第202話「最初に名乗り出た国」
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セルウィンが「名乗り出る国など、あるものか」と言い放った瞬間から、俺はずっと待っていた。
広場が静まり返る。
万単位の市民が詰めかけたヴァリスの議事広場は、すり鉢状の石造りで声がよく響く。中央の演壇に立つ俺の頭上には青空が広がっているのに、なぜか気圧が重い。視線の重さというのはこれだけ人数が増えると物理的な圧力を持つものだと、今日初めて知った。
百二十七の国旗が風にはためいている。
各国代表が雛壇状に並ぶ席は、高い位置に設けられていた。俺は低いところに立っている。これも演出の一部なのだろうと思う。見下ろされる側に立たせる。それだけで心理的な優位を確保できる。
セルウィンのやり口は、ていねいだ。
「静粛に」
査問官セルウィンが短く言うと、ざわめきが収まる。彼の声には訓練された通りの良さがある。三十代後半か四十代か、判断の難しい見た目で、灰色の法衣が似合っている。
「——被指定者の要求に従い、本査問会は各国代表が希望する場合に限り対話の機会を設ける。ただし対話の成否は票には影響しない」
最後の一言が余計だった。影響しないと断言することで、影響するかもしれないという可能性が逆に広場全体に知れ渡る。セルウィンが有能なのはわかっているが、この点だけは言わなければよかったと思う。
静寂が続いた。
十秒、二十秒。
雛壇の席を左から順に眺める。百二十七の代表たちは微妙に視線を逸らす。最初に手を挙げるのは目立つ。目立つのは怖い。そういう構造だ。
だから、手が挙がったとき、俺は少し驚いた。
「——申し出ます」
声は小さかった。だが広場の石造りが拾って、はっきり響かせた。
席の右端の方から、代表が一人立ち上がっていた。小柄な老人で、国旗が見当たらない——いや、あった。端の端、ほとんど目立たない位置に小さな旗が立っている。旗の模様は見たことがなかった。
「オルテ、代表のアダンスと申します」
オルテ。
俺は昨夜、カイルが用意してくれた資料を頭の中でめくる。辺境の小国。人口は少ない。王国管轄外の地域にある自治国家で、連合内での発言権はほぼない。軍事力も、経済力も、特筆すべき要素がない国として、資料の中では二行しか書いてなかった。
「アダンス代表」とセルウィンが確認する。「本査問において——」
「わかっています」
老人が遮った。声は穏やかだが、芯があった。
「時間を取っていただければ十分です」
老人と俺は、広場の端に設けられた小さなブースに移った。公開という名目だから仕切りはなく、会話はすべて傍聴席に聞こえる状態だ。老人は椅子に腰を下ろし、両手を膝の上で組んだ。
俺は正面に座る。
「まあ、聞いてから判断しよう、というのが俺の口癖なんですが」
「知っています」
老人が微かに口の端を動かした。
「あなたのことは、かなり前から話に聞いていましたよ。第七迷宮の調停者。魔物と話す門番。人類最大の脅威」
最後の言葉は皮肉に聞こえなかった。事実を列挙しただけのような口調だった。
「オルテが最初に手を挙げてくださった理由を、聞かせてもらえますか」
老人は少し間を置いた。その間の使い方が、話し慣れた人のそれだった。
「打算です」
俺は黙って待つ。
「最初に話した国として記録に残れば、少なくともオルテの名前は議事録に刻まれる。百二十七国の中で、我々の国が記録に残る機会など滅多にない。打算以外の何物でもありません」
「それは正直な答えです」
「正直なだけです。立派な理由ではありません」
俺は少し考えてから言った。
「俺の一番最初の交渉相手は、ゴブリンでした」
老人が微かに眉を動かした。
「夜中に扉をノックしてきたんです。「話を聞いてほしい」と言って。そのゴブリンも、打算で来ていましたよ。住む場所がなかったから、俺に頼めば助けてもらえるかもしれないと思って来た。打算です。でも俺は聞きました」
「……なぜ」
「聞かないと損だと思ったので」
老人が、今度ははっきりと笑った。しわの多い顔が、ゆっくりと和らぐ。
「あなたは変な人ですね」
「よく言われます」
「聞いてもいいですか」と老人が言う。「あの——逆に聞かせていただきたいのですが」
「どうぞ」
「オルテは、長年ずっと「どうせ声は届かない」と思ってきました。小さい国ですから。連合の会議では議長国の意向に従い、反対できず、従っているだけで百年が過ぎた。今回もそうするはずでした」
老人の声が、少し低くなった。
「それが、なぜ今日——最初に手を挙げたと思いますか」
俺は考えた。
正直に答えようと思った。
「あなたが打算で動いたのは確かだと思います。でも打算だけで、あの場で最初に手を挙げるのは難しい。周りの目がある。大国の顔色がある。百二十七国のうち九十七国が賛成している状況で、最初に手を挙げるのは——勇気がいる」
「……そう、でしょうか」
「そう思います」
老人が長い間、俺を見ていた。
「あなたに言われると、不思議と信じてしまう」
「なぜですか」
「聞き方が——」老人は言葉を探すように天を見た。「あなたは私の話を否定しない。「打算ではないはずだ」「本当は立派な理由があるはずだ」と言わない。打算でいいと言う。それが、妙に」
老人がまた口元を動かす。
「ほっとするんですよ」
傍聴席から、小さなざわめきが起きた。
俺は気づかないふりをした。大きな声で届けようとしても、届かない。届くときは静かに届く。ゴブがそれを最初に教えてくれた。いや、ゴブというよりあの夜の扉の向こう側が教えてくれたのかもしれない。
「オルテは、魔物の溢出被害を受けたことがありますか」と俺は聞いた。
「ありません。迷宮が遠い地域ですから」
「では、魔物との共存協定が失効したとして、オルテへの直接の影響は」
「ほとんどないでしょう」
「それでも、賛成票を入れていた」
「……連合の意向ですから」
老人の声が、少し沈んだ。
「我々のような小国は、大国の意向に反することができない。反対票を入れれば、次の会議で発言権を制限される。援助が止まる。取引が不利になる。そういう仕組みで動いていますから」
「怖かったですか」と俺は聞いた。
「何が」
「大国に逆らうことが」
老人はしばらく黙っていた。広場の風が吹き抜ける音がした。
「……子供のころから、そういう国で育ちました。怖い、という感覚すら、持ち方を忘れていたかもしれない」
俺は頷く。
「怖い、を忘れた状態で賛成票を入れ続けるのは、怖いから入れるより、たぶんきつい」
老人が顔を上げた。
俺は続けた。
「怖くて賛成したなら、それはまだ自分の気持ちがある。でも仕組みで動いて、自分の気持ちが入らないまま賛成していたなら——それは」
「……虚しい」
老人が言った。俺が言う前に。
「虚しい。そうです。あなたは、言葉にするのが早いですね」
「違います。アダンス代表が言葉にしたかったのを、俺が少し急がせてしまっただけです」
老人がまた笑った。今度は声に出して。小さな笑いだったが、傍聴席に届いた。
「聞いていいですか」と俺は言った。「今、オルテとしての意思は、どこにありますか」
老人は真剣な顔になった。
考えている。本当に考えている顔だった。
「……脅威だと思ったことは、ありません」
「俺が、ですか」
「あなたと、魔物との共存協定が。直接の被害もなく、恩恵もなかった。ただ「そういうものが三年続いた」という認識しかない。それが正直なところです」
「わかりました」と俺は言った。
「では、賛成票の根拠は」
「大国の意向と——怖さ、ですかね。あなたが脅威だという怖さではなく、ここで逆らったときに何が起きるか、という怖さです」
俺は頷いた。
「その怖さは本物だと思います。無視できない。でも、その怖さが「何に向いているか」を、自分で把握できているというのは、大事なことだと思います」
「……そうですか」
「知らないまま怖がるのと、何を怖がっているかわかって怖がるのは、違う」
老人がゆっくりと息を吐いた。
「あなたと話していると」と老人が言う。「自分が何に怖がっていたかが、少し見えてくる気がする」
「それは、アダンス代表がちゃんと考えている人だからです」
「お世辞が上手い」
「本当のことです」
「……証明できますか」
「打算でも手を挙げられる人間は、考えている人間だけです」
老人がまた黙った。長い沈黙だった。
広場全体が静まり返っている。百二十七の代表が、万を超える市民が、この二人の会話を聞いている。俺はそれをなるべく意識しないようにしていた。意識した途端、俺はアダンス代表ではなく「群衆」と話してしまうことになる。
老人だけに向けて話す。今ここで話したいのは老人だけだ。
「一つ、お願いがあります」と老人が言った。
「どうぞ」
「私の答えを、聞いてもらえますか」
「もちろんです」
老人は背筋を伸ばした。小柄な体が、少し大きく見えた。
「オルテは——保留に変えます」
「ありがとうございます」
「お礼を言われることはしていません。私は打算で来て、自分のために決めた。それだけです」
「それだけで十分です」と俺は言った。
老人が席に戻る。
傍聴席のざわめきが、今度はしばらく続いた。
カイルが俺の近くに来て、通信石から集計を読み上げる代わりに、紙に書いて渡した。広場全体に聞こえないようにする配慮だった。
【査問集計:賛成97/反対19/保留11】
一票。たった一票。
数字だけ見れば微々たるものだ。セルウィンはそう言うだろう。実際そう言いたそうな顔をしている。
だが俺は、この一票の重さを知っている。
怖い、を忘れて賛成し続けていた老人が、自分で何に怖がっているかを言葉にして、そのうえで「脅威だと思ったことはない」と言った。その言葉は、傍聴席の万単位の市民が聞いている。
「……一票で何が変わる」
セルウィンが静かに言った。演壇の近くまで来ていた。
「一票変わりました」と俺は言った。
「数字上の意味は」
「これから増えます」
「確信があるのか」
俺は少し考えた。
「確信はないです。でも、オルテの代表が手を挙げた。それは見えた」
セルウィンが眉をわずかに動かす。
「あなたは——本当に、動じない人間ですね」
「動じています。胃のあたりが、かなりきつい状態です」
「それは見えない」
「見せていません」
セルウィンが、かすかに口を結んだ。何か言いたそうで、言わなかった。
俺は雛壇を見上げた。百二十七の代表たちが、様々な表情をしている。オルテのアダンス代表が席に座り直すところが見えた。小さな老人が、背筋を伸ばして前を向いている。
明日、また誰かが手を挙げるかもしれない。
挙げないかもしれない。
まあ、聞いてから判断しよう。
俺は心の中でそう思いながら、演壇に戻る前にもう一度、傍聴席を見渡した。そのとき——視線が、一か所に止まった。
後方の高い段に、目立たない位置で立っている人物がいた。法衣でも代表の服装でもない。質素な濃灰色の外套。フードを少し被っているが、顎のラインが見えた。女性だ。
こちらを見ている。
ただ見ているだけで、何もしない。
けれど、その視線には、ほかの傍聴席の市民にはない何かがあった。感情の圧力、とでも言えばいいか。他の人々がこの査問を「見物している」とすれば、あの人物は「測っている」目をしていた。
次の瞬間には人込みに紛れて見えなくなった。
俺は演壇に戻る。
カイルが小声で「どうした」と聞いてきた。
「後方の客席に、一人気になる人物がいた」
「どんな」
「判断できなかった。見えなくなった」
カイルが後ろを見る。もう見えない。
「続きは後で」と俺は言った。「今は次の手を考える」
カイルが頷く。
集計の紙を、もう一度確認した。
【査問集計:賛成97/反対19/保留11】
九十七。まだ九十七。
過半数の六十四まで、三十三票を切り崩さなければならない。
だが、最初に名乗り出た国があった。
それでいい。今日は、それだけでいい。
——ただし、後方の客席の女性が気にかかったまま消えない。
あの目の色を、俺はどこかで見たような気がした。どこで、とは思い出せないが。
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