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門番、魔王軍と交渉する〜ハズレジョブでも、話を聞く奴が世界を動かす〜  作者: ハル
門番、世界と話す

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206/273

第206話「老いた国の誇り」

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翌朝、議事広場に敷かれた陽が斜めに差し込んできた頃、俺は石造りの回廊に一人で立っていた。


昨日のセルウィンとの廊下での話が、まだ頭の隅に引っかかっている。


「呼ばれない名前は、存在するかどうかわからない」


俺がそう言ったとき、セルウィンは珍しく長い間を置いてから話し始めた。カナル公国の記録官だった過去。恐怖から生き残りを選んだ夜。公爵の名を記録から消した手。


あの男が何を抱えているのか、俺には全部はわからない。


でも聞いた。それだけだ。


「レン」


背後からカイルの声がした。足音に靴底の磨り減った感触が滲んでいて、連日の集計作業で疲れているのが声でわかる。


「今日の相手、確認したか」


「ヴェスタだろ」


「そうだ」


カイルが隣に並んで、回廊の向こうに見える議事広場を眺めた。朝の光の中で広場には既に市民が集まり始めていて、昨日より人数が多い気がした。


「ヴェスタは動かないぞ。建国五百年の最古参、連合の礎を自任している。あの国が動けば、残りはなだれを打つ。逆に言えば動かない限り周辺国も追随できない」


「わかってる」


「わかってて、どうするんだ」


俺は少し考えてから言った。


「まあ、聞いてから判断しよう」


カイルが小さく息を吐いた。呆れではなく、諦めでもなく、何かを受け入れた音だった。


「……そうだな」



 



ヴェスタの代表団が議事広場の中央に進み出てきたのは、午前の鐘が鳴った直後だった。


先頭に立つのは、連合の査問会において最長老の部類に入る男だ。名をエスヴァルトという。七十を超えているはずで、白髪を丁寧に梳かし、ヴェスタ王国の紋章を染め抜いた外套を羽織っていた。歩き方が緩やかで、それが老齢からなのか威厳を演出してのことなのか、俺には判断がつかなかった。


後ろに随員が三名ついている。全員が四十代以上に見えた。若い者を連れてこなかったことに、何かの意図があるのかもしれない。


セルウィンが位置について、短く手続きを述べた。


「ヴェスタ王国、エスヴァルト代表。発言の準備が整い次第——」


「構わん」


エスヴァルトが遮った。声は思ったより大きく、よく通った。


俺は向かいの席に腰を下ろして、エスヴァルトを見た。エスヴァルトも俺を見ていた。値踏みというより、観察に近い視線だった。


「アシダ・レン、だな」


「はい」


「若いな」


「そう言われます」


エスヴァルトが少し眉を動かした。期待した反応と違ったのかもしれない。


「我がヴェスタは、五百二十年前に建国された。この大陸で最も長く続いた国家だ。人類連合の基礎となった「ヴァリス協定」は、ヴェスタの先人が主導した。我々なしに、今の人類連合はない」


「知っています」


「なら、我々がこの査問会でどれほどの意味を持つか、わかるはずだ」


俺は頷いた。


「ヴェスタが動けば流れが変わる。あなた方自身もそれをわかって、ここに来た」


「……そうだ」


「それを承知で、俺に話を聞かせてくれるということですよね」


エスヴァルトがわずかに目を細めた。


「話を聞かせろ、とは言っていない。我々は、これが茶番であることを表明しに来た」


俺は黙って続きを待った。


「お前がやっていることは、感情的な揺さぶりだ。小国の不満を拾い上げ、大国への不信を煽り、連合の秩序を内側から崩す。魔物との和解などというまやかしを旗印に、人類が百年かけて築いた秩序を破壊する。その恐ろしさを、若者には理解できんだろうが」


広場に響く声だった。傍聴席の市民たちも静かに聞いていた。


俺は一拍置いてから口を開いた。


「ヴェスタが築いた秩序というのは、何ですか」


エスヴァルトが眉を上げた。


「何、とは」


「五百二十年前、ヴェスタが建国されたとき——その前の秩序を、どうやって変えましたか」


静けさが落ちた。


エスヴァルトの随員の一人が微かに顔を動かしたのが、視界の端に映った。


「……歴史の問答をしに来たつもりはない」


「俺もそうじゃないです。ただ、秩序というものが、最初からあったわけじゃないとすれば——誰かが最初にあった何かを変えて、今のヴェスタが生まれたはずだ、と思って」


エスヴァルトは答えなかった。答えないことが、答えだった。


「あなたたちが守りたいのは、秩序そのものじゃないと思う」


俺は声を落とさずに続けた。


「守りたいのは、その秩序を作ったことへの誇りじゃないか、と」


沈黙が伸びた。


長い沈黙だった。


エスヴァルトの視線が俺を離れ、広場の石畳のどこか遠い場所に向かった。


「……五百二十年」


老人が呟くように言った。


「我々の先人は、戦争と疫病と、魔物の溢出を乗り越えてきた。その都度、何かを失い、それでも続けてきた。お前のような若者に、その重みがわかるか」


「わかりません」


俺は素直に言った。


「五百年の重みを俺には想像できない。あなたが経験した時間の分量を、俺は持っていない」


エスヴァルトが俺を見た。


「でも、聞くことはできる」


老人は長い間、俺を見ていた。


傍聴席は静まり返っていた。広場に風が吹いて、外套の裾が揺れた。


「……何が聞きたい」


それは質問というより、疲れた声だった。七十年を超えた人間の、長い年月を経てきた声だった。


「ヴェスタが一番、何を怖がっているのかを」


「秩序が崩れることだ。先ほど言った」


「それが崩れると、何が起きますか」


「混乱が起きる。争いが起きる。人が死ぬ」


「秩序があれば、人は死なないですか」


エスヴァルトの表情が動いた。


俺は畳みかけなかった。ただ待った。


エスヴァルトが息を吸う音がした。広場では誰も動いていなかった。


「……死ぬ」


老人がゆっくり言った。「秩序の中でも、人は死ぬ。戦で死ぬ。病で死ぬ。貧しさで死ぬ。それは、変わらなかった」


「でも秩序がある方が、ましだ、と」


「そうだ」


「その『ましだ』という感覚は、五百年の経験から来ている」


「……そうだ」


俺は少し前に身を乗り出した。


「だったら、俺が聞きたいのはそこです。この三年間、魔物との共存の試みが始まって——ヴェスタの管轄地域で溢出は何件起きましたか」


エスヴァルトの眉が動いた。


「それは——」


「ゼロじゃないですか」


沈黙。


「ヴェスタの国境沿いの第三迷宮、カイルの管理データによれば三年間の溢出件数は二件、いずれも軽微で死者なし。五百二十年の歴史の中で、これほど安定した三年間があったかどうか——あなたなら、知っているはずだ」


エスヴァルトは答えなかった。


答えられなかったのかもしれない。


「俺は、ヴェスタが積み上げてきたものを否定しに来たんじゃないです」と俺は言った。「でも、その積み上げたものの上に、さらに積めるかもしれない。そのことを——怖くても、聞いてみてほしかった」


老人が俺を見た。


七十年を超えた目だった。疑いと、苦さと、何か別の感情が混ざっていた。


「……若者よ」


エスヴァルトが言った。


「お前は、説得が上手いな」


「そう言われると、困ります」


「なぜ」


「上手く説得されたと思ったら、次から聞く前に警戒する。俺は説得したいんじゃなくて、あなたに判断してほしい」


エスヴァルトが再び長い間、俺を見た。


随員の一人が小さく咳払いをした。エスヴァルトは振り返らなかった。


「……今日の答えは出さん」


老人がゆっくりと言った。「持ち帰る。ヴェスタは、一人の代表が決める国ではない。先人たちの積み上げた仕組みの中で、決める」


「わかりました」


「ただ——」


エスヴァルトが立ち上がりかけて、止まった。


「お前が言ったことを、記録させる。ヴェスタは記録を残す国だ。五百年分の記録がある。お前の言葉も、そこに加える」


俺は少し驚いた。それが何を意味するのか、すぐには判断できなかった。


「ありがとうございます」


「礼は要らん」


エスヴァルトが立ち上がった。随員が揃って従った。


老人が踵を返す前に、一度だけ俺を振り返った。


「若者よ。五百年の記録の中に、お前のような人間の話は出てくる。たいてい短命だ」


「そうですか」


「だが——記録には、残る」


それだけ言って、エスヴァルトは歩いて行った。



 



午後になって、カイルが集計を送ってきた。


【査問集計:賛成96/反対19/保留12】


数字は変わっていなかった。


俺はその数字をしばらく見つめた。変わらなかった。動かなかった。ヴェスタは持ち帰ると言った。それが「保留」にもカウントされていないということは、まだ「賛成」のままだ。


変わらない。


手の届かないところに、壁がある感じだった。


回廊の石の壁に背を預けて、俺は天井を見た。天井の継ぎ目に年月の苔が生えていた。この建物も、長い時間を経てきたんだろう。


「動かなかったな」


カイルの声がした。いつの間にか隣に来ていた。


「うん」


「珍しく、顔に出てるぞ」


「そうか」


俺は天井から視線を下ろした。


「ヴェスタの代表が言ってた。五百年の記録には、俺みたいな人間の話が出てくるって。たいてい短命だ、と」


カイルが少し間を置いた。


「それで、怖くなったのか」


「いや」俺は首を振った。「記録には残るって言ってた。それで——なんか、急いでいる感じがなくなった」


カイルが俺を見た。


「何が言いたいんだ」


「ヴェスタは、五百年かけて考えてきた。俺には五百年ない。でも俺が今日ここで聞いたことは、向こうの記録に入る。次に誰かが聞きに来たとき、今日の話が下地になる。それでいいんだと思う」


カイルが黙って俺を見ていた。


しばらくして、深く息を吐いた。


「……お前、本当に、長い目で見すぎだ」


「そうか」


「でもまあ——」カイルが少し笑った。「それが、お前のやり方だな」


広場の方から、夕方に向けて引き上げる市民の声がざわめいて聞こえてきた。今日も終わった。票は変わらなかった。


でも記録には残る。


老人がそう言った。


それで、今日のところは十分だ。


俺はそう思うことにした。



 



夜、カイルが送ってきた今日の最終集計を、俺はもう一度確認した。


【査問集計:賛成96/反対19/保留12】


変わっていない。


明日に向けて次の国を確認しようとしたとき、カイルからもう一つ、別の通信が届いた。


「ヴェスタの随員の一人から、個別に面会の申し出がある」


俺は少し考えた。


随員。代表ではなく、随員から。


「名前は」


「ドレン・エスヴァルト。代表の、孫だそうだ」

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