていない、とエスヴァルト代表は思っている。でも政治の論理が、その先を遮っている。それを——誰かに言いたかった気がして」
クレンが少し自嘲するように笑った。
「俺も、どうしたいのかよくわかってないんですが」
俺はしばらく、その言葉を受け止めた。
「わかってなくて、ここに来た」
「……はい」
「それで十分だと思いますよ」
クレンが少し面食らった顔をした。
俺たちは柱の陰から広場の端へと少し移動して、石のベンチに並んで腰を下ろした。
カイルは少し離れたところに立って、周囲に目を配っている。邪魔をしない距離を選んでいる。いい配慮だ。
「エスヴァルト代表が三ヶ月後に引退する、ということは——今日の票が、最後の査問票になる可能性が高い」
俺が言うと、クレンは頷いた。
「次の代表が選ばれる前に決着がつくと思います。日程的に」
「そして次の代表は保守派の選定になる、と」
「おそらく」
ということは、ヴェスタの票は今のエスヴァルトを動かさない限り、そのまま処分賛成で固定されることになる。
賛成96。今日も動かなかった。
「一つだけ聞かせてください」と俺は言った。「クレンさん自身は、どう思っていますか」
クレンが俺を見た。
「俺、ですか」
「代表団の一員として来ているけど、あなた自身の考えを聞いたことがない」
クレンは少し間を置いた。
それから、口の中で何かを確かめるように、ゆっくりと言った。
「……魔物との三年間が平和だったのは、俺でも知っています。故郷の村でも、溢出が止まったと父から手紙が来ました。妹が、安心して畑に出られるようになったと」
「それは、よかった」
「でも俺は、代表団の随員として来ている。俺の意見は関係ない」
「そうですか」
俺は特に反論しなかった。ただ、もう一つ聞いた。
「ヴェスタで生まれ育って、故郷に家族がいて、その人たちが安全になったことを知っている。それが「関係ない」になる、というのが——俺には少し、不思議に聞こえます」
クレンが黙った。
俺は続けた。
「あなたが今日ここに来たのも、そこと繋がっていませんか」
長い沈黙が続いた。
遠くで別の国の随員たちが笑い声を上げながら通り過ぎていく。石畳に夕方の影が長く伸び始めている。
「……代表は、本当は変わりたいのかもしれない」
クレンがそう繰り返した。今度は確認するような、問いかけるような言い方で。
「そうかもしれないですね」
「でも、変われない理由がある」
「変われない理由の話は、聞きました」
「それを聞いて——あなたは、どうするんですか」
俺は少し考えた。
「今日は何もしません」
クレンが驚いた顔をした。
「……何も?」
「俺にエスヴァルト代表の三ヶ月後の評価を守る権限はない。あなたと同じです。俺にできることは、話を聞くことだけです」
「それで、変わりますか」
「わかりません」
率直な答えを返すと、クレンがまた少し面食らった顔をした。
「変わるかどうかは、俺が決めることじゃない。エスヴァルト代表が決めることです。でも——」
俺は少し間を置いた。
「変わりたいと思っている人の話は、ちゃんと聞いておきたい。それだけです」
クレンはしばらく俺の顔を見ていた。
何かを確かめるように。あるいは、何かを諦めるように。
それから、静かに言った。
「……このこと、代表には内緒に」
俺は頷いた。
「もちろんです」
クレンが立ち上がり、深く一礼した。それから、代表団の方へと戻っていった。
その背中を見ながら、俺は石のベンチに少し長く座っていた。
夕暮れの廊下を、カイルと並んで歩いている。
石壁に松明が灯り始めていた。外から染み込む夕の風が少し冷たかった。
「聞いていたか」とカイルが言った。
「どのくらい」
「大方」
「そうか」
カイルが羊皮紙を広げた。今日の集計だ。
「ヴェスタは動かなかった。数字上は変わらない」
【査問集計:賛成96/反対19/保留12】
「うん」
「だが——」カイルが少し考えてから、続けた。「あの随員が来た、というのは事実として残る」
「そうだな」
「動かない代表の後ろで、動きたい随員がいた。それは——」
「その構造、どこかで見たことがある気がするだろう」
カイルが少し黙った。
それから「ヴェスタだけじゃないかもしれないな」と言った。
「おそらく」
俺は廊下の窓から外を見た。ヴァリスの街が夕暮れの中に広がっている。遠くに議事広場の屋根が見える。
あの場所に、百二十七の国が集まっている。
代表と随員。建前と本音。誇りと恐怖。
それぞれがあって、その重なりの中でひとつの票が決まる。
「エスヴァルト老が引退する前に——」とカイルが言いかけた。
「今はまだ動かない」と俺は言った。「あの人は今日、考えている。それで十分だ」
「焦らないのか」
「焦っても、変わらない」
カイルが少し口をへの字に曲げた。それが不満なのか納得なのか、三年経っても読みにくい顔をする。
「……お前は本当に焦らないな」
「焦ってるときもある」
「どんなとき」
俺は少し考えた。
「カイルが倒れそうなとき」
カイルが一瞬だけ表情を崩した。「……それは余計なことを」とつぶやいて、羊皮紙を折り直した。
廊下の先、曲がり角の手前でカイルが足を止めた。
「一つ確認していいか」
「なんだ」
「今日、クレンという随員の話を聞いた。エスヴァルト代表は変わりたいが変われないと聞いた。それで明日、お前は何をする」
俺はしばらく考えた。
「まあ、聞いてから判断しよう」
カイルが短く息を吐いた。呆れでも苛立ちでもない、少しだけ力の抜けたような音だった。
「……三年前から変わらないな」
「変わる必要がなかった」
「そうか」
カイルが歩き出す。俺も並んで歩く。
廊下の石畳に、ふたりの影が伸びていた。
曲がり角を曲がったところで、カイルが不意に立ち止まった。
前を向いたまま、低い声で言った。
「レン」
「なんだ」
「ヴェスタじゃなく——もっと厄介な話がある」
俺はカイルの横顔を見た。普段の渋い顔とは少し違う。何かを測るような、慎重な目をしていた。
「レイラの動きが、また出た」
レイラ。
その名前は、数日前にカイルの口から初めて聞いた。処分を裏で煽っている人物。戦争で家族を失った、女性官吏。
「どんな動きだ」
カイルが羊皮紙をもう一枚取り出した。今度は集計ではなく、別の何かが書かれている。
「ヴェスタの保守派議員に、匿名で書状が届いたらしい。内容は——」
カイルが少し声を低くした。
「「クレンという随員が、人類最大の脅威と内密に接触した」という通報だ」
俺は動かなかった。
ただ、その言葉の重さを確かめた。
「……タイミングが、早い」
「今日の夕方のことを、もう誰かが動いた。それだけ監視の目がある」
クレンが俺に話しかけてから、まだ一時間も経っていない。
「クレンは」
「まだ代表団にいる。ただ、今夜中に「内密接触」の件が代表に伝わる可能性が高い」
エスヴァルト代表が変わりたいと思っていた。クレンがそれを俺に伝えに来た。その事実が、今夜の書状によって「謀議」に変換されようとしている。
俺は廊下の石壁に手を置いた。冷たかった。
「レイラは——俺を孤立させたいんじゃなくて、俺の話を聞こうとした人間を潰したいんだな」
カイルが黙って頷いた。
「それのほうが、効率がいい。俺を直接処分するより、俺に近づく者を罰することで——誰も近づかなくなる」
「そういうことだ」
俺はしばらく石壁の冷たさを感じていた。
クレンの顔が浮かんだ。「妹が、安心して畑に出られるようになった」と言ったとき、あの目に確かに何かがあった。
「クレンを守れるか」
「俺には手段がない。カーラ副司令に——」
「カーラさんは今夜、ここにいるか」
「連絡は取れる」
「頼む」
カイルが頷いた。羊皮紙をしまいながら、少し口の端を引き締める。
「……お前のそういうところは、変わらないな」
「何が」
「自分が損をしても、聞いてきた相手を守ろうとする」
俺は特に答えなかった。
変わらない、と言われても、他のやり方がわからない。
「レイラに、会えるか」と俺は聞いた。
カイルが一瞬だけ驚いた顔をした。
「……今のお前の状況で、向こうに会いに行くのか」
「向こうが動いているなら、俺も動く」
「レイラは——」カイルが言葉を選んだ。「話を聞かせてくれるような相手じゃないかもしれない。ガレスの話では、戦争で全てを失った人間だ。お前への怒りは、論理で届く場所にない可能性がある」
「それでも聞く」
「なぜ」
俺は少し考えた。
「論理で届かないなら、論理じゃないところで聞くしかない。怒っている人間の話は、怒りごと聞くしかない」
カイルが長い沈黙の後、静かに言った。
「——お前は本当に、怖くないのか」
「怖い」
「それでも行くのか」
「まあ——聞いてから判断しよう」
カイルがまた短く息を吐いた。今度は廊下の向こうを向いて、少し頭を抱えるような仕草をした。
「……お前が言うと、それで何でも片がつきそうに聞こえる。腹が立つ」
「腹が立つのと、間違っていると思うのは別だろう」
「別だ。腹が立つが、間違っているとは思っていない」
「それで十分だ」
カイルが首を振って、歩き出した。
俺も続いた。
廊下の突き当たりに、外の光が見えている。もう夜になりかけている。
ヴェスタの若い随員の言葉が、まだ耳の中にあった。
「代表には内緒に」
その人間が今夜、動くかもしれない。
動かない石の国が、ほんの少しだけ揺れた。
それで十分だ、と思いながら——俺は夜の廊下を歩き続けた。
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