第201話「一対一を取り戻す」
---
朝が来た。
ヴァリスの議事堂は、夜のうちに別の生き物になっていた。
広場に積み上げられた仮設の傍聴席。階段を埋める市民たち。石畳の継ぎ目から生えた露店の匂い。その全部が、すり鉢状の円形議事堂を底から押し広げるように取り囲んでいた。
俺はカイルと並んで石段の下に立ち、その光景を見ていた。
「……人が、多いな」
カイルが低い声でそう言った。それだけだった。
俺も何も言わなかった。
一万。いや、もっと多いかもしれない。広場に溢れた市民の顔には、祭りの前夜のような熱気と、それとは別の何か——熱気の中に溶けた、怖さのようなもの——があった。
俺の顔を知っている人間は、ここにはほとんどいない。
広場の四隅に立て掛けられた《人類最大の脅威・第一号》の似顔絵は、昨日の市場で見たものより一回り大きく刷り上げられていた。顔の輪郭が四角い。目が吊り上がっている。髪が炎のように描かれている。
俺は自分の髪に触れた。
薄茶色の、どこにでもある色だ。
「あの絵、炎みたいな髪だな」
「……指摘するな。惨めになる」
カイルが息を吐いた。「脅威」という看板の前で、俺たちはそんな話をしていた。
議事堂の内部は、外より静かだった。
127の席が弧を描いて並び、その弧の中心、一番低い位置に証人台が置かれている。直径にして二十歩ほどの石の床。昨日の小部屋での査問とは比べものにならない広さだった。傍聴席は議事堂の外にまで連なり、結晶石を通じた中継が広場の四隅で音声を流すらしい。
俺の声は今日、この都市全体に響く。
「……考えすぎるな」
カイルが横から言った。
「考えてない」
「顔に出てる」
「そうか」
石の床に足を踏み出した。靴底が乾いた音を立てた。
議長席のオルディーンはすでに着席していた。昨日より背が高く見えた。それは席の位置のせいではなく、この場の重みを知っている人間だけが持つ、ある種の落ち着きのせいだと思う。
査問官セルウィンが立ち上がった。
「人類連合査問会——公開大査問会を、開会する」
声が石の天井に吸い込まれ、結晶石を通じて外へ流れていく。広場がわずかに静まる気配を、俺は背中で感じた。
「被告人レン・アシダ。《人類最大の脅威》第一号指定に対し、弁明の機会を与える。全127国の代表、および傍聴市民の前で——」
俺は証人台に立って、セルウィンの言葉を聞いていた。
聞きながら、考えた。
群衆というのは、一つの生き物に似ている。恐怖が伝播するとき、それは個人から個人へではなく、空気そのものが入れ替わるように動く。
「——弁明を開始せよ」
セルウィンが視線を向けた。
俺は一度、息を吸った。
「弁明の前に、一つだけ確認させてください」
「……なんだ」
「この場には127国の代表が来ている。私への判断を下す前に、皆さんがどのような理由で処分を支持しているのか——まず俺が聞かせてもらいたい」
議場が、微妙にざわついた。
セルウィンの表情は変わらなかったが、眉の端が僅かに動いた。
「聞く? 弁明でなく?」
「はい。弁明はその後でもできます。でも、何を皆さんが恐れているかを知らないまま話すのは——お互いの時間の無駄だと思う」
「……それは、被告人の権限の範囲外だ」
「規則はどこに書いてありますか」
「何?」
「「被告人は弁明のみを行い、質問してはならない」という条項を探してほしい。昨日一日、俺はカイルと一緒に規則を読みました。見当たらなかった」
セルウィンが口を閉じた。一秒。二秒。
傍聴席から、声が上がった。
「……公正な機会を与えると言ったのに、制限するのか」
どこかの席からだった。一人ではなく、二人、三人と連なるように広がっていく。外の広場からも、結晶石越しに同じ空気が流れ込んでくるのがわかった。
セルウィンが顔を上げ、傍聴席を一望した。
「……わかった。条件を設ける。各国代表との対話は、代表本人が希望した場合のみとする。強制はしない。名乗り出た国のみ」
「ありがとうございます」
「期待するな。名乗り出る国など——」
セルウィンが続けようとした、その瞬間だった。
議場の弧の端の方で、一つの手が上がった。
俺はその手の方を見た。
小さな国だと、見ただけでわかった。席が隅の方にある。代表の男は四十がらみで、背丈はあるが肩幅が薄い。隣国に挟まれた辺境の小国に特有の、少し縮こまった座り方をしていた。
「……オルテ共和国代表、発言を求める」
セルウィンが一瞬固まったのが、俺の位置からでも見えた。
「——許可する」
オルテの代表は立ち上がり、俺を見た。
「私が最初に話す」
「理由を聞かせてもらえますか」
「打算だ」
正直な答えだった。俺は少し好きになった。
「一番最初に話せば——あなたは俺の話を一番よく聞いてくれる。そうじゃないか」
「……まあ、聞いてから判断しよう」
俺は答えた。「順番に関係なく、全部聞きます」
「信用できるか」
「今日、試してみてください」
オルテの代表が、ゆっくり席を立った。
俺たちはその場で向かい合った。証人台と代表席の間は、歩いて十歩ほどの距離がある。本来なら代表が席に座ったまま質問し、被告人が答える形だったのだろう。でも自然と俺たちは近づいた。その方が話しやすいから、という単純な理由で。
「オルテは、どこにある国ですか」
「——大国三つに挟まれた、盆地の国だ。山が険しくて、迷宮がない」
「迷宮がない国が、なぜ処分に賛成したんですか」
オルテの代表の口元が動いた。答えを探しているのではなく、どこから話すか選んでいるような間だった。
「大国が賛成すれば、うちも賛成する。それだけだ。正直に言えば——俺はあなたを脅威だと思ったことはない。だが、大国と逆らえる立場でもない」
「今、逆らっているように見えますが」
「……最初に名乗り出れば、一番よく覚えてもらえる。それがオルテにとっての得だと計算した。だから来た」
「計算は正しいと思います」
「処分が撤回されれば、最初に声を上げた国として記録に残る。撤回されなくても——まあ、損はしない」
「損得で動ける人は、話が早い」
俺がそう言うと、オルテの代表は少し目を細めた。
「あなたは、どうやって魔物と話したのか」
「聞いたんです。向こうの事情を」
「怖くなかったか」
「怖かった。でも、聞かないと何もわからない。それだけです」
「……それだけ、か」
オルテの代表は少しの間、床を見ていた。
「うちの国にも、事情がある。大国に挟まれて、声が届かない事情が。ずっと聞いてほしかった」
「聞かせてください」
「——今日は、それだけで十分だ」
オルテの代表が顔を上げた。
「保留に変える。処分には、まだ賛成できない」
議場がざわついた。セルウィンが何か言いかけ、口を閉じた。カイルが手元の集計板を操作する音が聞こえた。
少し後で、カイルの声が俺の耳元に届いた。
「——送る」
結晶石越しの通信だ。
俺は胸ポケットに入れた石を通じて、数字を受け取った。
【査問集計:賛成97/反対18/保留12】
一票。動いた。
セルウィンが議場を見渡した。
「——次に名乗り出る国は」
広場の市民たちは、今この一問一答を外で聞いている。何万という人間が、オルテの代表が「事情がある」と言ったのを聞いた。
打算からでも、恐怖からでも、怒りからでも——構わない。
理由がある人間は、理由を聞けば動く。
問題は、理由を話す前に結論を出すことに慣れてしまった人間をどうするかだ。
俺は証人台に立って、次の手が上がるのを待った。
寒くはない。石の床は硬いが、足の裏に伝わる感触は確かだった。これだけのことをここに立ってやっている、という感覚が、その感触を通じて体に届いてくる気がした。
「……次は、ない」
セルウィンが言った。
「今日は一国だけか」
「焦る気はないです」
「余裕ぶっているのか」
「いいえ」
俺は正直に答えた。
「90日以内に過半数を切らせる必要がある。でも最初の一日で一票動いたのは、悪くない始まりだと思っています」
「一票では何も変わらない」
「三年前、最初に俺の小屋のドアをノックしたのもたった一匹のゴブリンでした」
セルウィンが黙った。
議場に沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、俺は昨日カイルが言った言葉を思い出した。
——怖いまま聞いてもらえる。それがお前のやり方が始まる場所だ。
小屋に最初に来た夜のゴブが、三年越しでこの石の床まで繋がってくるような感覚があった。
「——本日の審議を、ここで終了する」
オルディーンが初めて口を開いた。声は静かで、低かった。議長として決して多くは話さない人間だとわかる、そういう声の使い方だった。
「明日以降も同形式で進める。名乗り出た国が優先。時刻は同じ。異論は」
反応はなかった。
「——なし。以上」
鐘の音が鳴った。
議場が動き始め、代表たちが席を立ち始める。傍聴席のざわめきが一気に大きくなる。外の広場からも人が動く気配が届いてくる。
俺は証人台の上で、その全部が動くのを眺めていた。
カイルが隣に来た。
「一票だ」
「わかってる」
「97から96にするだけで、まるまる一日かかった」
「知ってる」
「残り33票以上。残り89日」
「計算はできてる」
カイルが息を吐いた。「……じゃあ、何を考えてる」
俺は少し考えてから答えた。
「セルウィンが「名乗り出る国などあるものか」と言いかけた」
「言ったな」
「言えなかった、ということは——言い切れなかった、ということだ」
カイルが「……なるほど」と低く言った。
「今日、名乗り出た国は一つだった。でもセルウィンは止めることができなかった。次は二つ名乗り出るかもしれない。三つかもしれない」
「「止めれば公正でない」という空気を作ったからか」
「作ったんじゃない。最初からそういう空気だった。俺はそれを利用させてもらっただけだ」
「……お前のそういうところが、怖がられる理由な気がする」
「そうかもしれない」
俺は証人台を降り、石の床を歩き始めた。
靴底が鳴る音が、誰もいなくなり始めた議場に響いた。
「明日、何国か名乗り出てくれれば——もう少し早く動く」
「名乗り出なかったら」
「一国ずつ、こっちから声をかける方法を考える。まあ、聞いてから判断しよう」
カイルが「……それでいい」と言った。「それだけが、お前の武器だ」
出口の石段を登りながら、俺は振り返らなかった。
ただ、背中に感じた。
一万の人間が聞いた。一国が話した。一票が動いた。
それだけのことを、今日一日でやった。
数字は、まだ大きな壁の向こうにある。
でも壁に向かって歩いていると、壁に穴が開いた日の音を覚えている。
三年前の夜、小さなゴブリンがドアをノックした音を、俺は今でも覚えている。
外に出ると、広場の群衆が波のように動いていた。
俺の顔を知る人間は、やはりほとんどいなかった。
似ていない似顔絵の横を通り過ぎるとき、横の男が連れの女に言うのが聞こえた。
「——あの脅威の男。今日、どんな奴だった」
女が少し考えてから答えた。
「…話を聞いてた。ただ、聞いてた」
「それだけか」
「それだけ」
俺はそのまま歩いた。振り返らなかった。
カイルが追いついてきて、隣を並んで歩いた。
「明日の相手はどこだと思う」
「来てみないとわからない」
「予想くらいしろ」
「まあ——聞いてから判断しよう」
「その答えを予想してた」
カイルが、珍しく笑った気がした。
宿に向かう石畳の道を歩きながら、俺は今日動いた一票の重さを確認するように、何度か足の裏に力を込めた。
89日。32票以上。
長い。でも始まりは、いつも小さかった。
「カイル」
「なんだ」
「ゴブに、今日の話を送ってくれ」
「何を」
「一票動いた、と。それだけでいい」
カイルが少し間を置いてから、「わかった」と言った。
第七迷宮の門の前で、ゴブが今日も立っている。
その想像が、石畳の感触と一緒に、俺の足の裏に届いてくる気がした。
明日また、あの石の床に立つ。
次に手を挙げる国があれば聞く。なければこちらから声をかける方法を考える。
それだけだ。
それだけを、続ける。
「——明日も来い」
独り言のように言った言葉が、夕暮れのヴァリスの石畳に溶けた。
答えを返す人間は、誰もいなかった。
ただカイルが、何も言わずに隣を歩き続けた。
それで十分だった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
毎日昼・夜の2回更新中です。続きが気になったら、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。
もしこの話が面白かったら、☆評価をいただけると本当に助かります。
なろうの評価は日間・週間ランキングに直結するので、1クリックが「次の100話」を書く燃料になります。




