第206話「老いた国の誇り」
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翌朝、議事広場に敷かれた陽が斜めに差し込んできた頃、俺は石造りの回廊に一人で立っていた。
昨日のセルウィンとの廊下での話が、まだ頭の隅に引っかかっている。
「呼ばれない名前は、存在するかどうかわからない」
俺がそう言ったとき、セルウィンは珍しく長い間を置いてから話し始めた。カナル公国の記録官だった過去。恐怖から生き残りを選んだ夜。公爵の名を記録から消した手。
あの男が何を抱えているのか、俺には全部はわからない。
でも聞いた。それだけだ。
「レン」
背後からカイルの声がした。足音に靴底の磨り減った感触が滲んでいて、連日の集計作業で疲れているのが声でわかる。
「今日の相手、確認したか」
「ヴェスタだろ」
「そうだ」
カイルが隣に並んで、回廊の向こうに見える議事広場を眺めた。朝の光の中で広場には既に市民が集まり始めていて、昨日より人数が多い気がした。
「ヴェスタは動かないぞ。建国五百年の最古参、連合の礎を自任している。あの国が動けば、残りはなだれを打つ。逆に言えば動かない限り周辺国も追随できない」
「わかってる」
「わかってて、どうするんだ」
俺は少し考えてから言った。
「まあ、聞いてから判断しよう」
カイルが小さく息を吐いた。呆れではなく、諦めでもなく、何かを受け入れた音だった。
「……そうだな」
ヴェスタの代表団が議事広場の中央に進み出てきたのは、午前の鐘が鳴った直後だった。
先頭に立つのは、連合の査問会において最長老の部類に入る男だ。名をエスヴァルトという。七十を超えているはずで、白髪を丁寧に梳かし、ヴェスタ王国の紋章を染め抜いた外套を羽織っていた。歩き方が緩やかで、それが老齢からなのか威厳を演出してのことなのか、俺には判断がつかなかった。
後ろに随員が三名ついている。全員が四十代以上に見えた。若い者を連れてこなかったことに、何かの意図があるのかもしれない。
セルウィンが位置について、短く手続きを述べた。
「ヴェスタ王国、エスヴァルト代表。発言の準備が整い次第——」
「構わん」
エスヴァルトが遮った。声は思ったより大きく、よく通った。
俺は向かいの席に腰を下ろして、エスヴァルトを見た。エスヴァルトも俺を見ていた。値踏みというより、観察に近い視線だった。
「アシダ・レン、だな」
「はい」
「若いな」
「そう言われます」
エスヴァルトが少し眉を動かした。期待した反応と違ったのかもしれない。
「我がヴェスタは、五百二十年前に建国された。この大陸で最も長く続いた国家だ。人類連合の基礎となった「ヴァリス協定」は、ヴェスタの先人が主導した。我々なしに、今の人類連合はない」
「知っています」
「なら、我々がこの査問会でどれほどの意味を持つか、わかるはずだ」
俺は頷いた。
「ヴェスタが動けば流れが変わる。あなた方自身もそれをわかって、ここに来た」
「……そうだ」
「それを承知で、俺に話を聞かせてくれるということですよね」
エスヴァルトがわずかに目を細めた。
「話を聞かせろ、とは言っていない。我々は、これが茶番であることを表明しに来た」
俺は黙って続きを待った。
「お前がやっていることは、感情的な揺さぶりだ。小国の不満を拾い上げ、大国への不信を煽り、連合の秩序を内側から崩す。魔物との和解などというまやかしを旗印に、人類が百年かけて築いた秩序を破壊する。その恐ろしさを、若者には理解できんだろうが」
広場に響く声だった。傍聴席の市民たちも静かに聞いていた。
俺は一拍置いてから口を開いた。
「ヴェスタが築いた秩序というのは、何ですか」
エスヴァルトが眉を上げた。
「何、とは」
「五百二十年前、ヴェスタが建国されたとき——その前の秩序を、どうやって変えましたか」
静けさが落ちた。
エスヴァルトの随員の一人が微かに顔を動かしたのが、視界の端に映った。
「……歴史の問答をしに来たつもりはない」
「俺もそうじゃないです。ただ、秩序というものが、最初からあったわけじゃないとすれば——誰かが最初にあった何かを変えて、今のヴェスタが生まれたはずだ、と思って」
エスヴァルトは答えなかった。答えないことが、答えだった。
「あなたたちが守りたいのは、秩序そのものじゃないと思う」
俺は声を落とさずに続けた。
「守りたいのは、その秩序を作ったことへの誇りじゃないか、と」
沈黙が伸びた。
長い沈黙だった。
エスヴァルトの視線が俺を離れ、広場の石畳のどこか遠い場所に向かった。
「……五百二十年」
老人が呟くように言った。
「我々の先人は、戦争と疫病と、魔物の溢出を乗り越えてきた。その都度、何かを失い、それでも続けてきた。お前のような若者に、その重みがわかるか」
「わかりません」
俺は素直に言った。
「五百年の重みを俺には想像できない。あなたが経験した時間の分量を、俺は持っていない」
エスヴァルトが俺を見た。
「でも、聞くことはできる」
老人は長い間、俺を見ていた。
傍聴席は静まり返っていた。広場に風が吹いて、外套の裾が揺れた。
「……何が聞きたい」
それは質問というより、疲れた声だった。七十年を超えた人間の、長い年月を経てきた声だった。
「ヴェスタが一番、何を怖がっているのかを」
「秩序が崩れることだ。先ほど言った」
「それが崩れると、何が起きますか」
「混乱が起きる。争いが起きる。人が死ぬ」
「秩序があれば、人は死なないですか」
エスヴァルトの表情が動いた。
俺は畳みかけなかった。ただ待った。
エスヴァルトが息を吸う音がした。広場では誰も動いていなかった。
「……死ぬ」
老人がゆっくり言った。「秩序の中でも、人は死ぬ。戦で死ぬ。病で死ぬ。貧しさで死ぬ。それは、変わらなかった」
「でも秩序がある方が、ましだ、と」
「そうだ」
「その『ましだ』という感覚は、五百年の経験から来ている」
「……そうだ」
俺は少し前に身を乗り出した。
「だったら、俺が聞きたいのはそこです。この三年間、魔物との共存の試みが始まって——ヴェスタの管轄地域で溢出は何件起きましたか」
エスヴァルトの眉が動いた。
「それは——」
「ゼロじゃないですか」
沈黙。
「ヴェスタの国境沿いの第三迷宮、カイルの管理データによれば三年間の溢出件数は二件、いずれも軽微で死者なし。五百二十年の歴史の中で、これほど安定した三年間があったかどうか——あなたなら、知っているはずだ」
エスヴァルトは答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
「俺は、ヴェスタが積み上げてきたものを否定しに来たんじゃないです」と俺は言った。「でも、その積み上げたものの上に、さらに積めるかもしれない。そのことを——怖くても、聞いてみてほしかった」
老人が俺を見た。
七十年を超えた目だった。疑いと、苦さと、何か別の感情が混ざっていた。
「……若者よ」
エスヴァルトが言った。
「お前は、説得が上手いな」
「そう言われると、困ります」
「なぜ」
「上手く説得されたと思ったら、次から聞く前に警戒する。俺は説得したいんじゃなくて、あなたに判断してほしい」
エスヴァルトが再び長い間、俺を見た。
随員の一人が小さく咳払いをした。エスヴァルトは振り返らなかった。
「……今日の答えは出さん」
老人がゆっくりと言った。「持ち帰る。ヴェスタは、一人の代表が決める国ではない。先人たちの積み上げた仕組みの中で、決める」
「わかりました」
「ただ——」
エスヴァルトが立ち上がりかけて、止まった。
「お前が言ったことを、記録させる。ヴェスタは記録を残す国だ。五百年分の記録がある。お前の言葉も、そこに加える」
俺は少し驚いた。それが何を意味するのか、すぐには判断できなかった。
「ありがとうございます」
「礼は要らん」
エスヴァルトが立ち上がった。随員が揃って従った。
老人が踵を返す前に、一度だけ俺を振り返った。
「若者よ。五百年の記録の中に、お前のような人間の話は出てくる。たいてい短命だ」
「そうですか」
「だが——記録には、残る」
それだけ言って、エスヴァルトは歩いて行った。
午後になって、カイルが集計を送ってきた。
【査問集計:賛成96/反対19/保留12】
数字は変わっていなかった。
俺はその数字をしばらく見つめた。変わらなかった。動かなかった。ヴェスタは持ち帰ると言った。それが「保留」にもカウントされていないということは、まだ「賛成」のままだ。
変わらない。
手の届かないところに、壁がある感じだった。
回廊の石の壁に背を預けて、俺は天井を見た。天井の継ぎ目に年月の苔が生えていた。この建物も、長い時間を経てきたんだろう。
「動かなかったな」
カイルの声がした。いつの間にか隣に来ていた。
「うん」
「珍しく、顔に出てるぞ」
「そうか」
俺は天井から視線を下ろした。
「ヴェスタの代表が言ってた。五百年の記録には、俺みたいな人間の話が出てくるって。たいてい短命だ、と」
カイルが少し間を置いた。
「それで、怖くなったのか」
「いや」俺は首を振った。「記録には残るって言ってた。それで——なんか、急いでいる感じがなくなった」
カイルが俺を見た。
「何が言いたいんだ」
「ヴェスタは、五百年かけて考えてきた。俺には五百年ない。でも俺が今日ここで聞いたことは、向こうの記録に入る。次に誰かが聞きに来たとき、今日の話が下地になる。それでいいんだと思う」
カイルが黙って俺を見ていた。
しばらくして、深く息を吐いた。
「……お前、本当に、長い目で見すぎだ」
「そうか」
「でもまあ——」カイルが少し笑った。「それが、お前のやり方だな」
広場の方から、夕方に向けて引き上げる市民の声がざわめいて聞こえてきた。今日も終わった。票は変わらなかった。
でも記録には残る。
老人がそう言った。
それで、今日のところは十分だ。
俺はそう思うことにした。
夜、カイルが送ってきた今日の最終集計を、俺はもう一度確認した。
【査問集計:賛成96/反対19/保留12】
変わっていない。
明日に向けて次の国を確認しようとしたとき、カイルからもう一つ、別の通信が届いた。
「ヴェスタの随員の一人から、個別に面会の申し出がある」
俺は少し考えた。
随員。代表ではなく、随員から。
「名前は」
「ドレン・エスヴァルト。代表の、孫だそうだ」
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