第205話「呼ばれなかった名前」
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查問会が始まって四日が過ぎた。
ヴァリスの議事広場に差す日の光は、初日よりも少し傾き始めていた。市民の見物客は変わらず多い。だが同じ顔が増えてきた。初日の物見遊山が、気がつけば連日通いになっている。
大きな変化がある、というわけではない。
一国と話して、票が一つ動く。あるいは動かない。
その繰り返しだ。
それでも人は来る。
「……メルダは結局どうなったんだ」
俺の横で、カイルが手元の記録紙に何かを書き込みながら言った。声は低く、傍聴席に聞こえない程度の音量だった。
「まだ保留のままだ。ジェルムは「棄権も含めて検討する」と言っていた」
「ということは、反対まで行ける可能性は?」
「ある。ただ急かすと逃げる。あのひとは計算で動いているから、計算が追いつくまで待つ必要がある」
カイルがわずかに眉を寄せた。
「お前、よくそれがわかるな」
「わからない。ただ聞いていると、なんとなく次にどう動くかが見えてくることがある」
俺がそう答えると、カイルは何も言わなかった。ただ少し間を置いて、手元の記録紙を折り畳んだ。
【査問集計:賛成96/反対19/保留12】
その数字が紙の端に小さく記されているのが見えた。
その日の午後、正式な対話の場は空いていた。
誰も名乗り出なかった、というわけではない。翌日以降の枠はすでに埋まっている。今日は、いわば息継ぎの日だった。
俺は議事堂の廊下の石椅子に座って、水を飲んでいた。
石は冷たかった。ヴァリスの建物はどれも分厚い石造りで、夏でも内部はひんやりとしている。俺の故郷の迷宮近くの宿とは全然違う感触だ。足の裏が少し痛い。靴が合っていないのかもしれない。
「……失礼」
廊下の向こうから声がした。
査問官のセルウィンだった。
一人で歩いていた。
いつもは書記官か補佐の誰かを連れているのに、今日は珍しくひとりだった。俺が座っているのに気づいて、わずかに足を止めた。通り過ぎるかと思ったが、そうはしなかった。
少し迷ってから、俺の向かい側の壁に背をもたせかけた。
「……ここは寒い」
独り言のような声だった。俺に言ったのかどうかも判然としない。
「石が厚いんでしょうね」
俺がそう返すと、セルウィンは短く息を吐いた。否定でも肯定でもない音だった。
しばらく沈黙があった。
俺は水を飲むのをやめて、水筒の蓋を閉めた。
セルウィンは何か言いたいのか言いたくないのか、はっきりしない顔をして廊下の先を見ていた。顎の線が、少し疲れているように見えた。初日に俺と向き合ったときとは、何かが違う。
「あなたは、名前が好きですか」
唐突に、セルウィンが言った。
俺は少し考えた。
「……名前」
「役職名でなく。個人の名前のことです」
「好き、というか」と俺は言った。「呼ばれると、何かが確定する気がします」
セルウィンの目線が、廊下の先から俺の方へ移った。
「確定、か」
「呼ばれない名前は、存在しているかどうかがわからない。そんな感じがして」
セルウィンは何も言わなかった。ただ、先ほどより少し姿勢が変わった気がした。壁への体重の預け方が変わった、とでも言えばいいか。少しだけ、力が抜けた。
「私にも、そういう名前がある」
声が低くなった。
俺は何も言わなかった。ただ、聞いていた。
セルウィンという男のことを、俺はほとんど知らない。
連合から派遣された査問官。処分手続きを主導する側。「君は皆を"いい人"扱いする。世界はそんなに甘くない」と言った男。
それくらいだ。
彼がどこから来たのかも、何を経てここにいるのかも、知らない。
だから俺は聞いた。
「どこの生まれですか」
セルウィンは少し間を置いた。
「カナル公国です。今はもうありませんが」
「……滅びた?」
「吸収された。隣国のヴェスタに。三十年前のことです」
ヴェスタ。昨日対話した、建国最古を誇る大国の名前だった。
俺はその繋がりを追わないことにした。セルウィンが話したいのはそこではない気がした。
「公国には、王がいたのですか」
「国王ではなく公爵でしたが——実質的には王のようなものでした。名君と呼ばれていた。民に慕われ、言葉に力のある方で」
「その人を知っていたんですか」
「記録官でしたから。公爵の言葉を書き記す仕事を。十六の年から、二十二になるまで」
俺の問いが終わった。セルウィンの声が変わったからだ。
淡々とした報告口調から、かすかに質感のある何かが滲んでいた。
「その方は、言葉が上手い人でしたか」
「……この世界で一番だと、若い頃の私は思っていた」
「どんな言葉を使う人でしたか」
セルウィンが、ゆっくりと視線を廊下の床に落とした。
「簡単な言葉を、使う方でした。難しいことを、誰にでも届く言葉で話す。民が集まれば必ず全員の顔を見て、名前を呼んで。公爵は、名前を呼ぶことを大切にしていた。呼ばれた者は、自分が存在している、と感じる。そういう信念を持っていた」
「……それがあなたの言った、「呼ばれなかった名前」と関係がありますか」
長い間があった。
廊下の奥から、誰かの足音が遠くなっていった。
「吸収される直前の夜、公爵は私を呼びました。二人だけで話した。「記録官の仕事を続けるか、それとも公国とともに消えるか、自分で決めなさい」と言った。私は——続けることを選びました。記録は残すべきだと思ったから。それは本当のことです」
「でも」と俺は言った。「それだけじゃない」
セルウィンの顎が、わずかに引かれた。
「……怖かったのです。ただそれだけかもしれない。公国が滅んでも自分が生き残れる方を選んだ。それを、正当な理由で覆い隠して」
俺は何も言わなかった。
「公爵は最後に私の名前を呼びました。「セルウィン、頼んだ」と。その後、公爵の名前が公式記録に載ることはなかった。カナル公爵の名は、ヴェスタの記録から削除されました。私が書いた記録からも。上から、命じられましたから」
「……書き直したんですか」
「書き直しました。二十二の年に」
廊下に静けさが戻った。
セルウィンは壁から背を離して、立ち直った。
「なぜこんな話を」と彼は言った。自分自身に問いかけるように。「私はただ——水を飲みに来ただけだったのに」
「俺に水はありませんけどね」
「……それはわかっています」
短い沈黙の後、セルウィンが廊下の先を見た。
「あなたが名前の話をしたから、つられただけです。意味のないことを話した。忘れてください」
立ち去る前に、彼は俺の方を一度だけ見た。
その目が、初日に俺を見た目と違っていた。何が違うのかは、すぐには言葉にできない。ただ、見ていた。ちゃんと見ていた。
夕方、カイルが俺の部屋に来た。
宿の窓から外を見ると、ヴァリスの街に灯りが点き始めていた。石畳の上を人が行き交っている。どの顔も、特に変わったことはない様子だった。
「今日、セルウィンと話した?」
カイルが部屋に入りながら言った。
「廊下で少し」
「何を話したんだ」
「名前の話」
カイルは俺の顔を見て、それ以上聞かなかった。代わりに椅子を引いて座り、折り畳んだ紙を机に置いた。
「メルダのジェルムから通知が来た。棄権で票を変更する。明日の集計に反映される」
「そうか」
「これで——」
【査問集計:賛成95/反対19/保留13】
カイルが紙に数字を書きながら言った。
「ゆっくりだな」
「うん」
「焦りは?」
「焦っても聞く速さは変わらない」
カイルが少し呆れたように息を吐いた。それが彼なりの安心した合図だということは、もう三年の付き合いでわかっていた。
「明日はどこの国が来る?」
「ヴェスタが、再度の対話を申し込んでいる」
「昨日動かなかった国だな」
「若い随員が動いているんだと思う。代表本人には伝わっていないかもしれないが、まあ——」
「聞いてから判断しよう?」
カイルが俺の先を取って言った。
俺は少し笑った。
「そうだな」
カイルは立ち上がって、窓の外を見た。ヴァリスの夕暮れが石造りの建物を橙色に染めている。
「お前が無駄に思えることをやってるとは思っていない。思っていないが——一票一票削っていく間に協定の失効日が来たら、それはどうなる」
俺は少し考えた。
「最悪の場合は、処分が実行される」
「それを言えるのか、お前は。自分のことなのに」
「言えないと何も動かせないからな。まあ、なるべくそうならないように動くつもりだけど」
カイルはまた少し間を置いた。
「……セルウィンの話。名前の話って、どういう意味だ」
「どういう意味って言われると難しいが——」俺は言葉を選んだ。「あの人には、自分が何かを見捨てた感覚があると思う。それがずっと、どこかに刺さったままになっている」
「見捨てた、か」
「言葉で動く力を見てきた人だから、言葉で動かす俺が怖いんだろうと思っていたが——それだけじゃないかもしれない。言葉の力が、人を救えなかったことも知っている人だから」
カイルが静かに「……なるほど」と言った。
俺にはわからないことがまだたくさんある。セルウィンが何を考えているのか、あの廊下の話が彼の中でどう着地するのか。明日、ヴェスタの代表と話して何かが動くのか。
ただ、一つだけわかったことがある。
あの男はカナル公爵の名前を、今でも覚えている。
記録から消しても、誰かの名前を呼んだ記憶は消えない。
それを長年抱えたまま、この仕事をしている。
夜が深くなってから、俺は手紙を書いた。
ゴブへの手紙だ。
第七迷宮の門番は今頃、どうしているだろう。溢出はないはずだ。あいつが立っている限り、そこは大丈夫だと思っている。
「元気か。こちらは毎日一国ずつ話を聞いている。票は少しずつ動いている。焦りは——少しある。正直に言う。ただ、今日は査問官と廊下で話した。名前の話だ。
呼ばれた者は、存在を確かめられる、という話を聞いた。
お前を連れてこなかったのは、正しい判断だったと今も思っている。でも——お前がここにいたら、セルウィンに何と言うだろうと少し考えた。
お前なら、何か聞くんだろうな。俺よりうまく」
最後の一行を書いてから、俺は少し考えて消した。
余計だ。
代わりに、短く書き直した。
「また話す。待っていてくれ」
窓の外で、ヴァリスの街が静かになっていた。
明日、セルウィンはまた俺の向かいに座るだろう。査問官として、冷ややかな顔で。
それでいい。
廊下で話したことは、多分どちらも表には出さない。ただあの時間があったかどうかで、何かが変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。
まあ、聞いてから判断しよう。
ランプの灯りが揺れた。
石の壁の向こうで、誰かの足音が遠くなっていった。
翌朝、カイルが部屋のドアをノックして入ってきた。顔が少し硬かった。
「ヴェスタから通知が来た。今日の対話、代表本人ではなく——随員が来るそうだ」
「昨日俺に耳打ちした、あの随員か」
「おそらく」
俺は立ち上がって上着をはおった。
「代表が変われないなら、まず随員と話す。それでいい」
「……お前はそれで満足か」
「満足かどうかより、それが今できることだから」
カイルが短く何かを言おうとして、止まった。そして代わりに、紙を一枚俺に渡した。
【査問集計:賛成95/反対19/保留13】
【共存協定 自動失効まで:あと81日】
数字が、昨日より一日分減っていた。
カイルが「行くぞ」と言って、先に廊下へ出た。
俺はその背を見ながら、もう一度数字を確認した。
八十一日。
そしてこの夜、セルウィンは部屋の中で一人、自分が書き直した記録の写しを取り出したという。
それを俺が知ったのは、ずっと後のことだ。
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