第204話「商人国メルダの計算」
---
「商人国メルダの代表、ご入室を」
セルウィンの声が、石造りの議事広場に響いた。
ヴァリス大査問会の四日目。
周回廊の傍聴席はここ数日で顔ぶれが変わりつつある。初日に「見世物」として集まった野次馬の類は少しずつ減り、代わりに「また来た」という顔をした者たちが増えていた。昨日のカレドとの一時間半の沈黙を、最後まで見届けた者たちだ。
静かに、でも確実に、何かが変わり始めている。
それを確かめる暇は、今はない。
俺は入口の方へ目を向けた。
扉を開けて入ってきたのは、四十代とおぼしき男だった。体格はがっしりしているが、動きには隙がない。商人というより、商人を束ねて生きてきた男の顔をしている。服の素材は上等で、しかし飾りは最小限に抑えてある。実利を重んじるという意思表示を、全身で体現していた。
名をジェルム。メルダ国の交易部長官であり、今回の査問では代表を務める人物だ。
「アシダ殿」
対話席に座るなり、ジェルムは口を開いた。挨拶より先に。
「私は時間を大切にする主義です。端的に聞いて、端的に答える。よろしいですか」
「構いません」
俺は頷いた。
その言い方が、すでに興味深かった。
端的に聞く、と言った。問い詰める、でも裁く、でもなく——聞く、だ。
「メルダは、魔物との交易によって経済が支えられている国です」
ジェルムが続ける。
「先の魔王軍との和解以降、ゴブリン素材・迷宮産鉱石の取引量は三倍に増えました。魚ひとつ取ってもそうです。迷宮の水流を利用した養殖技術を迷宮の知性体から学び、海岸部の食料自給率は六割から九割へ跳ね上がった。利益は疑いなく享受しています」
俺は何も言わなかった。まだ続きがある、と感じたから。
「にもかかわらず」
ジェルムは言葉を区切った。
「メルダは、今回の査問においてアシダ殿の処分に賛成票を投じました。矛盾に聞こえますか」
「聞こえます」
正直に答えた。
「そう聞こえると思っていました」
ジェルムが初めて、ほんの少し、口の端を曲げた。笑いとも苦笑いとも取れる、微妙な角度の変化だった。
「では聞きましょう。あなたは、メルダが賛成した理由を何だと思いますか」
「連合への配慮」
俺は言った。
「大国が賛成している。周辺国が賛成している。メルダは交易で生きている国だ。連合の中で孤立することは、あなたたちにとっては致命傷になる」
ジェルムの表情が、わずかに固まった。
「続けてください」
「利益は得ている。でも連合との関係という、もっと大きな利益を守るために賛成した。感情じゃなくて、計算だ」
部屋がしんとした。
傍聴席が息を詰めるのが、末席あたりまで伝わってくる感じがした。
ジェルムは三秒ほど沈黙してから、こう言った。
「正解です。完全に正解です。ただし——」
そこで彼は初めて、前のめりになった。
「一つ、訂正させてください。感情が混じっていない、というのは少し違う」
俺は背筋を伸ばした。
「聞かせてください」
「アシダ殿」
ジェルムが続ける。声のトーンが、それまでより少しだけ低くなっていた。
「あなたは、魔物との和解を成し遂げた。それは事実です。メルダが恩恵を受けているのも事実だ。私は個人として、あなたの仕事を高く評価しています」
「しかし」と彼は言った。
「私は怖い」
その言葉は、妙に率直だった。
ジェルムのような男が、公開の場でそう言う言葉とは思えなかった。俺は内心で少し驚きながら、ただ聞き続けた。
「あなたが評価されれば、次に何を言い出すかわからない。今は魔物との和解だった。次は何ですか。交渉による国家の再編ですか。スキルを使った支配体制の構築ですか。言葉で何でもできると証明した人間が、どこで止まるかわからない」
「なるほど」
俺は一度、言葉を受け止めた。
ジェルムが言っているのは、俺個人への悪意ではない。それは分かった。この男は、可能性の話をしている。「言葉が国を動かす人間」という存在への、本質的な疑問だ。
「じゃあ聞き方を変えます」
俺は言った。
「今のメルダにとって、俺が処分されたら何が得になりますか」
ジェルムが目を細めた。
「……それは」
「端的に答えてください。あなたは端的にやりとりする主義だと言った」
一拍の間があった。
「短期的には、何も得になりません」
「長期的には?」
「連合内での信頼が維持できる。大国との関係が安定する。……ただし、魔物交易の枠組みが壊れる可能性がある」
「つまり、どちらに転んでもリスクがある」
「そういうことです」
俺は少し、考えた。
正直なところ、ジェルムの言っていることは理解できた。「言葉で何でもできる人間」への恐れは、そんなに的外れでもない。実際、俺のやり方が別の誰かの手に渡ったら、どう使われるかは俺にもわからない。
「俺が言えることは一つだけです」
俺は言った。
「俺はここ三年、何も増やしていない。領土も軍も財産も。ゴブが迷宮の門番をしている。カイルが調停者の制度を動かしている。俺はただの旅人として歩いていた。権力を積み上げることに、俺は向いていない。たぶん、飽きてしまう」
ジェルムが、ほんのわずか、表情を崩した。
「……飽きる」
「向いてないんです。誰かを動かすことより、誰かの話を聞いていた方が楽しい。実際そうやって三年生きてきた。それが証拠とは言えないかもしれないけれど——」
俺は続けた。
「俺を怖いと思う気持ちは分かります。でも、怖いかどうかは俺には証明できない。あなたが自分で見て、判断するしかない」
「見て」
ジェルムが、静かに繰り返した。
「この三年間を」と俺は言った。「見てきたんじゃないですか。メルダは交易でずっと関わっていた。俺が何をして、何をしなかったか」
長い沈黙が落ちた。
議事広場の外から、風の音がわずかに聞こえた。春先の風だ。ヴァリスの街では今頃、広場の花売りが店を開いている時間だろう。
ジェルムは机の上に視線を落としていた。
何かを計算しているのか、何かを思い出しているのか、俺には分からなかった。ただ待った。
「アシダ殿」
やがてジェルムが口を開いた。
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「あなたは、なぜそんなに聞けるんですか」
聞き慣れた問いだった。カーラにも聞かれたことがある。カイルにも聞かれたことがある。その度に俺はうまく答えられなかった。
「まあ、聞いてから判断しよう、と思っているだけですよ」
俺は言った。
「聞かないと、損だから」
ジェルムが眉を上げた。
「損」
「理解せずに判断するのは、もったいない。それだけです」
ジェルムは少しの間、また黙った。
今度は短かった。
「……アシダ殿、一つ確認です。メルダが今日ここで票を変えた場合、連合内での立場はどうなるか——あなたは分かりますか」
「大国の心証が悪くなる可能性がある」
俺は答えた。
「それは否定できません」
「分かっていますか」
「分かっています」
「その上で、あなたは私に票を変えてほしいと思っているか」
俺は考えた。正直に言うなら、変えてほしい。当然だ。でもこれはジェルムが自分で判断することだ。俺が「変えてほしい」と言うために押しかけた場ではない。
「俺の立場では、お願いできません」
俺は言った。
「メルダが何を取るかは、あなたが決めることです。俺が言えるのは——俺はこういう人間だ、ということだけです」
ジェルムは、ゆっくりと上体を起こした。
「アシダ殿」
「はい」
「メルダは、自分で見てきた事実を持っています。三年間の交易の記録。ゴブリン素材の品質記録。迷宮知性体との契約書類。あなたが関わった全ての交渉において、欺きの記録は一つもない」
「それは知りませんでした」
俺は正直に言った。
「当然です。あなたに伝えていないのだから」
ジェルムが立ち上がった。
「私はメルダの代表として判断します。利益と、恐怖の両方を秤にかけた上で——今日は結論を出せない」
俺は少し、意外に思った。
「保留、ということですか」
「保留ではない。今日は結論を出さない、ということです。明日、もう一度考えます」
それだけ言って、ジェルムは対話席を離れた。
扉が閉まる直前、彼は振り返った。
「一つだけ聞かせてください」
「はい」
「両方だ、と言ったら——あなたは軽蔑しますか」
利益と恐怖、どちらで投票しているのか。俺が最初に問うた問いの答えが、今さら返ってきた。
「しません」
俺は言った。
「両方ある方が、正直です」
ジェルムが小さく頷いて、出ていった。
扉が閉まってから、俺はカイルの方を見た。
カイルは手元の集計石に視線を落としたまま、しばらくして顔を上げた。
「……結論が出なかった」
「そうだな」
「票は動いていない。変わらず九十五だ」
カイルの声は、落胆というより確認するような、淡々とした響きだった。
「でも」
と俺は言った。
「ジェルムは今日、『利益と恐怖』の両方があると口に出した。自分でも整理できていなかったものを言葉にした。明日もう一度考える、と言った」
カイルが視線を上げた。
「それが何の意味になる」
「整理できていない人間は、まだ動ける」
俺は言った。
「決まりきった答えを持った人間より、よほど聞いてくれる」
カイルは少し考えてから、「……なるほど」と呟いた。
「次は誰だ」
俺が聞くと、カイルは集計石の傍らに広げた資料に目を落とした。
夜、俺たちが借りている宿の一室に戻ると、カイルはすぐに集計転送の作業に入った。
毎日の習慣になっていた。各国代表の動向、保留に移った票の傾向、傍聴席の空気を記録した観察員からの報告。それを整理して、第七迷宮のゴブにも簡潔に送る。フォルとの回線維持も、カイルの担当だ。
俺はその間、窓の外を見ていた。
ヴァリスの夜は、思ったより明るい。広場の灯りが遠くまで届いている。今頃、あの広場では明日の大査問会に向けて各国の随員たちが動き回っているだろう。
「カイル」
俺は呼んだ。
「なんだ」
「ジェルムは、俺が怖い理由を『どこで止まるかわからない』と言った」
「聞いていた」
「そうじゃなかったな、と思って」
カイルが顔を上げた。
「俺は向いてないんじゃなくて——たぶん、聞いている間は止まれないんだと思う。聞いた分だけ、また聞きたくなる。積み上げる気がないのは本当だ。権力とか支配とか、そういうものに俺は興味がない。でも、聞くことを止めることは、たぶんできない」
カイルは少しの間、黙っていた。
「それは、怖くないのか」
「俺には怖くない」
「ジェルムには怖いかもしれない」
「そうだな」
「だから答えになってないぞ」とカイルは言った。
「そうかもしれない」
俺は認めた。
カイルが再び集計石に向かいながら、ぼそりと言った。
「でも——向いてないのに怖い、というよりは、止まれないから怖い、の方が、まだましだ」
「どう違う」
「向いてない人間は、なんとなくそのうち止まる。止まれない人間は、次に何をするか分からない。怖さの種類が違う」
俺はしばらく、その言葉を考えた。
カイルはそれ以上何も言わなかった。
集計石から小さな光が漏れ、転送が完了した。
「今日の集計だ」
カイルが手を止めずに言った。
【査問集計:賛成95/反対20/保留12】
「ジェルムは今日は動かなかった。でも」
カイルが続けた。
「傍聴席で、今日の対話を最後まで見ていた者が三人いる。その三人は、連合内の小国の随員だ。明日、所属国の代表に何かを伝えるかもしれない」
「かもしれない、だな」
「確かなことは言えない。でも昨日のカレドのときも同じだった。翌日、隣の小国が自分から名乗り出てきた」
俺は頷いた。
傍聴席が動いている。それは分かる。「見世物」として来た人間が、いつの間にか「見ている」人間になっている。その変化は、俺が作ったわけじゃない。ジェルムやカレドや、昨日一昨日に対話した代表たちが、自分の言葉で語ったから起きていることだ。
「ガレスは、どこにいる」
俺は聞いた。
「宿を出てから連絡がない」
カイルの声が、わずかに固くなった。
「連合に追われているわけじゃないと思うが、隊長職と年金を失って——俺もいつも場所を把握しているわけじゃない」
「そうか」
「明日の朝には来るだろ。あいつは義理堅いから」
「そうだな」
俺は窓から離れて、椅子に座った。
長い一日だった。腰から下が少し重い。石畳の広場に何時間も立っていると、足の裏から疲れが来る。ヴァリスの広場は王都よりも石が硬い気がする。気のせいかもしれないが。
「メルダは、明日また何か言ってくるかもしれない」
カイルが言った。
「そう思う」
「なぜ」
「ジェルムは端的にやりとりする主義だ、と最初に言った。あの男が今日、結論を出さなかった。それは計算の外に何かが出てきたということだ。計算の外に出たものを、ジェルムは放置できない性格だ、と俺は思った」
カイルが少しの間、考えてから言った。
「……お前は、最初からそこまで読んでいたのか」
「読んでいたわけじゃない。聞いていたら、そう感じた」
「違いは」
「読むのは、聞く前にやることだ。俺がやっているのは聞いた後に気づくことだ」
カイルが「……面倒くさい言い方をする」と言った。
俺は少し笑った。
「そうか」
「でも——分かった気がする」
カイルが立ち上がり、集計石をしまいながら言った。
「まあ、聞いてから判断しよう、か。最初は呪文みたいだと思っていた。今は——なんとなく分かる」
俺は何も言わなかった。
カイルがそれを言うとき、もう地の文で気づくより先に、体が温かくなるのが分かる。そういう感覚に、俺は最近、慣れてきた。
「明日も早い」
カイルが言った。
「そうだな」
「寝ろよ」
「お前が先に寝ろ」
「……俺の方が先に起きる予定だ」
俺たちは、特に結論のない言い合いをしてから、それぞれ休んだ。
窓の外では、ヴァリスの広場の灯りがまだ消えていなかった。
どこかで明日に備えて起きている誰かの灯りだ。
その灯りが、何の灯りなのか——俺には分からない。でも、まあ聞いてから判断しよう、と思いながら、俺は目を閉じた。
翌朝。
宿の扉が、静かにノックされた。
カイルが開けた。
そこに立っていたのは、ジェルムだった。随員も連れず、一人だった。
昨日より、顔の表情が少し違う。
「アシダ殿に、もう一度だけ話を聞いてもらえますか」
カイルが俺の方を見た。
俺は立ち上がった。
「どうぞ」
ジェルムが入ってきて、椅子には座らず立ったまま言った。
「両方だ、と言ったら軽蔑するか、と昨日聞いた」
「言いましたね」
「答えがありました。軽蔑しない、と言ってもらった」
「そうですね」
「では」
ジェルムが、昨日より少しだけ低い声で言った。
「両方あった上で——メルダは、今日の査問で保留に動きます。決断ではなく、保留です。自分の目でもう少し見てから、判断する」
俺は何も言わなかった。
言葉を待っているのが分かったから。
「一つだけ」
ジェルムが続けた。
「これは、メルダが計算した結果じゃない。私個人が——まだ、自分の目で見ていないものを、見てみたいと思った結果です」
「……分かりました」
俺は言った。
「あなたのそれは、保留より少し進んでいる」
ジェルムが、今度こそ本物の苦笑いを見せた。
「相変わらず、端的ですね」
「あなたの影響ですよ」
ジェルムが一度だけ小さく笑って、出ていった。
扉が閉まってから、カイルが集計石を開いた。
転送されてくる数字が変わる。
【査問集計:賛成95/反対20/保留13】
「一つ動いた」
カイルが言った。
「ああ」
俺は答えた。
一つだ。
一つしか動いていない。賛成は九十五のまま。過半数六十四まではまだ遠い。共存協定の自動失効まで——カイルが数字を確認しながら言った。
「あと——」
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
毎日昼・夜の2回更新中です。続きが気になったら、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。
もしこの話が面白かったら、☆評価をいただけると本当に助かります。
なろうの評価は日間・週間ランキングに直結するので、1クリックが「次の100話」を書く燃料になります。




