第203話「沈黙の山岳国カレド」
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翌朝の広場は、昨日より人が多かった。
議事広場の外壁沿いに屋台が出ていた。前日の「対話の様子を見た」らしい市民が、それを家族や知人に話したのだろう。弁当持ちで見物に来た親子連れの姿まである。カイルが俺の隣を歩きながら、外壁の人波をちらりと見てから「増えてる」とだけ言った。
「いいことかな」と俺は言った。
「どっちでもある」とカイルは答えた。「観客が増えれば、失敗したときの傷も深くなる」
それはそうだ。
議事堂の側廊に入り、今日の対話相手を確認する。査問会の進行表によれば、本日の名乗り出た国は一カ国。山岳国カレドの代表、ドゥン。表に添えられた簡単な備考には「寡黙を美徳とする民族性。交渉会議での発言回数最少記録を保持。過去三年の連合会議での総発言語数は推定四十語以下」と書かれている。
カイルが横からそれを読んで、眉を寄せた。
「四十語以下って、議会で一度も喋ってないのと変わらない」
「でも名乗り出た」と俺は言う。
「……そうだな」
正午。
側廊に設けられた対話用の小部屋に、カレドの代表ドゥンが入ってきた。
五十代か、六十代か。年齢の読みにくい顔をしている。日焼けではなく風雨で削られた肌の色で、山の稜線を日々見て暮らしてきた人の目をしている。俺の向かいの椅子に座り、背筋を伸ばして、何も言わない。
俺も何も言わなかった。
一呼吸。二呼吸。
部屋の外から、広場の人声が遠く聞こえてくる。
ドゥンは動かない。視線が俺の顔に当たっているのかどうかも、少し曖昧だ。山の景色を見慣れた目は、遠くに焦点を合わせる癖があると聞いたことがある。
「話す必要はないです」と俺は言った。
ドゥンの視線が、ほんの少しだけ動いた。
「ただ、来てくれたことに感謝します。山岳国カレドが名乗り出てくれたのは、俺にとって意外でした」
沈黙。
「なぜ来たか、聞いてもいいですか」
ドゥンが、口を開いた。
「……見たかった」
それだけだった。
俺は少し考えてから、続きを促さなかった。「見たかった」という言葉を、もう少し空気に漂わせておく必要がある気がした。急いで意味を確認しにいくと、言葉が逃げることがある。
十秒ほどの沈黙の後、ドゥンが続けた。
「あなたの話し方を」
「昨日の対話を見ていたんですか」と俺は聞いた。
「聞いていた」
「どう見えましたか」
「……わからなかった」
それは正直な答えだと思った。俺は小さく頷く。
「何がわからなかったか、聞いてもいいですか」
ドゥンは少し間を置いた。山岳の民は言葉を石のように扱うと、どこかで読んだことがある。使うなら、確かな場所に置く。無駄に転がさない。
「危険なのかどうか」
「俺が、ですか」
「……あなたの話し方が」
それは昨日のセルウィンの言葉と似ている。でも、似ていて違う。セルウィンが言うとき、そこには審問の鋭さがあった。ドゥンが言うとき、そこには純粋な疑問がある。
「危険かもしれません」と俺は言った。
ドゥンの目が、少し動いた。
「話を聞くことは、人の考えを変えることがある。それを危険だと呼ぶ人もいる」
「……あなたは、そう思わないのか」
「どちらともいえます。変わった先が良ければいい。変わった先が悪ければ、よくない。でも俺は、変わらなかったときに何が起きるかを、今まで何度も見てきました」
ドゥンが黙る。今度の沈黙は少し長い。
カレドが連合で賛成票を投じた理由を、俺はまだ知らない。知ろうとしてはいるが、聞けていない。名乗り出てきた理由も「見たかった」という言葉一つで、その先はまだ霧の中だ。
「カレドは、迷宮と距離がある国ですよね」と俺は言った。
「……遠い」
「では魔物との直接の摩擦は少ない。それでも賛成票を投じた」
「……法がある」
「連合の決議を守る、ということですか」
ドゥンが頷く。
「それは理由として正しいです」と俺は言った。「でも、それだけじゃないかもしれない、と思って聞いています」
沈黙。
今度は、長かった。
窓から差し込む光が、少しずつ角度を変えている。もう午後になっている。俺はその光がテーブルの端に作る影を、ぼんやりと見ていた。
ドゥンが、口を開いた。
「……山は、変わらない」
俺は何も言わなかった。
「百年前も、千年前も、あの稜線は同じだ。それが良いことだと、私たちは思っている」
「カレドの国として」
「民として。親から子へ伝わる考え方として」
「変わらないことが、正しい、と」
「……ずっとそうだった」
俺はその言葉を受け取る。急がない。ドゥンが次の言葉を見つけるまで、待つ。
「あなたが怖い理由は」とドゥンがゆっくり言った。「あなたと話した者が変わるからではない」
「じゃあ、なぜですか」
「あなたが変えようとしていないのに、変わるから、だ」
俺は少し驚いた。
それは正確な観察だと思ったからだ。俺は誰かを変えようとして話しているわけではない。聞いているだけだ。でも確かに、聞いた相手は変わることがある。
「言葉を惜しむ国が」と俺はゆっくり言った。「なぜ俺の言葉だけを怖がるんですか」
ドゥンが、初めて表情らしいものを見せた。目が細くなる。怒りではなく、正確に言えば——何かを認めるときの顔に似ていた。
「……怖がっているのは、あなたの言葉ではない」
「では何を」
「変わること、そのものを」
部屋の外で、小さな物音がした。
進行役の補佐が廊下を歩いたのだろう。ドゥンの視線がわずかに扉の方へ動き、また俺に戻ってくる。
俺は思っていた。
ドゥンが言ったことは、セルウィンが言ったこととは全然違う。セルウィンは俺を「脅威」として定義してから話している。ドゥンは「脅威かどうかわからない」ところから話を始めて、自分自身の中にある恐れの正体を、この短い対話の中で少しずつ掘り下げてきた。
四十語以下の男が、今日ここで何十語も使っている。
それが何を意味するか、俺にはまだわからない。でも無駄なことではないと思う。
「カレドにとって、変わらないことは美徳だと言いましたよね」と俺は言った。
「……そうだ」
「でも、名乗り出てきた。今日ここで俺と話した。それは、変わろうとしたということではないですか」
ドゥンは長い沈黙の後、答えた。
「……見極めようとした、と言う方が正確だ」
「見極めて、どうでしたか」
「まだわからない」
その正直さが、俺は好きだった。
「まあ、聞いてから判断しよう、というのが俺の習慣なんです」と俺は言った。「あなたも同じことをしているんだと思います。今日ここで、俺の話を聞いてから判断しようとして来た」
ドゥンが少し黙る。
「……そういう言い方もできる」
「カレドが変化を怖れる理由は、わかります。百年かけて作ってきたものが崩れる怖さは、俺にも想像できます。でも俺が聞きたいのは、変わらないでいることで失われてきたものについて、カレドの人たちは今どう感じているか、ということです」
ドゥンの視線が、少し遠くなった。
また山の景色を見る目になっている。
「……若者が、出て行く」
俺は静かに聞いた。
「変わらない山が美しいと思える者は、残る。変わらない山に息が詰まる者は、出て行く。それが止まらない」
「カレドが変わらないことを守ろうとして」
「……守っている間に、内側が変わっていく」
それは、想像していなかった答えだった。
カイルが集計を取っている部屋は廊下を挟んだ向こうにある。この対話の内容は、終わってから俺が報告することになる。今この瞬間、この部屋にいるのは俺とドゥンの二人だけだ。
外の広場から、人の声が遠く届いてくる。
「俺は魔物と話してきました」と俺は言った。「第七迷宮のゴブリンの門番と。封印の管理者と。外から来た者と。彼らもみんな、変わることを怖れていた。でも話した。話した先に、変わることより怖いものがあったから」
「何が、怖かった」
「孤独です」と俺は言った。「誰にも聞かれないまま、消えていくこと」
ドゥンが黙る。
その沈黙は、今日の中で一番重い種類の沈黙だった。
俺は続けた。
「カレドが変わらないことを選び続けた百年の間、誰かに聞いてもらったことはありましたか。その選択が正しいかどうか、確かめる機会は」
「……なかった」
「連合の中で」
「なかった。カレドは小さい。意見を言う場所が、なかった」
「だから法に従うことが、カレドにとっては安全だった」
「……そうだ」
俺はしばらく、何も言わなかった。
ドゥンが言ったことを、ちゃんと受け取る時間が必要だった。小さな国が法に従うことで自分たちを守ってきた、その百年の話を、軽く流すことはできない。
「今日、名乗り出てきてくれてよかったです」とやっと俺は言った。「カレドのことを、俺は今日初めて聞きました。来てくれなかったら、知らないままでした」
ドゥンが、俺をまっすぐに見た。
今日対話を始めてから、初めてそういう目で見られた気がした。
「……あなたは、脅威ではないかもしれない」
「判断は、あなたに任せます」
「今日は、まだ決められない」
「それでいいです」
ドゥンが立ち上がった。椅子を引く音が静かな部屋に響く。扉の方へ歩きかけて、ドゥンが振り返った。
「一つだけ聞いていいか」
「はい」
「あなたは——なぜ怖くないのか」
俺は少し考えてから、正直に言った。
「怖いです。今日も怖い。ただ聞かないともっと損だと思っているので、怖くても聞きます」
ドゥンが、何秒か俺を見ていた。
それから、何も言わずに扉を開けて出て行った。
カイルが集計の更新をリアルタイムで転送してきたのは、ドゥンが退室してから三十分後のことだ。
俺が廊下に出てカイルと合流したとき、カイルは手元の記録板を見ながら「保留が増えた」とだけ言った。
【査問集計:賛成96/反対19/保留12】
賛成が一つ減っていた。カレドが、賛成から保留へ動いた。
「保留は、反対じゃない」とカイルが言う。
「そうだな」
「でも動いた」
「動いた」
カイルが少し黙ってから、「どんな話をしたんだ」と聞いてきた。俺は廊下の壁に背を預けながら、短くまとめて伝えた。「変わらないことを怖れている国だと思っていたら、変わることを一番したかった国だったかもしれない」という話を。
カイルが「……そういうことか」と呟く。
「どういうことだ」と俺が聞き返すと、
「俺もそうだった」とカイルは言った。「最初、お前のことを怖がった理由が、そこだったのかもしれない。変わることが、怖かったんじゃなくて——変わっていく自分が、止められないことが」
それは今まで聞いたことのない言い方だった。
俺は何も返さなかった。返す必要がない言葉だと思ったから。
広場の方から、また人の声が流れてくる。明日も誰かが名乗り出てくるだろう。
カイルが集計の板をしまいながら、「ところで」と口を開いた。
「今日の件で、気になることがある」
「何が」
カイルの表情が少しだけ硬くなった。感情を抑えようとしているときの顔だと、俺はもう知っている。
「カレドが名乗り出る前に、一度名乗り出ようとして引っ込めた国がある。カレドに先を越されたやつだ」
「どこだ」
「商人国メルダ。さっきの集計では、まだ賛成のままだが——」とカイルが言いかけて、少し間を置いた。
「あの国の代表は、対話の後で俺にこっそり言ってきた。『明日、もう一度名乗り出たい。だが、一つだけ教えてくれ』と」
「何を教えてくれって」
カイルが俺を見た。
「『あの男は、利益と恐怖、どちらを本当の理由だと思って動いている人間か』——だそうだ」
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